第二十三話 失われた庇護

 西白国さいはくこくは律令によって統治されているが、実質武断国家に近い。

 というのも西白国の主神である白帝はくてい自身が武神であり、西方大陸は武力によって統一されたという歴史を持っていた。今でこそ律令などという決め事があるが、この国が始まった頃は武力が全てだったという史書も残っている。それらを紐解いても未だ才子さいしが何であるかの合理的な説明は不可能だが、それでも、彼らは殆どの民草とは一線を画した人生を強いられている。

 その、激流の人生において文を届ける相手の顔までも知れる能力などあっては苦悩は増すばかりだ。白帝の最低限の配慮なのだろうと文輝ぶんきなどは勝手に思っている。

 それでも、文輝は確かに不審に思っていた。「小戴しょうたい」を知る誰かから届いたとしか思えない伝頼鳥てんらいちょうの向こうにとう華軍かぐんの姿が透けて見えて、何かの図り事かと思った。

 あの日、岐崔ぎさい動乱のただ中で文輝の直刀ちょくとうは華軍の胸を刺し貫いた。その感触は幾ばくか薄れたが、決して忘れることはないだろう。四年の歳月が流れても、文輝は瞼の裏にあの日を思い出してしまう。

 この世に生まれた命は等しく巡る。人の道、獣の道、草木の道、数えきれないほどの道を巡り、そうして命の答えを得たものから順に昇華する。それまでの間、命は姿かたちを変えて巡り続ける。それが五書ごしょ礼経らいきょう」によって説かれた西白国の宗教観だ。

 死ねば巡る。

 人の命の次に人に生まれるかどうかは誰も保証しないし、何らかの法則性があるわけでもない。

 巡る前の命のことを覚えているかどうかも定かではない。

 何しろ、文輝は「巡ったもの」と会ったことがないのだから、明確な答えが得られる道理もない。

 生まれて初めて「巡ったもの」として文輝の世界に現れた華軍だったもの――夕明せきめを伴った委哉が鳥を送った、という暴論は暴論であるにも関わらずただそれだけで信憑性を伴っていた。

 人というのはあまりにも埒外であればあるほど、疑おうという気が失せるらしい。

 文輝の中で、委哉の筆跡は夕明に教わったのだろうという推論が美しく成立してしまった。

 それを察した子公しこうが役にも立たない文輝を放置して建設的な問題の解決に乗り出す。

 緊急事態にあって子公の言動の方が正しいのだろう。文輝はそれと理解しながらも思い出という感傷の沼の中に足を突っ込んでしまった。いつもそうだ。肝心な場面で文輝の緊張感は役割を放棄する。それでも、文輝は知っている。文輝は一人ではない。一人ではないのだから、それぞれが必要とされる場面も違う。今少し、文輝には寂寥感に流される権利がある。状況はまだ文輝を必要としていない。

 だから。

 だから、委哉の横に伏した夕明の向こうに過ぎ去った昨日を照射しながら、子公と委哉が建設的な話をしているのを遠く聞いていた。

 委哉が子公の悪口を不快に思った様子もなく彼なりに必要だと思った言葉を投げかける。それでも彼はまだ子公の名も知らない。


「無駄ではないのではないかな、えっと――」

「子公だ。貴様が真に怪異であるのなら位階など何の意味もない。好きなように呼び捨てるがいい」

「では子公殿。僕からあなたたちへ一つ提案があるんだ」

「聞くだけは聞こう」


 子公というのはそういうものの言い方を好む男だ。

 聞くだけは聞く。その後のことは確約しない。それでも真に必要だと思うのであれば、子公を動かせるだけの説得をしろ。そういう尊大なことを何の躊躇いもなく言う。

 生まれについて子公は何も明言しないが、彼の一挙手一投足は雄弁に高貴な身の上であることを物語った。他人に何かを強要することに抵抗を覚えないだけの立場で生まれ育った。その代わりに彼が支払ったもののことについて、文輝は未だ何一つ知らない。知らないからこそ思うのだ。この数奇な運命を共にする相棒が柯子公であったことがそもそもの僥倖だ、と。

 その、尊大を受けて委哉が当意即妙という顔をした。

 なるほど、自らを怪異と称するだけのことはある。委哉もまた一般常識とは縁遠い存在なのだろう。どちらが先に言質を取るのか、というのが本題になりつつあるのを感じ、ならばやはり文輝はこの駆け引きに不要な駒であると判じる。

 好機とばかりに委哉が自らの主張を掲げるのを聞いて、文輝は納得に近い感情を抱いたが子公が同じものを得るのには数手不足であるらしい。言論の言論による論争が続いた。


「あなたたちの上官に宛てて、本隊の渡航を半月ほど待ってくれるよう文を書いてほしい」

「期日の根拠と我々の利を説いてもらおうか」

「根拠かぁ。僕たちが今まで対峙してきた経験則から来るものだから、はっきりと説明が出来るわけじゃないんだ」

「ならばせめて我々の利だけでも明確にしろ」

「忘却と失念に浸食される犠牲者を無駄に増やしたいのなら僕たちは止めないけれど?」


 笑みと呼ぶには些か狂暴すぎる手合いの表情を纏って委哉は「善意」を主張した。その言葉の向こうには何らかの根拠がある。根拠はあるが、それを言葉を尽くして丁寧に説明するつもりはない、と同時に伝わってきた。おそらく、それこそが経験則から来るものなのだろう。

 そして、同時に彼はこう言っているのだ。


「貴様の中では渡航してきた本隊は怪異の影響から免れることは出来ない、と確定しているわけだな」


 子公もまた確認の形をした確信を伝える。

 委哉の顔面に輝きが満ちるのを視認して、そうして文輝は二人の中にある「根拠」の部分が理解出来ないでいることに幾ばくかの焦燥を覚えた。


「委哉、待ってくれ。なら、俺たちは『どうして怪異に浸食されていない』んだ?」

「奇跡的な出来事が起きている、という大前提の上で話すけれど、あなたたちは多分、僕たちに近いのじゃないかな」


 文輝と子公は白帝の庇護が薄い存在である、と委哉は言う。

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