第七話 懐かしい呼び名
というより、彼は容疑者が見つからない、ということを前提として話していることに
誰だ。
では誰だ。
誰が四年も前の感傷を引きずっているのだ。
その後ろ向きの感情に引きずられそうになりながら、文輝は必死に足を踏み止める。ここで心を乱せば送り主の思うがままだ。正体の見えない場所から高みの見物と洒落込んでいる相手の思うつぼになぞなってたまるか、と思う。
そして、文輝は子公の言葉を思い出した。
「子公、筆跡鑑定にはもう出したのか」
「いや、まだだ。貴様が目を通したい、と言い出すと思ったのでな」
「お前、本当に仕事だけはするよな」
「公私混同甚だしい貴様に言われても何の誇りにもならん」
つっけんどんな口調だったが、文輝の反応を評価する響きがあった。
副官でありながら、上官の文輝のことを「貴様」などと呼ぶのはこの国がどれだけ広くても子公一人だけだろう。その特権を文輝は子公に許した。不遜と切り捨てることも無礼と詰ることもせず、子公の呼びたいようにさせている。その不自由な自由を子公がどう思っているのか、文輝は正確には把握していない。
それでも。
今はそれを精査している場合ではない。
文輝は今、自分がすべきことの一端を掴んだ。
「子公、行くぞ。鑑定に出すまでに一度書簡を見たい」
「見れば何かわかるのか」
「その答えは見てみないことには出ねーだろ」
何ごとも成そうとしなければ成らない。そのことを今一度噛みしめながら文輝は言った。眉間に皺を寄せたまま、それでも子公が息を吐く。紫水晶の奥で何かがきらりと輝いた。知っている。こういう顔をしているときの子公は愛刀と同じぐらい役に立ってくれる。
四年前。
あの日、あの秋の日。文輝の身に唐突に降りかかった厄災のことを忘れたわけではない。
あの日の混沌を知っている誰かが湖水の向こうから文輝を呼び寄せようとしている。その先が泥沼か死地かなのは間違いがない。それでも、文輝を呼んだ誰かのことを無視出来るほど文輝は図太くなれなくて、そうして腹を括った。
そんな文輝に気付いた子公が呆れた顔で溜息を吐く。
「全く『小戴殿』の勤勉さには実に感心させられるものだ」
「嫌味を言えるならまだ大丈夫だな」
「何の話かわからんな」
白を切ろうとする子公を視界の正面に捉えて、文輝はそうして自らの副官に微笑みかけた。それを視認しただろう子公の眉間の皺がほんの少しだけ薄くなったような気がしたが、確証はない。
知っている。今から文輝が選ぶ道は最も険しい道だろう。関わりたくないのなら、何もわからぬ顔をして文輝の上官に丸投げにすればいい。
なのに文輝はどうしても、自らに投げられたものを受け取る道以外を選べなかった。
そういう文輝を馬鹿だと評しながら、それでも子公もまたそういう馬鹿のことを信じようとしている。文輝も子公も方向性こそ違っていたが、馬鹿に違いなかった。
「子公、昔話が聞きたいのならそう言え。俺は別に隠し立てしなきゃならんことは何もしていない」
「ふん。まぁ、気が向いたら聞いてやっても構わん」
「どっちがあるじなんだかわかりゃしねーな、本当」
取り敢えず、まぁ急いで戻るか。
言って小走りで回廊を駆け出した文輝の背の向こうで「馬鹿もの、回廊を走るやつがあるか」という声が聞こえたが、ことは急を要している。非常事態宣言だ、と軽口を叩いてなお小走りを続けると今朝聞いた中でいっとう大きな溜息が聞こえて、一拍ののちに足音がもう一つ響き始める。
文輝の平凡で、非凡な人生の新しい朝がまたしても残酷な運命を告げようとしていた。
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