第五話 伝頼鳥

 ここからは文輝ぶんきもただの武官に戻る。文輝の署名を待っている書簡、竹簡。伍長ごちょうたちとの連絡に明日からの遠征の準備。これらが始まってしまうと文輝はもう茶房さぼうである阿薫あくんと話す時間などない。

 執務室につながる回廊で子公しこうが大きな溜息を吐き出す。


「この大馬鹿もの。また年若い姑娘むすめをからかって遊ぶのはいい加減にしたらどうだ。浮名を流したいわけではないのだろう、『たい校尉こうい』」

「お前さんは姑娘くーにゃんの側だからな。万事四面四角で疲れないのか?」


 それとも若干二十二で枯れたか。

 揶揄いの言葉を投げると脊髄反射並みの速度で肘鉄が文輝の鳩尾を強打する。が、生憎武官である文輝にとって幾ら弱点である鳩尾を狙われたと言っても所詮は子公の力加減だ。痛くも何ともならない。寧ろ、文輝の腹筋に跳ね返された分、子公の方が痛みを味わっている。


「貴様はもう少し真面目さを持て、と何度言えば理解するのだ」

「俺? 真面目にやっているじゃないか。水汲み」

「そのうち修羅場に陥っても、間違っても、私を頼んでくれるな。大馬鹿もの」


 子公が言っているのはもう少し人付き合いの方法をよく考えろ、ということなのだが、文輝にしてみれば子公の方が不器用な生き方をしていて息苦しそうに見える。それに、文輝にも真面目さが皆目ないわけでもない。真面目に人付き合いの方法を考えて、難しい理屈を揃えようとして頭痛に見舞われて、その結果文輝が決めただけのことだ。不真面目に見えたとしても、文輝は自分自身と真面目に向き合っている。九品きゅうほん直系の三男である文輝がその肩書に相応しいだけの実利を得る為に必要な努力の量は並大抵ではないだろう。長兄や次兄のように人を率いていく、輝きの人生を望むのが分不相応だということはもう理解している。西白国さいはくこくは平等を謳うが、その実、階級社会の特徴を一通り持ち合わせてもいる。一度でも人生に傷が付いたものが、失った輝きを取り戻すことは事実上不可能だと今の文輝は知っている。

 それでも。

 文輝が夢の向こうに願った将軍位をくれてやると子公は言った。

 確かに、文輝にそう約して子公は輝きの双眸で文輝に誓った。

 文輝と共に文輝の願いを――泥まみれで傷だらけなのに美しい西白国を見せてくれる、と。

 だから。


「子公。安心していい。俺は既に失ったものと目の前にあるものぐらいは区別出来ている」


 文輝がかつて見た繁栄の岐崔ぎさいとは様相の違う中城ちゅうじょう、城下が目の前にある。

 阿薫は決して「彼女」ではないし、子公は決して旧友ではない。

 それでも。願うのは人に許された権利だ。この国が人を愛する国であるようにと願うことだけは文輝の自由だ。だから、文輝は子公に微笑みを返した。

 溜息がもう一つ、子公の唇から零れ落ちた。


「ならば構わん。好きにしろ」

「言われなくともそうするさ。で?」

「『で?』とは」


 話の本筋に戻ろうと文輝が言葉を促す。

 副官殿は文輝の問いの意味を図りかねる、と顔中に書いて空とぼけたので今度は文輝が溜息を零す番だった。


「とぼけるなよ。お前がくりやに来るなんて何かがあったんだろ。でないとお前『下賤な場所』には来ないじゃねーか」


 子公が青東国せいとうこくでどういう家筋に生まれ育ったのかはまだ詳細に聞いていない。知らなくとも、別段文輝の「戦」には関係がなかったから話したくなればそのときに話を聞けばいいと思っていた。

 ただ、育ちは文輝と同等かあるいはそれ以上なのだろう。

 末子に生まれ、甘やかされ放題で奔放に育った文輝とは違い、子公は身分の上下にとても繊細な部分があった。だから、子公は火急の要件でもなければ文輝のように「下賤な場所」を訪うことは決してない。

 つまり、今、文輝に急ぎ伝えねばならない用件を携えて子公は立っている、ということだ。


「『下賤な場所』だという自覚が貴様にあったことの方が驚きだな、私には」

「子どものころ、下女たちに何度叱られたと思ってる。九品直系三男の肩書に偽りはないんだぜ?」

「胸を張って言うことか。全く、貴様は賢しいのか愚かしいのか判断に困る」


 あの頃は――岐崔ぎさい動乱が起こるまでは世界の全てが輝いていた。

 今はそうではないのかと尋ねられると即答は出来ないが、別の輝きを見出した、と何とか答えられるだろう。文輝の四年間はそれだけの実を伴っていた。全てを肯定することが出来なくても、人は息を吸える。そう知って、自らにすら失望して、それでも文輝はまだここに立っている。それが生きるということだと、文輝は少しずつ理解し始めていた。

 その、感傷を幾ばくか滲ませて強がると子公が呆れた顔で溜息を零す。知っている。子公もまた傷を抱えてここにいる。自分一人だけが特別に不幸だなんて思わないで済むぐらいには、文輝の周囲は文輝に優しかった。勿論、目の前にいる子公も、だ。

 そんな気持ちを感じさせながら、紫水晶の双眸が文輝を捉え、強い輝きを宿した。本題が来る。腹の下に力を入れて文輝は身構えた。


「文輝。午後には正式な書簡が届く。隠しても貴様も知ることだ、敢えて言おう。沢陽口たくようこうから『鳥』が届いた」


 「鳥」というのは西白国でだけ用いられている暗号通信手段である「伝頼鳥てんらいちょう」のことだ。白帝はくていの庇護を得た「才子さいし」がその才を使って書き上げた書簡をただ人には知りえぬ技法で小鳥の形に変え、飛ばす。伝頼鳥に物理的な障壁はない。時間という制限もない。才子が暗号化した時点で速やかに「宛先」に向けて飛来する。そして伝頼鳥は復号の手順を一つでも誤れば霧散し、二度と復元することは出来ない。

 だからこそ、西白国では高等暗号通信の手段として長く用いられている。

 伝頼鳥を紡ぐことが出来るのは才子に限られるが、官民どちらの才子でも手順を教わらずに紡げるというわけではない。そして、その手順と形式には厳密な定義があり、それらを遵守することが求められた。一度でも規律から外れると何か罰則が科せられるだとか、そういうことはない。ただ、通信士としての倫理観を伴わないものは自然と才を失った。文輝を含めたただ人はそれを神の庇護を失ったと認知するが、真実は才子と白帝しか知らない。

 その、取り決められた複雑な定義において、最も重要なことがある。

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