第三話 位階

 そんな文輝ぶんき右官うかんとして三年目の夏がやってきた。

 自らを天才と称した子公しこうの才を全力で活用する場面こそなかったものの、本来の出自が九品きゅうほんの三男である文輝は少しずつ官吏としての人生を進んでいる。実績を出した子公も順当に評価されて、この春からは文輝が兵部ひょうぶ軽歩兵隊けいほへいたい第五班の伍隊長である初校尉しょこうい、子公がその副官である副尉ふくいに任命された。初校尉というのは十人一組の兵卒を束ねる組長を五組預かる存在であり、位階ではやっと無官むかんを脱した所謂、官吏としては駆け出しの官位――従八位じゅはちいに当たる。

 中科ちゅうかを終えてそのまま官吏として残った場合に授けられる官位が初八位しょはちいで、その次が従八位であることからも、まだまだ駆け出しであることは自明だった。二十二にしてやっと従八位かと思うと劣等感を覚えないでもなかったが、腐っていても進まない。死ぬまでに将軍位――従五位じゅごいを授かればいいと文輝は子公に言った。その願いが叶うかどうかはまだ判断の時期になかったから、取り敢えずは最下位でも校尉の職を拝領したことに手応えを感じつつ、文輝はその日も早朝の中城ちゅうじょうへ登庁した。

 岐崔ぎさいの四季は穏やかに移り変わる。季節の移ろいという概念は岐崔をもとに定義されたのではないかと思うほど、岐崔の季節は緩やかに変化した。一月になると同時に春が訪れ、その後三か月間隔で夏、秋、冬が続いて再び春が巡る。

 それはつまり、年齢が上がると同時に新年が始まるということになり、文輝はこの春、二十二になった。東方の暦には疎い文輝が何とか聞き出した情報が間違っていなければ、子公もまた二十二になる。

 ただ、首夏しゅか――夏の初めである四月に生まれた文輝より子公の方が数か月生まれが遅く、秋生まれだということを聞いたとき文輝はふと思ってしまった。旧友が知れば彼女は得意げに微笑んでこう言っただろう。「ならばおまえが末弟だな」と。末子の文輝とは違い、自立心の強い子公がそれを聞けばきっと憤慨する。旧友と子公は二人とも長子だからきっと価値観の押し売りが始まるだろう。そんな光景を夢想した。瞼の向こうに幻を焼き付けてそっと視界を閉じる。暦のうえで文輝が二十二年前に生まれた日にちまであと数日だ。ここに旧友はいないし、子公が旧友のことを知る筈もない。文輝だけが二人ともを知っている。それでいいじゃないか。そんな風に無理やり諦めを植え付けて、文輝は中城の石畳の上を進む。

 子公の故国では今の時分が六月にあたるという。暦の違いは基準とした自然が異なることに由来していた。

 西白国さいはくこくは風の国だ。風向と風力、それらに由来する樹木の移ろいや匂いから暦が「後付け」で定められる。だから、所謂「春風」がなかなか吹かない年は正月の到来が遅く、十二月が三十数日もあることもある。今年は割合早く春風が吹き、しばらくすると夏の到来を告げるように気温が上がった。多分、そろそろ夏になった、という報が暦舎から布告されるだろう。

 そんな西白国の暦は旧時代的だと子公は呆れていた。青東国せいとうこくでは星々の位置を読み解くことによって暦が定められているという。この方式だと暦をあらかじめ作っておき、それに合わせて農業を営むことが出来るのだとか、子公は得意げに解説してくれたが、生憎西白国において農業は主要な産業ではないし、夜空は概ね薄雲がかかっていて、星々の正確な位置など読み解くことは殆ど不可能に近い。美しい夜空が見えるのは冬の間の数日だけだ。それ以外は朝の訪れと共に雲が晴れ、夕暮れと同時に薄っすらとした雲が広がってしまう。

 そう言えば「あの日」は秋なのに空が晴れていたな、と不意に思い出す。

 湖水こすいでは夏と言えども夜明け頃は気温が低い。夏用に拵えられた右服うふくは薄手で、こんな時間に上着も羽織らずに過ごすと普通のものは三日で風邪を引く。だからだろう。「夏風邪を引いた」と言おうものなら問答無用で「馬鹿者」の烙印を押される。

 それでも、文輝は物心がついてからというもの、上着を拵えたことがない。

 武芸を磨く為に毎朝、一人で調錬場で槍を振るっているとどうしても汗ばんでしまう。たい家の下女たちは皆「末の坊ちゃまは身体がお強うてようございます」と言ってまともに相手をしてくれなかったが、それが案外役に立っている。

 右官として登用されてからも、文輝は毎朝一人で調錬場に通い詰めた。

 誰かと手合わせをするわけでもない。

 ただ、槍を振るっている間だけは過去のことも、現在のことも、忘れられたからそうした。

 中城に配属された女官たちの仕事の一つに井戸水を汲むというものがあったが、文輝は生まれてからこの方ずっとこの任を女官に割り当てたやつは大馬鹿だと思っている。どうして女官などという生物的に力のない存在に力仕事を命じるのか。どうせならば右官に鍛錬の一つとして水瓶を運ばせればいいのだ。

 ずっと、そう思っていた。

 だから。


くん姑娘くーにゃん、これで今日の水瓶は全部だ」

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