殺戮オランウータンへの弱点付与(デバッファー)

逆塔ボマー

前編:檻の中

って知ってるか?」

「なんだそりゃ。にも程のある単語だな」


 その日、大学の第三文芸部の部室にやってきた暗前くらまえは、ひょろ長い腕でノートパソコンを小脇に抱えたまま開口一番、珍妙な単語を口にした。


 は分かる。皆殺しとか虐殺とか惨殺とかの類義語だ。

 は分かる。スマトラやボルネオに住む、「森の人」の異名を取る類人猿。人間より一回り小柄で腕が長い。漫画などでは真ん丸な顔として描かれることが多いが、これは一部のオスだけに見られる身体的特徴。


 。繋げられた途端に意味が分からない。


「最近ネットで流行りでな。坂塔さかとうセンセのアンテナには届いてないか?」

「ひょっとして『狂気頭巾マッドネスフード』とか『竹妖精バンブーフェアリー』とかかよ?」

「元ネタの元ネタは推理小説の古典中の古典だけどな。ここんとこ急に広まっているのはだ」


 俺は納得した。広く深いネットの海には、なんとなくとしか言いようのない、繋がりの弱いグループがあって、そいつらの動向は時折俺たちの間でも話題になっていた。俺が少し目を離してた隙に新しいムーブメントが起こっていたらしい。

 この第三文芸部は、数十年前に当時在籍していた大学の先輩たちが「文学性の違い」とやらで旧文芸部を割って立ち上げたモノで、代々文学の王道からは外れた、与太話のような珍妙な話を好む変人が集まる巣窟のような場になっている。この俺、坂塔さかとう地雷也じらいやも、目の前の暗前くらまえ暗太郎あんたろうも、にどっぷり漬かってはいないものの、そういう怪しい話は大好物だった。

 早速手元にあった部のパソコンで検索を始める俺に、しかし暗前くらまえはあまり浮かない顔のままだ。


「それがな……与太話だと笑ってばかりもいられないようだ」

「どういうことだ?」

「このままだと……実際にかもしれない」

って……まさか」


 俺は息を呑んだ。おそらく俺と暗前くらまえにしか通じないやりとり。暗前くらまえは高い天井を見上げて溜息をついた。


「そう……生き物としてのオランウータンじゃない。としてのが、ようなんだ」


 の怪物。に語られるモノ。

 ある種の霊感持ちの暗前くらまえと、そこそこの速筆に自信のある俺のコンビは、過去にも何度かその手のモノと対峙してきている。

 怪しい駅に深夜に二人で降り立ったこともあったし、運動不足の身体で必死に肩を並べて走ったこともあった。某県の山奥の廃村では本当に死ぬかという目に遭ったし、その時は二人揃って一週間ほど入院するハメになっている。

 らと類似する存在として、殺戮オランウータンが??

 下水道の白いワニのように、実在する動物の名を冠した??


「あんま一般には知られてないけどよ。都市伝説的な条件、前に二人で調べたろ」

「ああ。は、。表層意識ではバカらしい話と笑い飛ばしていても、無意識でうっかり信じてしまった者が増えれば。そして――、人目に触れれば触れるほど、


 例えば昭和の昔、ということがある。もはや今となってはその発端は分からない。けれど、新聞や雑誌、果ては学校で配るプリント(コピー機すらない時代に、わら半紙にガリ版でわざわざ作ったそうだ)として文字になったことで、一気に出現頻度と範囲が増大したことが分かっている。

 さらに昔に遡るなら、江戸時代に大量に妖怪の類もそうだ。各地で細々と語り継がれていた怪異に名前と姿が与えられて本にまとめられたことで、一気に確固たる存在として定着した。

 居るから書かれるのか、書かれたから居たことになったのか。

 居るから読まれるのか、読まれたから居たことになったのか。

 そこに因果の逆転が起こっている可能性すらあった。

 そして平成。インターネット発の怪談は最初から文字で描写されていたこともあって、こういうとして出現する敷居が。令和の今となっても、SNSの普及でこういう傾向は加速するばかりだ。個々の事例の寿命は短くなったようだが、時にはあまりにも簡単に

 怪談の体裁を取っていない、与太話の創作ですら、時として出現してしまう。


「ほんと、何の根拠もない勘なんだけどよ。でも、そろそろを超えるようなんだ」

暗前くらまえのそういう勘は当たるからな……嫌なくらいに」

「元ネタの元ネタが推理小説で殺人事件だからよ。どう考えてもロクなことにならないんだ。このままじゃガチで死人が出ちまう。そこで、だ」


 暗前くらまえはそして、両手を合わせて俺に対して拝んでみせた。


「今ならギリギリ間に合うようなんだ。坂塔さかとうセンセの速筆で、なりなりを、して欲しいんだ」


 弱点の、怪談の

 文字に書かれたというのなら、こちらにとって都合のいいを書き足せばいい。相手を変質させればいい。

 これが、霊感も何もない、駄作の速筆だけが持ち味の俺が、霊感持ちでオカルト通の暗前くらまえと組んでいる最大の理由だった。どういう訳だか、一度ダメ元でやってみたら結構効いてしまって、以来俺たちはコンビで動いている。暗前くらまえを見つけるための目で、俺がを斬る剣。いや、斬るなんて言うのは大げさで、毎度毎度、なんとか生きて帰るので精一杯なのだけども。


「そいつは責任重大だな。要はあれだろ、口裂け女にとってのみたいなのを考えて広めりゃいいんだろ」

「あれほんと何でポマードだったんだろな。それはともかく、今の時代だとある程度の筋が通ってないとぞ。よく分からない呪文一発では難しいぜ」


 令和になった今、都市伝説に対してすらみんな理屈っぽくなって困る。

 俺は考える。


「元は推理小説なんだろ? なら、、なんてのはどうだ」

「ダメだ。名探偵ごと大殺戮するオランウータンの話は山ほど出てる。なんなら探偵そのものが殺戮オランウータン、って奴も既にある」

「だいたいが現代が舞台なんだろ? なら動物園かペットかで飼われてた奴だろうし、なら閉じ込められそうだよな……」

「ダメだ。檻から逃げ出すのが大抵の話の始まりだし、なんなら、檻の中に納まったまま不可能犯罪をしてみせる作品すらある」

「オランウータンなら言葉は通じないだろうし、知恵も劣るだろうし……」

「ダメだ。人間の言葉を話すくらいなら序の口だし、中には麻雀を打つオランウータンまでいる。人間を超えて地上の覇者になったオランウータンまで出てきている。知恵比べとか言葉の存在そのものでは勝てない」

「さっきから何なんだよもう!! どんだけなモンが書かれてるんだよ!」


 流石にキレた。暗前くらまえが広げてみせてくるノートパソコンを奪い取り、示されてるページを確認する。


「なんだこりゃ、?! 数日限定の投稿企画?! なんてことしてくれるんだ! こいつらが現実として出てくる世界の連中のことを考えたことがあるのか! 蟲毒の壺みたいなモンじゃねぇかこれ!!」

「だから焦ってるんだよ。だから坂塔さかとうセンセのとこに話を持ってきたんだよ。この勢いじゃいつ何がでても……」


 ピクリ。

 暗前くらまえは唐突に言葉を区切って、天井を見上げる。

 第三文芸部の部室は、旧講義棟を強引にリフォームした関係上、やけに天井が高い。その片隅を、怯えた目で見つめている。

 俺もその視線の先を見る。俺の目にすら分かる、輪郭も曖昧な影が天井に張り付くようにして存在している。やけに手が長い。


「やっべ……藪蛇かました」

「あれか、二人で見つけた出現のもう一つのルール……の話をしているとが出る、ってやつか。マジか。このタイミングでか」


 もう間に合わない。もう一文だって余裕なんてない。

 推定名、

 そいつは感情の感じられないガラス玉のような目で俺たち二人のことを見下ろしている。

 霊感のない俺にまで見えるほどの存在感。霊感のない俺にまで感じられるほどの殺意。霊感のない俺にだってこの先に起こることは分かる。

 名は体を表す。それがならなおさらのこと。


 は、ただするためだけにこの世にする、である。


「どうするよ……暗前くらまえ、要するにこいつ、んだろ?」

「ああ……今んとこ、共通認識として認識されているモノはない。だから坂塔さかとうセンセに貰おうとしたんだ」


 脂汗が頬を伝うのを感じながら、俺たちはを見つめたまま、小さく言葉を交わす。

 根拠なんてない。でも、視線を外した途端に、あるいは大声でも挙げた途端に、奴が襲ってくるであろうことが直感できた。

 考えろ。考えろ。今さっき得た僅かな知識から、なんとか突破口を見つけ出せ。暗前くらまえを見つけだす目なら、俺は役目。もう一単語だってを追加する余地はないが、しかし、をすることなら……拡大解釈を……殺戮オランウータン……殺戮オランウータン大賞……!


「……よし。決まったぞ。方針は決まった」

「本当か?!」

「俺を信じてくれ。支払うは安くはないが、たぶん、きっと、生き延びられる」


 じり、じりと、を見つめたまま、俺は部室の出口に向かって下がっていく。暗前くらまえも肩を並べるようにしてそれに従う。推定・は俺たちを見つめたまま、動かない。


に対する、それはな……」

「それは……?」

「それは……んだよォー!」


 部室の扉まであとちょっと、という所で、俺は意を決してから視線を外し、廊下に飛び出して全力疾走を開始した。半歩遅れて暗前くらまえもそれに従う。

 背後から総毛立つような殺気が猛然と追ってくる。振り返らずともで追いかけてくるのが分かる。捕まってしまえばその瞬間に終わりだ。二人揃って無惨な肉塊になり果てるに違いない。暗前くらまえが叫ぶ。


「どうすんだよ! こっからどうすんだよ! つい従っちゃったけど、ハァ、ハァ、こっからどうすんだよ!」


 太めの俺と痩せすぎの暗前くらまえ、共通しているのはどちらも運動不足で運動音痴であることだ。普通に考えて野生動物を相手に逃げ切れる訳がない。ましてや相手はだ。

 ホモサピエンスの地味な強みは持久力、マラソンのような長距離走……なんていう、ちょっと気の利いた奴なら知っているマメ知識に賭けた訳ではない。俺にはそれとは異なる勝算があった。細く細く、危うい勝算ではあったが、しかし、

 まで引っ張れば、きっと、

 たぶんこのはアンバランスに短いモノになるけれど、それでも、きっと、言い訳が効く程度には。


「あとちょっとだ、頑張れ! 足を止めるな! もう少しで、を超えれば、きっと!」


 そして俺と暗前くらまえは、揃ってそのを踏み越えた。

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