殺戮オランウータンへの弱点付与(デバッファー)
逆塔ボマー
前編:檻の中
「殺戮オランウータンって知ってるか?」
「なんだそりゃ。胡乱にも程のある単語だな」
その日、大学の第三文芸部の部室にやってきた
殺戮は分かる。皆殺しとか虐殺とか惨殺とかの類義語だ。
オランウータンは分かる。スマトラやボルネオに住む、「森の人」の異名を取る類人猿。人間より一回り小柄で腕が長い。漫画などでは真ん丸な顔として描かれることが多いが、これは一部のオスだけに見られる身体的特徴。
殺戮オランウータン。繋げられた途端に意味が分からない。
「最近ネットで流行りでな。
「ひょっとして『
「元ネタの元ネタは推理小説の古典中の古典だけどな。ここんとこ急に広まっているのはその辺だ」
俺は納得した。広く深いネットの海には、なんとなくその辺の界隈としか言いようのない、繋がりの弱いグループがあって、そいつらの動向は時折俺たちの間でも話題になっていた。俺が少し目を離してた隙に新しいムーブメントが起こっていたらしい。
この第三文芸部は、数十年前に当時在籍していた大学の先輩たちが「文学性の違い」とやらで旧文芸部を割って立ち上げたモノで、代々文学の王道からは外れた、与太話のような珍妙な話を好む変人が集まる巣窟のような場になっている。この俺、
早速手元にあった部のパソコンで検索を始める俺に、しかし
「それがな……与太話だと笑ってばかりもいられないようだ」
「どういうことだ?」
「このままだと……実際に殺戮オランウータンが出るかもしれない」
「出るって……まさか」
俺は息を呑んだ。おそらく俺と
「そう……生き物としてのオランウータンじゃない。怪異としての殺戮オランウータンが、出るような気がするんだ」
怪異。都市伝説の怪物。怪談に語られるモノ。
ある種の霊感持ちの
怪しい駅に深夜に二人で降り立ったこともあったし、運動不足の身体で必死に肩を並べて走ったこともあった。某県の山奥の廃村では本当に死ぬかという目に遭ったし、その時は二人揃って一週間ほど入院するハメになっている。
アレらと類似する存在として、殺戮オランウータンが出る??
下水道の白いワニのように、実在する動物の名を冠したモノが出る??
「あんま一般には知られてないけどよ。都市伝説的な怪異が出やすい条件、前に二人で調べたろ」
「ああ。怪異は、人が信じるから出る。表層意識ではバカらしい話と笑い飛ばしていても、無意識でうっかり信じてしまった者が増えれば出る。そして――文字媒体で描かれ、人目に触れれば触れるほど、出やすい」
例えば昭和の昔、口裂け女というモノが出たことがある。もはや今となってはその発端は分からない。けれど、新聞や雑誌、果ては学校で配るプリント(コピー機すらない時代に、わら半紙にガリ版でわざわざ作ったそうだ)として文字になったことで、一気に出現頻度と範囲が増大したことが分かっている。
さらに昔に遡るなら、江戸時代に大量に増えた妖怪の類もそうだ。各地で細々と語り継がれていた怪異に名前と姿が与えられて本にまとめられたことで、一気に確固たる存在として定着した。
居るから書かれるのか、書かれたから居たことになったのか。
居るから読まれるのか、読まれたから居たことになったのか。
そこに因果の逆転が起こっている可能性すらあった。
そして平成。インターネット発の怪談は最初から文字で描写されていたこともあって、こういうモノとして出現する敷居が低い。令和の今となっても、SNSの普及でこういう傾向は加速するばかりだ。個々の事例の寿命は短くなったようだが、出る時にはあまりにも簡単に出る。
怪談の体裁を取っていない、与太話の創作ですら、時として出現してしまう。
「ほんと、何の根拠もない勘なんだけどよ。でも、そろそろ閾値を超えるような気がするんだ」
「
「元ネタの元ネタが推理小説で殺人事件だからよ。どう考えてもロクなことにならないんだ。このままじゃガチで死人が出ちまう。そこで、だ」
「今ならギリギリ間に合うような気がするんだ。
弱点の捏造、怪談の改変。
文字に書かれたモノが出るというのなら、こちらにとって都合のいいモノやコトを書き足せばいい。相手を変質させればいい。
これが、霊感も何もない、駄作の速筆だけが持ち味の俺が、霊感持ちでオカルト通の
「そいつは責任重大だな。要はあれだろ、口裂け女にとってのポマードみたいなのを考えて広めりゃいいんだろ」
「あれほんと何でポマードだったんだろな。それはともかく、今の時代だとある程度の筋が通ってないと通じないぞ。よく分からない呪文一発では難しいぜ」
令和になった今、都市伝説に対してすらみんな理屈っぽくなって困る。
俺は考える。
「元は推理小説なんだろ? なら、名探偵に弱い、なんてのはどうだ」
「ダメだ。名探偵ごと大殺戮するオランウータンの話は山ほど出てる。なんなら探偵そのものが殺戮オランウータン、って奴も既にある」
「だいたいが現代が舞台なんだろ? なら動物園かペットかで飼われてた奴だろうし、鉄の檻なら閉じ込められそうだよな……」
「ダメだ。檻から逃げ出すのが大抵の話の始まりだし、なんなら、檻の中に納まったまま不可能犯罪をしてみせる作品すらある」
「オランウータンなら言葉は通じないだろうし、知恵も劣るだろうし……」
「ダメだ。人間の言葉を話すくらいなら序の口だし、中には麻雀を打つオランウータンまでいる。人間を超えて地上の覇者になったオランウータンまで出てきている。知恵比べとか言葉の存在そのものでは勝てない」
「さっきから何なんだよもう!! どんだけ胡乱なモンが書かれてるんだよ!」
流石にキレた。
「なんだこりゃ、殺戮オランウータン大賞?! 数日限定の投稿企画?! なんてことしてくれるんだ! こいつら怪異が現実として出てくる世界の連中のことを考えたことがあるのか! 蟲毒の壺みたいなモンじゃねぇかこれ!!」
「だから焦ってるんだよ。だから
ピクリ。
第三文芸部の部室は、旧講義棟を強引にリフォームした関係上、やけに天井が高い。その片隅を、怯えた目で見つめている。
俺もその視線の先を見る。俺の目にすら分かる、輪郭も曖昧な影が天井に張り付くようにして存在している。やけに手が長い。
「やっべ……藪蛇かました」
「あれか、二人で見つけた怪異出現のもう一つのルール……それの話をしているとそれが出る、ってやつか。マジか。このタイミングでか」
もう間に合わない。もう一文だって書き足す余裕なんてない。
推定名、怪異・殺戮オランウータン。
そいつは感情の感じられないガラス玉のような目で俺たち二人のことを見下ろしている。
霊感のない俺にまで見えるほどの存在感。霊感のない俺にまで感じられるほどの殺意。霊感のない俺にだってこの先に起こることは分かる。
名は体を表す。それが怪異ならなおさらのこと。
殺戮オランウータンは、ただ殺戮するためだけにこの世に現界する、今さっき生まれたばかりの怪異である。
「どうするよ……
「ああ……今んとこ、共通認識として認識されているモノはない。だから
脂汗が頬を伝うのを感じながら、俺たちは殺戮オランウータンを見つめたまま、小さく言葉を交わす。
根拠なんてない。でも、視線を外した途端に、あるいは大声でも挙げた途端に、奴が襲ってくるであろうことが直感できた。
考えろ。考えろ。今さっき得た僅かな知識から、なんとか突破口を見つけ出せ。
「……よし。決まったぞ。方針は決まった」
「本当か?!」
「俺を信じてくれ。支払う代償は安くはないが、たぶん、きっと、生き延びられる」
じり、じりと、殺戮オランウータンを見つめたまま、俺は部室の出口に向かって下がっていく。
「殺戮オランウータンに対する対処法、それはな……」
「それは……?」
「それは……逃げるんだよォー!」
部室の扉まであとちょっと、という所で、俺は意を決して殺戮オランウーンタンから視線を外し、廊下に飛び出して全力疾走を開始した。半歩遅れて
背後から総毛立つような殺気が猛然と追ってくる。振り返らずとも殺戮オランウータンが大殺戮モードで追いかけてくるのが分かる。捕まってしまえばその瞬間に終わりだ。二人揃って無惨な肉塊になり果てるに違いない。
「どうすんだよ! こっからどうすんだよ! つい従っちゃったけど、ハァ、ハァ、こっからどうすんだよ!」
太めの俺と痩せすぎの
ホモサピエンスの地味な強みは持久力、マラソンのような長距離走……なんていう、ちょっと気の利いた奴なら知っているマメ知識に賭けた訳ではない。俺にはそれとは異なる勝算があった。細く細く、危うい勝算ではあったが、しかし、そろそろいいはずだ。
これくらいまで引っ張れば、きっと、そうしてもいいはずだ。
たぶんこの向こう側はアンバランスに短いモノになるけれど、それでも、きっと、言い訳が効く程度には。
「あとちょっとだ、頑張れ! 足を止めるな! もう少しで、そこを超えれば、きっと!」
そして俺と
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