其之二

 真玄さねはるはや思葉おもんばをば中鴨に申しれた。れど山城守やましろのかみは「とてとても考えられぬ、笑止なことよ」とこれを撥ね付けたものだから、真玄さねはるも「さては我をばあざけり見下しておるな。善かろう、然様さようなる無状ぶじょうを働くならば、我らとても中鴨に出張でばりして姫を奪い勾引かどわし、鷺共に恥を与えてやろうか、口端くちばしに掛くるとて不祥よ」などと誰憚ることなく大言壮語するのであった。

 山城守が「笑止」と一顧だにせぬ中にあって真玄さねはるは、姫君の召し使うているチドリなる下使したづかい与力よりきに引き入れんとかたらい寄って己が思いの丈をつぶさに打ち明けた。チドリは「然様さいでございますね、殿様の御心中は格別のようで……御料人ごりょうにん様にはかたがたよりもそのようなお申し出のございますもののお聴き届けにはなりませぬゆえ、にも叶うものとも思えませぬが、余りに殿様のお申し出のご熱心なことでもございますから、ここは一筆頂戴しまして、及ばずながら御料人ごりょうにん様の幸便よきおりを窺いましょうぞ」と一諾したので、真玄さねはる欣喜雀躍からすおどりして翛然すぐさま黒淵すずりに墨を磨って鶏距ふで十二分たっぷりと挿し濡らすと、くろみ克ちに書き乱してチドリに託した。

 この何ともつじみぐろ艶書いろぶみを携えたチドリは鷺の姫が乳母めのとと連れ立って河遊びする処まで赴くと、少しく思わせ振りに姫の気を引いてこれを差しいだす。然るに「何の玉梓ふみであろう」とひらき見た姫は「祇園林ぎおんばやしより御料人ごりょうにん様に差し上げまする文」と見るや「気は慥かかしら」とかおばせを赤らめてこれを打ち棄ててしまった。

 乳母が取り上げてあらためると、


【近江なる、伊香具いかごの海のいかなれば、見るめ海松布もなきに】(※一)と思へども、【恋しき時は烏羽うばたまの、夜の衣を返し】(※二)つゝ、君に心は尽き夜がらす、にたてゝ泣くばかりなる恨みには、うち寝ぬ程の関守せきもりに、夢路さへ隔つる仲と成にけり。逢ふ瀬も無みだの深き河に、浮き沈みたる心の闇、たどり〳〵て憂き身の程、ありとだにしられぬ恋の世を恨み、【しのぶもぢずりたれへ】(※三)と、かこつべきたよりもなくて明かし暮らし、かの柏木の衛門のかみが、二品にほんの宮の御事おんこと思ひ乱れしころかとよ、行方なき空のけぶりなげきけんも、今更かゝる身に知られつゝなん。

(近江にある伊香胡の湖(余呉湖)海藻みるめのないがごと、貴方にまみゆることもなかろうに、如何どうしてかくも恋しいのかと思います。なれど、然様さように恋しき時は烏羽うばたま夜衣やぎを裏返して着つつ、月のさゆる夜に貴方を思う心は尽きせぬ鴉でございます。カアと啼きながら泣くよりほかない恨めしさ、通宵よすがらねぶられぬ関守せきもりにでもなったのでしょうか、睡夢すいむうちにも貴方に逢うこと叶わぬ身です。逢う瀬もなくて、流す涙の河の深みに浮き沈みする我が恋心はわきまえも知らず、当処あてどなく慕情したうこころに押し流されて萍寄さまようて、如何どうして善いやら分からぬる瀬なさ、然様さように思い抱く身のあるさえ、貴方には知らるることとてなかろう恋の営み恨めしく、忍草しのぶぐさで染むる忍摺しのぶずりの衣にもじり乱れし文様の如くに思い忍びて乱るるは所為ゆえぞとなげく身は身とも思えませぬ。言寄ことよすべき好機もなくて日々を明かし暮らしておりますと、『源氏』の柏木衛門督かしわぎのえもんのかみが、女三宮おんなさんのみやに恋煩いするにも似るもの、行方も知れず揺蕩たゆたい行くけぶりの如くに心許こころもとなきものよと、今更ながらにこのような身上みのえの思い知られまして)


などと墨痕すみのあとが乱れ舞うており、一首、


 音にのみきくの白露いつの間に淵となりてはうきしづむらん

(噂に貴方のことを聞きまして、菊の白露の如く下垂したたる涙がいつの間にか淵を成し、私はそこで溺れております)


との歌まであった。乳母は「慮外おもいのほかなることなれど、【返歌かえしうたせぬは七生しちしょうまでも何とやら】(※四)とも申します故に……」と晋銀すずりに向かいて白麻はくばの紙を取りいだしで、


 よしやたゞ淵ともつもれ涙河なみだがわうきしづむとも逢う瀬あらめや

仮令たとい、淵となった涙の河に貴方が浮き沈みしようとも、その河瀬に貴方と逢うことはないでしょう)


と書いてチドリ疎略ぞんざいに投げ渡した。


【私註】

※一:「近江なる伊香胡いかごうみのいかなればみるめもなきに人の恋しき」(『今昔物語集』巻第一六ノ十八「石山観音、為利人付和歌末語」)。

※二「いとせめて恋しき時はうば玉の夜の衣を返してぞきる」(小野小町、古今集 巻一二・恋歌五五四)。夜着を裏返して寝ると待ち人が来るとする俗信があったことに由来する。

※三:「陸奥みちのくのしのぶもぢ摺り誰ゆゑに乱れむと思ふ乱れそめにし我ならなくに」(源融、古今集 巻一四・恋歌七二四)。「陸奥のしのぶもぢずり」が「誰ゆゑに」を越えて「乱れ」にかかる序詞となっている。

※四:御伽草子の『高野こうや物語』には「歌の返しをせぬ者は七しやう(七生)まで舌なき物に生まれ候なる」などとあり、返歌せぬ者は舌のない蛇に転生するとの説を生じたという(※底本註、訳者として未見)。


※オーリックの“Trio for Oboe, Clarinet, and Bassoon: I. Décidé”を聴きながら

 https://youtu.be/s6XN-7wAHSw

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