〔私訳〕鴉鷺合戦物語

工藤行人

鴉鷺合戦物語目録

第一 和歌、管絃、郢曲事

其之一

第一 和歌、管絃、郢曲えいきょくの事


 一体、林にかしましき鴉の啼き声こそすなわ御仏みほとけの教えを延べ広むる巧みな説法であって、鷺がみぎわたたずさまこそどうして清らにして穢れなき御仏みほとけの御姿でないことあろうか。仏法とはどこぞ幽邃おくふかき境地にでなく、かくもありふれて世に充ち満ちているではないか。

 悟り開きし釋尊が格別に優れているわけではない。如何いか民草たみくさとて皆、開眼かいげんする素質をもとよりち合わせているものだ。眼に見える姿形すがたかたちによってそれと判ずることはなく、耳に聞こゆる声によってそれとわきまえることとてなく、ある時は憎しみや慈しみの思いを萌してもこれに囚われぬこと、なみだつなき真澄鏡まそかがみの止水に映ずる像が如くであり、またある時は善悪の姿をあらわししもこれに執着せぬこと、木末こぬれを吹き抜ける風が如くである。来たるとて留まることなく、去り行きては二度ふたたびと戻ることもない。かくしてまさしく思い知るのである、この世に在りとし在るものすべては夢幻の如くはかなきものなると。

 さて、天地あめつちひらけて人民の生出うまれいでしより以来このかた、三皇五帝のいにしえにあって、天下はくその慈愛に浴し、四海はその在らまほしき姿にしたがうた。王臣は範規を持たずとも正しく在り、人々の持つ孝恭の思いは自ずから深きものであった。かくて国家は永らく靖寧に属したのである。

 しかるにさて周の時代に及びて、かく在るべき世の姿はようよう衰え、礼法も愈々いよいよと廃るるに任せた。故にこそ孔子や老子が出て仁徳に基づく政道を、黄石公こうせきこうやその弟子張良がまた兵法武略をば諸侯に説き、伝授したのである。四書五経は道理をただし、六韜三略りくとうさんりゃくは敵をほろぼすなかだちとなった。道理にたがときんば文によってこれを改め、敵の起つときんば武によってこれを収むるのだから、治世利民の要諦こそすなわちこの文武を以てすること、この双つのたていとよこいととで綾成すことであった。和漢の勇士、古今の武将に、およそ文ありて武なき者なく、またその逆もしかりであった。文を左に武を右に、そなうることこそあたかも鳥の双翼そうよくの如く、いずれの欠けても物事叶わぬ仕儀となるは必定ひつじょう、とはいえ時しも嘆くべき世の末、文は空しくもすたれ、武はみだりに荒れ狂うている。徳なき少人が徳高き君子をあざけるかと思えば、思慮の足りぬ愚物は智恵ある賢哲をそねんでばかり。まるで正道にそむくことを重んじ、梟悪きょうあくむねとするが如くである。なるが故に、人ならぬ鳥獣までもが合戦闘諍とうじょうに明け暮れてしまうのであろう。

 果たして烏鵲うじゃく元年九月ながつき上旬はじめ、都に稀代きたい大戦おおいくさおこりしぞ。その機縁きっかけこそは、とある鴉と鷺との確執かくしゅうなるらしと聞き及ぶのだが……。


※タイユフェールの“Rondo pour hautbois et piano”を聴きながら

 https://youtu.be/HWcW9S7GBHY

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る