第13話 右手にハト、左手には種明かし
・I・
何の前触れもない銃声に、カスピアは飛び上がった。
「ひっ……! なに! なんなのセレイラ! これは——」
「お静かに」
セレイラの細い人差し指が、なおも動こうとする彼女の唇を塞いだ。
カスピアは怯えた小動物のように縮こまっている。状況が何一つ飲み込めていないといった面持ちだ。
その両頬を掌で挟みこみ、セレイラはゆっくりと言い聞かせた。
「まずは落ち着いて。ほら、私の目を見て。私が動揺しているように見えるか? ……見えないだろ。ってことは、これは非常事態じゃない。いいね?」
しばらくして肩の震えがおさまってもなお、カスピアは当惑した表情を崩さなかった。
「どうして? どういうことなの? セレイラ、死んじゃうってこと?」
「……まあ、それでも別にいいんだけどね」
彼女は口の中で呟いた。
それから、今度はカスピアに聞こえるように言った。
「狙われていると分かっていて、私が黙って受け入れると思うかい?」
いつ死んでもいいと、アローシャに啖呵を切ったのは本心だ。
それでも、人生のエピローグを見ず知らずの他人に書かせるつもりは毛頭なかった。
自分の物語は、最後の一文字まで自分の手で書き上げるべきだ。
「王党派による暗殺計画なんてのは存在しないんだよ。私を武装できない御者に仕立て上げて、街のどこかで殺すというつもりなんだろう。とにかく、ルベルスキー伯はこっち側じゃなかったってことだ。イラリオンの奴もグルなんだろうな」
これが真相の全てだと言わんばかりに、彼女は胸をはった。
「そんな……それじゃあ、さっきの銃声はなんなの? それも関係してるってわけ?」
刻々と塗り替えられていく世界に目を回すカスピアに、セレイラは頷いてみせた。
「その通り。でもあれは敵のものじゃない」
「敵じゃない……? ますます意味がわからないんだけど」
カスピアの額には、そろそろ我慢の限界だと書かれている。セレイラは肩をすくめて言った。
「お前の疑問には全部答えるつもりだ。仮にも同じチームになってしまった以上はね。でも——」
部屋のドアを叩く音。
「その前に、来客だよ」
・II・
三回、一回、二回。
その訪問者は、耳に覚えのあるリズムで到着を告げた。
「今度はなんなの?」
「プレゼントさ。私を敬愛する殿方からのね」
「……嘘言ったって無駄だからね」
「それは、私にプレゼントを送るような男などいやしない、という意味かい? 傷つくなあ」
「うん、いないと思う。あっ、プレゼントってそういうこと? 銃とか刺客とか……毒持ってるヘビとか」
スパイスの効いた返しに、セレイラは妙な小気味良さを覚える。
「本当のことを言おうか。ドアの外にいるのはミストラルのナンバー
「うそうそ! やっぱり、『あなたに恋する男の子』ってことにしといてくださいっ!」
「あの……。入って宜しいか?」
聞くに耐えない茶番劇に付き合わされた男の哀れな声が、ドアの外からもれ聞こえる。セレイラは慌ててドアを開け、来訪者を招き入れた。
灰色のコートを身に纏った紳士が、二話のハトを手に立ち尽くしていた。
ハトを持っていた。
カスピアは完全に脳が焼き切れているようで、目をぱちくりさせた。
「……好きな子へのプレゼントが、ハト……」
男は小首を傾げた。
「耳を貸さないでくれ。こいつは借りたものを返さない女だ」
壮年で体格のいい紳士は、自分より二回り以上小柄なセレイラの言葉に従容とうなずいた。
「オリオン。ご指示の通り、お目当てのものを持って参りました」
そう告げると彼は、テーブルの上にハトを置いた。そして、懐から茶色い紙袋を取り出し、セレイラに手渡した。
「ご苦労だった、キャンサー。『百一本の薔薇』は手配したか?」
彼女は流れるような動作でベッドに腰を下ろした。キャンサーと呼ばれた男は立ったまま答えた。
「そちらも指示通り。抜かりありません」
「ひっ……ひゃっ……ひゃく……」
壊れた笛のような声がして、振り返るとカスピアの顔から湯気が吹き出していた。彼女は二人を勢いよく指差した。
「そんなところまで関係が進んでいたなんて!」
「私、やっぱりこいつだけワルシャワに送り返そうと思うんだ」
セレイラは呆れ果てて言った。キャンサーは首を横にふった。
「なりません。新人の『アーチャー』は作戦に同行させると、副総統からのご命令ではなくて?」
彼女はむっつりとして腕を組んだ。
「キャンサー。私の冗談がつまらないなら、そうと言ってくれ」
・III・
「……それじゃあ、あなたたちは恋人じゃないってことね?」
セレイラに繰り返し宥めすかされ、カスピアはようやくその結論に頭が追いついたようだった。
「何度もそう言っていように。我々がそのような仲に見えるか?」
ミストラル指折りの重鎮は、目の前の少女に身の潔白を証明するのに四苦八苦していた。
「わかった。じゃあその件については解決。でも謎が全て解けたわけじゃない。むしろ増えてる」
そう口を尖らせるカスピアに、キャンサーは諭すように言った。
「例のハトのことだな。あれは私が撃ち落としたものだ。オリオンのご指示でな」
「それで、当たりだったか?」
セレイラが割って入る。キャンサーは彼女に向かってうなずいた。
「ええ。二羽とも」
「あっ!」
カスピアはバネのように立ち上がると、机に置かれたハトをまじまじと見つめた。
それぞれの右脚に、錆び付いた鉄製の筒は確かにあった。
「ハトってそういう……」
「そうだ。何せ最良の伝達手段なものでね。良からぬことを考える人間は、決まって伝書鳩を使うものさ。そして、こいつは私たちがさっきまでいたホテルから飛んできた。この意味、分かるな?」
カスピアは鼻息も荒くうなずいた。王党派と共謀するイラリオンが、仲間に内密に送った伝書鳩。そう考えて、まず間違いなかった。
セレイラはそのうちの一つを手に取り、ケースを開いた。
中には小さく折り畳まれた紙切れが一つ。早速開いてみる。
肩越しに、カスピアの荒っぽい鼻息が聞こえる。
「わたしにも見せて! 何が書いてあるの!」
王党派に内通し、セレイラを亡き者にしようとしたイラリオン。
その謀略の真相がついに明らかに——
「なにこれ、ぜんっぜん読めないんだけど!」
ならなかった。
手紙に書かれていたのは、理解不能のアルファベットの羅列だった。
「やはりそうでしょう。そう易々と、我々に情報を流してくれるはずがありません」
後ろからキャンサーの落ち着き払った声が聞こえる。
カスピアは目に見えて肩を落としていた。
セレイラは小さくため息を漏らした。
「ヴィジュネル暗号か……。厄介だな」
それはフランスで生まれた換字式——任意の『鍵』によって、ある文章の文字列を全く違う文字列に変換するタイプ——の暗号だ。
ヴィジュネル暗号は、鍵そのものはもちろん、鍵の文字数すら分からないという特徴を持つ。暗号を傍受したスパイは、まずは鍵の文字数を推測するところから始めなければならないのだ。
「これだけの字数のヴィジュネル暗号を明日までに解読するのは不可能でしょう。オリオン、いかがなさ——」
彼の言葉を待たず、セレイラは暗号文をキャンサーに押し付けた。
「キャンサー、こいつを持って今すぐワルシャワに戻れ。ミストラルの分析官に解読を依頼しろ。こいつは私の手に余る」
時に強引とも言えるほどの決断力。そして思い切りの良さは、スパイとして持ちうる最良の武器の一つだ。
「承知しました」
ミストラルの重役は圧され気味に言うと、懐からなにやら紙袋のようなものを取り出した。
「それと……オリオン、手配していたものがようやく手に入ったので」
好奇心にはやる視線を感じ、セレイラはカスピアを目で制した。
「確かに受け取った。礼を言う」
「なに、それ」
「お前が知る必要はないものだ……それで、どうだった? 『ルブリン王立研究所』は」
キャンサーは暗号文を丁寧に封筒に入れながら、躊躇いがちにいった。
「ええ……確かに、珍妙なもので溢れておりました。一度『シグナス』を連れて訪れてみたいことです。彼ならきっと、いたく気に入ることでしょう」
・IV・
キャンサーが部屋を後にすると、再び二人だけの世界が訪れた。
「ドラセナが副総統、あの人がナンバー
キャンサーの恭しい態度に違和感を覚えたのか、カスピアが尋ねる。
「そんなわけないだろ。私の立場はただのスパイ。分析官でも調整役でも、チームの長でもない」
「じゃあどうして……」
「さあ、どうしてだろうな。本人に聞いてみな」
彼女はにべもなく言ったが、答えは分かり切っていた。
ミストラルは革命軍の精鋭にして、影の実行部隊。高い資質を維持するため、完全な実力主義である。
その中で能力・実績ともにトップを独走するのが弱冠十六歳の月下美人とあっては、そこへ向けられる
「それで……どうして自分が狙われていることに気づいたの?わたし、ずっとあなたと一緒にいたのに、何も怪しいと感じなかった」
それが一番知りたいと言わんばかりに、カスピアの双眸がセレイラを向いた。セレイラはジンジャーエールをグラスに注ぎながら答えた。
「ワルシャワで指令を受け取った時から怪しいと思っていた。この任務、私に任せるには少し簡単すぎる」
セレイラは現状のミストラルが持ちうる最良の切り札だ。必然的に、彼女に回される任務は、無謀とも言えるほど危険で困難なものばかりだった。
そんな状況にあって、隣町で仲間を暗殺から救うという任務は、これまでの任務と比べるとひどくたやすいものに見える。スパイの素養のないエミリアやアローシャでも、少しの知恵で成し遂げてしまいそうな課題だ。
「——だとするならば、その逆。仕掛け人は王党派で、任務と称して私をおびき寄せて抹殺する。そう仮定すれば、ワルシャワの死神がここにいる理由も説明がつく。それに——」
そこまで言うとセレイラは、すでにすっきりしたような顔のカスピアの方を向いた。
「これを見てみろ」
彼女は協力者から受け取った地図を開いた。
もともと引いてあった黒い線に加えて、協力者が新たに描き足した赤い線がある。ホテルの部屋で見た通りのものだ。
「これがどうしたの?」
カスピアはいそいそと地図を覗き込む。セレイラがいかにして計画の裏を暴いたのか、気になって仕方がない様子だ。
セレイラは赤い線を指で示した。
「こいつはルブリン城へ向かう正規のルートだ。途中には不埒者が身を隠すような物陰も路地もない。奴らはコースの終端である城の中で、私を葬る算段だ」
「だったら、なおのこと疑う必要ないじゃん。あからさまに狭い路地に線が引かれてるなら、まだ分かるんだけど……」
「そこだよ。こいつは私を殺すには下の下策。相手だって、こんな線はできれば引きたくないはずだ。だからこそ、イラリオンは最初からこうしたわけではなかった」
「——あっ!」
カスピアはとっさに声をあげ、それから竦み上がった。
セレイラの目が怪しく光る。
「彼は本来、もっと暗殺に適したルートに私を誘導したかったに違いない。ただ、それには大きなリスクが伴う。線の引き方次第では、私に疑われるかもしれないからな。彼もそれを承知の上で、私に色々と探りを入れてきた。どこに線を引けば疑われないか、注意深く見定めるためにね」
話の全貌が見えたカスピアは、恍惚そうなため息をついた。
「それが、廃倉庫がどうのこうのって話なのね……」
「然り。あのやりとりで、私が倉庫のことを知っていることを、彼は知った。つまり、オリオンは何の変哲もない倉庫の位置を把握しているぐらいにはルブリンの地理に精通していて、下手に線を引けば気取られる恐れがあると悟ったわけだ」
「それで仕方なく正規ルートを描いたってことか……。彼、本当はどこに線を引きたかったんだろう。セレイラは、そこまでお見通しなの?」
カスピアが冗談まじりに言うと、セレイラは間髪を入れずに頷いた。
「ここへ至るルートさ」
彼女が示したのは、城の南の正面。
そこには何も描かれておらず、空白のままだった。
「広場……?」
難しい顔をするカスピアに、セレイラは言った。
「この地図だけを見れば、そう受け取らざるを得ない。でも、実際は違うんだ。ここの空間——ルブリン城の南端には、茂みに覆われた細い林道が通っている。いけ好かない奴を『いなかったこと』にするには、うってつけの場所さ」
カスピアは謎解きの快感をしばし味わった後、心からの尊敬の眼差しでセレイラを見つめた。
「すごい、凄すぎる……! やっぱり天才だよ、セレイラ!」
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