第15章 未来へ
第58話 向日葵の墓から
降り注ぐ蝉の音の下、むせ返るような真夏の霊園を歩く。私たちは、ひとつの墓石の前にたどり着いた。
4人で手を合わせたあと、勲の持参した雑巾で墓石の掃除を始めた。その間、勲はずっと墓石に話しかけている。
「とうとう琴ちゃんが釈放だ。たくさん辛い目に遭ってきたから、これからは幸せに暮らして欲しいよなぁ。琴ちゃんは間違いなく、勇敢なオルレアンの乙女さ……オマエの言う通りな」
私は無心で、墓碑銘の窪みに溜まった汚れを拭き取る。墓碑銘はこうだ。
『矢田部リリー』
彼女の一生もまた、苦労の多いものだったに違いない。それでも、いつも感情豊かで思いやり深かった。誰もが彼女を好いていた。
別れは突然に訪れた。昨年の冬、脳卒中だった。
倒れたのは、ちょうど感謝祭の日だった。女子供でパーティーの準備をしている最中で、子供たちが全員揃っていた。
小学生になったばかりの私の娘
逝ってしまったが、みなから愛されていた彼女の墓は、いつも清らかに整えられている。
今村は、リリーに礼を言えなくなったことを残念がっていた。事件直後、愛香が祖母に引き取りを拒否されたとき、最初に引き取りたいと言ったのはリリーだったからだ。
出所後1番にここに来たがったのは、そういう理由だった。
勲の足の病はリリーを亡くしてから悪化したが、最近は持ち直している。敬介の一件で気落ちして、また悪くしないかとヒヤヒヤしたが、大丈夫そうだ。
墓をピカピカにした後、花を手向けて線香を上げた。手を合わせていると、清涼な風が髪をくすぐった。
生前、勲と同じ墓に入りたがっていたリリーは、和葬を希望していた。その希望通り、彼女はこの地に骨を埋め、愛する夫を静かに待っている。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
鎌畑琴の逮捕直後、彼女の写真が初めてテレビに出たとき、リリーが居間から叫んだ。
「コノ子、オルレアンノ乙女ヨネ! 違イマスカ?」
駆けつけてテレビを見ると、私にもすぐ判別できた。長年写真を撮っていなかったのか、公開された写真は中学生のときのモノクロ写真だった。
敬介は鎌畑琴のいる留置所へすっ飛んで行き、タダ同然で弁護人を買って出た。25年越しに会った友人を前にし、琴は堰を切ったように泣き出した。愛香を心配して泣き続け、ほとんど話が出来なかったという。
すぐに、愛香を誰が引き取るかが問題になった。
「不倫嫁の子は育てられない」
鎌畑正蔵の母スミそはう言って引き取りを拒否した。そうと知った勲とリリー夫婦が、すぐに名乗り出た。同居しているので、実際には私と百合子も愛香の面倒を見ることになった。
初めて愛香に会ったとき、子供の頃の今村によく似ていることに驚いた。しかし、あの頃の彼女のような
それでも、母のことを世界一愛しており、母の罪を軽くしたい一心で、そのためならどんな努力も惜しまないひたむきさがあった。
当初は私たちを疑り深い目で見ていた愛香も、そのうちに馴染み、雪絵や譲と遊んでくれるようになった。
ありがたいことに、愛香と百合子は馬が合い、週末には2人で買い物に出掛けるほどの仲良しになった。夫の欲目かもしれないが、まだ20代に間違えられる百合子と高身長の愛香は、姉妹のようにも見える。
*****
今村は15歳で夜の世界に入り、父親の借金を返済していた。半ば売られるような形だっただろうことは、本人が言わずとも想像に難くない。父が自殺した後、思い直して婦人警官の夢を叶えようとしたが、実現しなかった。右手の小指が無かったことや、赤線(公娼が認められていた地域)の外で働いていた過去が邪魔をしたのだ。
拘置所に面会に行ったとき、彼女は寂しそうに笑って言った。
「とんだクズオヤジさ。それでもアタシには最後の肉親だったから……」
父親を崇拝していた彼女がその境地に至るまでに、どれほどの苦痛と絶望を味わっただろう。そう思うと、胸が締め付けられる思いがした。
借金返済を終えた後、心機一転して湘南の弁当屋で働き始めた彼女は、観光客だった元夫・鎌畑正蔵に見初められた。正蔵は「資産家」を自称し、実際に羽振りが良かった。彼女が過去を打ち明けたとき、彼は「今の君を評価し、過去には目をつぶる」と言ったそうだ。
「ずっとお金に追い立てられて来たからね。お金に困らない生活に目が眩んだのさ。だからアタシも悪い」
今村はそう言うが、私には彼女が悪いとは思えない。
結婚後、夫の資産がほとんど底を尽いていることを知った。羽振りが良かったのは借金の結果だった。それと同時に、夫からの壮絶な暴力に耐える日々が始まる。
姑もブランド品を買い漁り、琴がそれを咎めようものなら、息子に嫁の悪口を吹き込んだ。そうすると正蔵は怒り、また激しく琴を痛めつけるのだった。
離婚を考えた頃、妊娠が発覚した。悪阻に苦しむ中で、琴は離婚を諦めた。出産直後から昼夜働かなくては生活できなかったが、乳児の預け先は無い。近所に住む姑に預けざるを得ないことは、人質を取られているに等しかった。「愛香のため」と念じ、琴は暴力に晒されながら9年を耐えた。
正蔵のお気に入りは、父親から受け継いだ木製クラブだった。琴を家の逃げられない場所まで追い詰め、クラブを振り上げて脅すのだ。何度かは実際に尻めがけて殴打した。酔ってふらつき、クラブが胴や足に当たることもあった。
この正蔵の「お仕置き」のために、琴は実に7回も骨折している。
愛香が8歳になった年、琴は夫の鉄拳のために網膜剥離を起こし、片目を失明した。
このまま自分が死ねば、次にターゲットになるのは愛香かもしれない。恐怖した琴は、愛香を連れて友人の家に逃げた。しかし、友人の夫に裏切られ、連れ戻されてしまう。
逃げた琴を正蔵は許さなかった。琴は、それまで以上に痛めつけられるようになる。
「不倫していたに違いない、何なら娘も自分の子ではないのではないか」
そんな被害妄想に取り憑かれた正蔵の魔の手は、愛香にも伸び始めた。
事件は、年明けの1月2日に起きた。
琴は台所で、夕食の煮物の下拵えに人参を切っていた。
居間では正蔵が、いつものように酔い潰れていた。正蔵が便所に行こうと立ち上がったとき、何かを踏んづけて悶絶した。それは、愛香が学校の宿題の書初めをするために広げていた
「
正蔵の怒声。ひっくり返る硯。薄汚れた畳や
正蔵は、離席していた愛香に憎悪をたぎらせた。
「あのクソガキはどこだ?!」
琴は台所から飛んでいって正蔵の怒りを収めようとしたが、逆効果だった。
「間男のガキがそんなに大事か。オレが消し去ってやる。2度とオマエがそのクソ男を思い出せねぇようにな」
鈍い音とともに、琴は壁に叩きつけられた。
正蔵は聴くに耐えないような下品な暴言を吐きながら、部屋中を血眼で探し回る。
愛香の身に危険が迫っていると思うと、琴はいても立ってもいられなかった。
反射的にキッチンへ戻り、出刃包丁を手に取る。
「この野郎、ガキが浅知恵でこんなところに隠れやがって!」
寝室だ。耳をつんざくような正蔵の怒声と、愛香の「ごめんなさい」という悲鳴が琴の心を鋭く刺した。
寝室へ走ると、愛香は引き摺り出され、頬に鉄拳を入れられたところだった。
倒れた娘に猛獣が襲い掛かるのを、琴は見た。
獣は愛香に馬乗りになり、愛らしい顔を強固な拳でバラバラに砕こうとしている。
幼い頃から、自分の命より大切に守ってきた愛香。
琴の苦痛のすべて、辛抱のすべてを無にし、輝きに変えるほど愛おしい娘。
その愛香は今、激痛に表情をゆがめ、涙を流して金切声を上げている。
「おかあさん!」
愛香が渾身の一声で泣き叫んだ。
「助けて! お母さん!」
琴の心は決まった。
畳に鮮血が飛び散った。正蔵の上体が愛香の上にズシリと倒れていく。琴は正蔵を畳に転がすと、首や心臓を何回も何回も、滅多刺しにした。この男が生き返ることが何より怖かった。完全に命を奪い、恐怖のすべてを終わらせなくてはならなかった。
畳が血の海となったあと、琴は愛香を抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね」
そう言い合い、しばらく2人で抱き合って泣いた後、琴は玄関へ向かった。
受話器を取る手は酷く震えていた。でも後悔はなかった。
警察はすぐに到着した。
「おかあさん、行っちゃ嫌! お母さん!」
手錠を掛けられた琴は、慟哭する愛香に「大丈夫だから」と笑顔を見せた。
そして警官に頭を下げた。
「どうか、あの子にしっかりご飯を食べさせてあげてください」
裁判の準備はスムーズに進んだそうだ。これまで琴が、病院や警察、知り合い、様々な機関に相談していたからだ。現状を打開しようともがいていた痕跡が、彼女に味方したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます