第57話 約束

 身も凍るような12月。近所の公園は落ち葉だらけで、まだ午後5時半なのにすっかり暗く、人気ひとけが無かった。街灯に照らされて、吐く息ばかりが白く浮かび上がった。


 公園の中心辺りまで来たとき、前を黙々と歩いていた敬介が不意に立ち止まり、振り返った。何と、微笑んでいた。


「ごめんな、史人」


 私は瞬時に理解した。


「芝居だったのかよ。百合子のためか?」

「ああ。アイツはもっと精神的にオレから離れた方がいい」


 安堵した途端、急に寒さが押し寄せた。あまりの緊張で、寒気を感じることさえ忘れていたのだ。


「心臓に悪いぞ」

「悪かったって。でも狼になったのは事実だろう」


 私は慌てて誤解を解こうとした。


「確かにそう思われても仕方がない。だがそんなつもりは無くて、ただ……」


「わかっているさ」

 敬介はニヤッと笑って言った。


「考えてもみろ。あの大変な妹の世話を、オマエの気持ちも知らずに頼んだと思うか?」


 私は目を丸くした。数秒間、さまざまな感覚が体内を駆け巡ったあと、奇妙な納得感が押し寄せた。


「つまり、僕はキミの手のひらで転がっていたと」

「愛のキューピッドと呼んでくれないか」

「誰が呼ぶか」


 私はバカらしくなって、敬介を放ってひとりでベンチまで歩いて腰掛けた。すると、敬介も私の隣に座った。肌を刺すような風が吹き、身が震える。


「寒いな」

「史人は脇汗が冷えて余計に寒いだろう」

「……怒るぞ」


 下らない軽口を叩きながら、私はふと不思議に思ったことを訊ねた。


「敬介がどれほど百合子を大切に思っているか知っている。それなのに、なぜ僕なんかに? どうしてそんなに信頼してくれるんだ?」


 敬介は小さな微笑みを浮かべた。


「初めて父さんと会った日の夜だ。史人、寝ぼけてアレコレ言っただろう。翌日にはもう憶えていなかったが」


 確かにそんなことがあった。敬介は続ける。


「あのとき、オマエが半分寝ているのをいいことに、オレも言いたい放題だったんだ。3人に頼られるのが重荷だとか、本当の自分は『アニキ』なんかじゃないとか。他にも色々、ここでは言えないようなことを」


 記憶の扉が開く、という表現が適切かどうかわからないが、あのときの敬介の歪んだ横顔が、脳裏に浮かび上がった。


——オマエたちはオレに寄りかかりたいだけだろうが。嘘つきの尻拭いもケンカの仲裁も、イジメのお礼参りも、全部やめてやる。自由になりたい。そうしたらオマエらもオレなんか見捨てる。誰もいなくなる——



「……ごめん」


 謝った私に、敬介はかぶりを振った。


「オマエたちは悪くない。それは誓ってそうだ。オレの問題だ。心の傷は顎のように治ってはくれなかった。何度閉じてもまた開く。今でもときどき思う。いつか自分の周りに誰もいなくなると……」


 そうだろうな、と思う。敬介の強さは、ときに空中ブランコのようだった。彼は徳義やヒロイズムの籠の鳥で、精神的には悪人ですらあるかもしれない。だがそれが何だろう。それこそが、私のかけがえのない親友そのものだ。


「心に闇がない人はいない。僕にもある。闇に落ちるときがあっていい。時が来たら自然と立ち直る。キミにはそれができる。……必要なときはいつでも助けになる

よ。決して見捨てない」


 励まそうと思ってそう言ったのに、敬介はおかしそうに笑いだした。拍子抜けした気分だ。


「笑うなよ」

「史人は変わらないな」


 敬介は続けた。


「あのとき、オマエは寝ぼけてオレの愚痴を聞くうちに、段々とショックで目が冴えたようになった。で、こう言ったんだぜ。『それが何だ』って。『キミみたいな弱虫には支柱が必要だ、僕がなってやる』とさ。ところがそう言うが否や、窓辺から下へコテンと転落しそうなって……重かったぞ。どっちが支柱だと思ったらおかしくてさ。……でも、オマエは結局、その言葉を守り続けてくれている。オレの本性を見抜いていながら、今の今まで。どんなに心強い支えか……。オマエならきっと百合子を見限らない」


 私は何重にもむず痒い気分になった。支えられているのは、こちらとて同じだった。彼が寄せてくれる全幅の信頼が、心折れそうなときの光のひとつだった。




 会話が途切れた。




 敬介は街灯を見上げて自分の白い息を眺めていたが、不意に訊ねてきた。


「なぁ、百合子を幸せにできると思うか?」


 言葉に詰まったあと、「うん」と答えた。しかし、敬介の見透かすような視線に耐えきれず、正直に言い直した。


「最大限の努力はするさ。ただ、結局は百合子次第というところはあるよ。彼女も傷ついて生きてきたから」


 すると、敬介はポツリとこぼした。


「オレさ、人間は幸せになるようにはできていないと思うんだ」


 結婚を控えたオマエに言うことじゃないか、ごめん。敬介は恥じ入るようにそう付け足した。


「別にいいよ。どうした?」


 色を失い沈んだ横顔から、彼が何か迷いを抱えているのだと直感した。

 敬介はボソボソと話し始めた。


「まだ、自分があそこにいるような気がする。……十兵衛の家に、飴と鞭で使われていたあの頃のまま、何も変わらずに……」


 変わっただろ、という言葉を飲み込み、私は耳を傾けた。敬介は俯いて嘆息し、続ける。


「あの骸骨を探す旅は、今思えば人生の象徴のようだ。オレはあの頃、黄金のような完璧な幸福があると思っていた。それを手にすれば2度と思い悩む事がない、恒久で完全な幸福だ。衣食が足りれば、あるいは愛する者と暮らせば叶えられると信じていた。時が流れて今、望んでいたものはすべて手に入った。それなのに、根本的な問題は何も解決されていない。命ある限り、幸福と生命主義の奴隷だ。すぐに過ぎ去る一瞬の飴のためだけに、膨大な苦役を強いられる。実態のない形骸、空っぽの、そんなものに向かって、まるで鼻面に人参をぶら下げられて走る馬車馬だ」


 吐露する敬介の顔は、陰になって見えない。


 もし幸福を求める心を捨てれば、真の安寧を手に入れられるかもしれない。それでもたぶん、人は生きている限り、亡霊のように腕を伸ばさざるをえない。なぜならその忘我の瞬間は、何にも代えがたく美しいから。



「満足したら、歩みが止まるんじゃないかな」

 私はそう言った。もしかしたら重大な間違いを犯しているかもしれない。それでも思い切って語を継いだ。


「幸せを求めてもがくのが人間の本質だろう。キミの言う通り、それは蜃気楼のようなものかもしれない。でも、だからこそ人間は向上する……とも言えるんじゃないか。もし個人が恒久の幸福をつかめたとしたら、次世代を望むこともない。あとは幸福に滅ぶだけだ」


 敬介は少し驚いた顔をした。そして、小声で白状した。


「実は、綾子が身籠ったんだ。オレ、ちゃんと父親になれるだろうか」


 私の胸は熱くなった。なんだ、そういうことだったのか。妊娠中の妻に不安をぶつけることなどできず、孤独へ籠っていくわけだ。


「キミなら大丈夫だ。上手くやれるさ。でも不安になったら、こうやっていくらでも話し相手になるさ」


 敬介は安堵の表情を見せ、私に手を差し伸べた。


「いつもありがとうな。百合子をよろしく頼む。ずっと味方でいてやってくれ」


「こちらこそ。どんなときもキミたちの味方だ」


 私たちは、寒空の下で固い握手をした。


 これが正解だったのか、結局分からず終いだ。そんなものは無いのかもしれない。ただひとつ言えることは、私の言葉が親友を勇気付けたということだ。それこそが、この瞬間の正解だと思えた。


 このときの約束を、私は死ぬまで忘れないだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る