第6章 県堺より
第23話 鉄道橋と高所恐怖症
江戸川には橋が少ない。
江戸時代、この川辺には関所が設けられ、テロリストやスパイによる江戸への出入りを防いでいた。その関係で橋が少ないのである。
だから私たちが江戸川堤に到着したときも、人の通れる橋は見当たらなかった。
ゆらめく水面の遥か上には、トラス式の鉄道橋だけが、1本架かっていた。
私は言った。
「選択肢は2つだ。1つ、川上へ半里歩いて橋を渡る。1つ、川下へ半里歩いて渡舟場から舟に乗る」
半里、というのはおよそ2kmだ。向こう岸に着いたらまたこの道に戻ってくるので、往復4km歩くことになる。このぬかるんだ道だと、時間にして1時間半は掛かるだろう。
「ここまで来たらもう、3つ目だな」
私が目を逸らしていた3つ目の選択肢を、今村が決定事項のように挙げた。
「この鉄橋を渡って行くんだ」
私はそっと、今村から視線を外した。
目の前に続く鉄道橋の長さは約250m、普通に歩けば3分で向こう岸に渡れる。ただし、足場の悪い枕木を一歩一歩渡って行くので、倍以上の時間がかかると考えて間違いない。その間に汽車が来れば、4人仲良く轢死することになる。
ブギが顔をしかめて言った。
「このぬかるみを遠回りしたくないな」
「だからここを行けばいいんだよ!」
と、今村が再び主張した。
匠もそれに頷いた。
「この線路は橋桁に囲まれている。汽車が来ても、登れば逃げ切れそうだ」
「で、でも」と私は言った。
「危険だよ。落ちるかもしれない」
匠、今村、ブギの3人は顔を見合わせ、ニヤッとした。
今村が言った。
「大先、さては怖いな」
「別に怖くない」
嘘だった。私は高所恐怖症だ。
幼い頃、「躾」として父に2階の窓から放り投げられそうになった。父としては本気ではなかったのだろうが、私はそのときから高い所が大の苦手だ。
「怖くないなら先に行ってみろよ」と、今村が挑発してくる。
私は意を決して挑発に乗った。線路の枕木に乗り、思い切って橋に足を踏み出そうとした。
枕木と枕木の間から、遥か下に流れる川が揺れているように見えた。その途端に、足元が崩れていくような感覚に囚われ、全身の毛が逆立った。
「あっ」
次の瞬間、私は筆舌に尽くし難い屈辱を味わった。いくら虚勢を張ったところで無駄だと悟った。ズボンに小さな染みが出来ている。
そんな私を見て3人はドッと笑った。
今村が腹を
「大先さぁ、お漏らししてやんの」
ブギも調子に乗って「傑作、傑作」と囃し立てる。
私は恥ずかしいやら悔しいやらで真っ赤になり、むくれて「笑ってろ」と言い捨てた。
すると、匠がつむじを曲げた私のそばに来て肩に手を回した。
「守ってやるから。支えといてやるから、行こうぜ」
「ぜ……絶対に落ちない……?」
私が幼な子のように情けなく尋ねると、匠は「ああ、絶対だ」と力強く答えた。匠がそう言うと、それだけで説得力があった。
すぐに、今村が私と匠の間に割り込んできて、私たちを引き剥がした。
「アニキはまた英雄気取りだな。いいか、英雄はアタシだよ。クソ弱い大先はアタシが守ってやるんだ」
「クソ弱い」は余計だが、有り難かった。
こうして、私たちは慎重に鉄道橋を渡り始めた。
ブギが先頭を歩き、その後ろに今村、今村に手を引かれて私、最後尾に匠がついた。
私は前を歩く今村の左手を両手で握りしめ、恐る恐る進んだ。下に流れる大河を意識せぬようにしながら、枕木を慎重に踏んで歩く。その作業は、高所恐怖症で無くとも肝を冷やしただろう。
「おい、そんなに震えると歩きにくい」
今村に文句を言われたように、私の膝や腕、全身はガクガク震え、止めることができなかった。
匠は私を落ち着かせようと、年下の子にそうするように声をかけ続けている。
「そうだ、史人、上手いぞ、その調子だ。……大丈夫、絶対に落ちない。足を踏み外してもオレがつかまえて引き上げてやるから、安心するんだ。……そうだ、もうあと少しだ」
ガキ大将の匠は、私を背後から面倒見ながらも、前を歩くブギに指示出しすることを忘れない。
「汽車が来ていないか、レールを触って確かめてくれ」
ブギはしゃがんでレールに触れ、「揺れてない」と伝えた。
私は前方の岸辺を見た。
もう6分の5は渡った頃だろうか。あと1分も歩けば、岸に着きそうだ。
そのとき、私は妙な振動を感じた。
「なぁ」
その先を言う必要は無かった。巨大な蒸気機関車が、私たちの背後600mほどの位置で汽笛を鳴らしたのだ。
心臓が飛び出し、冷や汗が一気に吹き出した。
「走れ!」
匠の号令で、私達は駆け出した。私は高所恐怖症なのも忘れ、匠に背中をどつかれながらがむしゃらに走った。しかし、蒸気機関車はあっという間に橋に差し掛かり、私達に追いついてくる。間に合わない……!
「傍に避けろ!」
私達は傍へ寄り、橋桁にしがみついて橋の外側に待避した。
危機一髪。
すぐに、蒸気機関車が豪風を連れてやって来た。耳をつんざく轟音と共に、私たちのすぐ目の前を通過して行く。私は目をギュッと瞑り、無我夢中で橋桁にしがみついて耐えた。
やがて蒸気機関車が去ると、再び川の流水音が支配する静寂が訪れた。小鳥がピピピッと鳴いた。
「お〜い! 大丈夫かぁ?」
向こう岸からブギの声が聞こえる。ブギだけは、蒸気機関車が来る前に橋を渡り終えたのだ。
私の右側で、同じように橋桁にしがみついたままの今村が「あの野郎……」と毒づいた。
左側では匠が「助かったぜ……」と深い吐息をつき、クルッと橋の内側へ回って線路に戻った。
ホッとすると同時に、また名状しがたい恐怖が蘇って来た。早速私は泣き言を言った。
「待ってよ、下手に動けない。だってここには僕を囲うものが何もない。落ちる。線路に戻れないよ」
匠と今村は「ヤレヤレ」と顔を見合わせた。
「大先生、ちょっと待ってろよ。今引っ張っやる」
今村がそう言って線路の内側に戻ろうとしたときだった。彼女はうっかり滑落した。
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