第3章 立て直し

第10話 1977年夏、隅田川より

 1977年8月10日。

 今村に「刑の免除」が言い渡された日だ。彼女は拘置所から出所し、私や娘の愛香と共に電車に乗っていた。

 しかし、乗り換えの北千住駅で、彼女はアベックに指を差された。


「あの人って、夫殺しの……」


 私たちは暗黙の了解で駅舎から出、タクシーを捕まえた。タクシーの運転手は、私たちに気がつかなかった様子だ。


「今日は巣鴨のほうで、学生どもがまたバカ騒ぎをやってくれてますよ。脛かじりの分際で血気盛んで、ハァ、しょうもないですなァ。『学生の本分は勉学だろうが』ってね。ハハッ。こっちは仕事になりゃしない。危険なんで、そっちは避けて行きますね。あ、窓はご自由に開けてください」


 仕事の邪魔になる学生デモの愚痴を言ってスッキリした様子の運転手は、機嫌良く出発した。タクシーは、隅田川沿いの並木道を進んで行く。後部座席の窓をクルクルと開けると、心地よい風が車内に吹き込んで来る。


 車内から見えるのは、化学汚染された隅田川だ。美しく澄んでいた川は、姿を消してしまった。ただ、これでも一時期よりはかなり持ち直したのだ。きっとまだ希望が持てる。


 


 そのとき、今村が窓外のある一点を指差し、私に声を掛けてきた。


「憶えてる? あそこ」


 隅田神社だ。あの日、養護施設の指導員から逃げるために小舟に乗った場所だ。


 私は懐かしさに目を細めた。



✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



 高度経済成長期前の隅田川は大変美しく、当時の知識人たちはその様子を言葉を惜しまず褒め称えた。

 水は透き通り、魚は踊るように跳ね、川底には光の筋が反射していた。


 そんな清涼な流れの中に、一艘の小舟が浮かんでいた。そこに私たち4人はいて、ああでもない、こうでもないと言いながら、何とか小舟を動かしていた。


「ごめん」


 珍しく塞ぎ込んでいた匠が私たち3人に頭を下げた。


「雑嚢、取られちまった。乾飯ほしいいもラムネも、財布も地図も全部だ」


 そんな匠を見るのは初めてで、私たち3人は困惑して顔を見合わせた。


 私は言った。

「匠のせいなもんか。僕のせいだ」


「違う。オマエは時間稼ぎをしてくれただろう。お陰で舟が準備できた。……オレがちゃんと気をつけていたら……」


 その空気は、さながらお通夜のようだった。今村がポツリと呟いた。


「佐々木たちさ、なんであんなにすぐにアタシたちの脱走に気付いたんだろう」


「今村がバスを止めたからだろ」

 と、私は投げやりに答えた。


「孤児だとバレたら施設へ連絡が行くから、目立たないようにしろって言ったじゃないか」


すると今村が「はぁ?」と声を荒げた。


「アタシのせいかよ? アタシが居なかったらバスに乗ることもできなかったくせに。」


いつもなら仲裁に入る匠が黙り込んでいる。今村はヒートアップして怒鳴った。


「大先は佐々木と仲良く施設に帰れば良かったんだ! そうすれば雑嚢は奪われてないし、施設のみんなも安泰なんだからさ! 」


「僕が帰ったら、どうしてみんなが安泰なんだ?」


 私は平静を装おうとしたが、自然と声が尖る。今村はさらに怒鳴る。


「何にも知らないもんな、お坊ちゃんは。いいか? 大先があそこに入ってから、急に物品が揃い始めたんだ。食事だってその前はもっと酷かった。どういうことかわかるか? オマエの親が寄付してんだよ、それもおそらくかなりの額な。だから、施設のチビどものことを思えば、大先には脱走の自由なんか…」


「もう十分だ」


 匠の鋭い声が、今村の演説をかき消した。

 匠は舟底に立膝をついて座り、相変わらず俯いていた。


 今村はバツの悪そうな顔をして私から目を逸らした。言い過ぎたことを後悔しているのだろう。


 私は、自分が何も知らなかったことよりも「帰れば良かった」と言われたことの方がショックだった。「オマエはいらない」と言われたような気がしたのだ。


 私はあくまで彼らの「財布」だった。彼らと共に盗みに行ったり、禁制品の仕入れに行ったりしたことは、実は一度もない。「行きたい」と申し出たことはあるが、匠が許可しなかったのだ。


 それまでも薄々思っていた。3人を親友や兄弟のように思っているのは私の方だけで、3人にとって私は「打ち手の小槌」でしかないのではないか。金銭を引き出せなくなった時点で用済みなのではないか、と。


 もう誰も喋らなかった。ブギと今村が櫂で水を掻く音が、悲壮感をより一層感じさせた。




 そのとき、ブギが櫂を動かす手を止めて叫んだ。


「おい、河童だ! 河童がいるぞ!」


 私たちは一斉に、ブギの指差す方を見た。

 何もいない。


「まーたお得意のホラか」

 と今村が呆れ返って言った。


「本当にいたんだよ。この目で見た」

「どの目だって?」

「この涼しげな目さ」

「どこに涼しげな目がついてるって?」


 今村とブギの掛け合いを聞きながら、私はポツリと呟いた。


「河童ブギウギだけに……」


 『河童ブギウギ』というのは、当時発表されたばかりの流行歌だった。河童が月夜に踊る様子を陽気に歌い上げた曲で、美空ひばりのデビュー曲だ。


 これが思いがけず、匠と今村に受けた。

 少し間をおいて、2人は同時にゲラゲラと笑い転げ始めたのだ。


「おいブギ、それは狙っただろ、絶対」

「よりによって河童かよ」


 揶揄われてブギは怒った。


「ふざけんな、舟漕ぐのをやめるぞ」


 匠は腹を抱えながら立ち上がり、ブギの肩を叩いて漕ぎ役を交代した。そして、舟を漕ぐ動きに合わせてふざけた調子で『河童ブギウギ』を歌い始めた。


 今村と私も調子を合わせて歌うと、ブギはますます怒って騒ぎ立てた。


 匠と今村にとっては、この陰鬱とした空気を抜け出せるなら、笑う理由なんて何でも良かったのかも知れない。


 私たちが歌うのをやめないので、ブギはとうとう諦めたように口をへの字に曲げて言った。

 

「わかったよ、わかった。河童を見たっていうのはウソだ。だって3人ともムッツリしちゃってさ、何にも喋らないんだもん」


 とうとうブギが嘘を認めたので、私たちは歌うのを止めた。匠がニヤッとして言った。


「ここにブギがいて良かったぜ。それでこそオマエだ」


「馬鹿にしてるだろ」

 とブギは膨れっ面だが、匠は首を横に振った。

 

「本気だって。オレたち、オマエに救われたんだせ」

 と匠が言うと、今村も

「ブギはこういうときに役に立つよな」

 と同意した。すると、ブギは照れて鼻の下を掻いた。


「本当、さすがだよ、ブギ」

 私もそう言った。本心だったが、自分が何ひとつみんなの役に立っていないことを思うと、心には消えない棘が突き刺さっているようだった。



「で、これからどうする?」

 今村が匠に尋ねた。匠は櫂を揺らしながら考えた。


「もともと隅田川を渡る予定は無かったんだ。目的地と逆方向に来ちまってる。戻ったとしても、もうバスには乗れないよな。……史人はどう思う?」

 

 私は途方に暮れていた。バスで行くことしか考えていなかったのだ。『狗里の森』付近には鉄道も通っていない。タクシーは使えないし、歩いて行くとすると、絶対に日没には間に合わなかった。


 それ以前に、予定外の知らない場所で地図を取られてしまったということは、今や完全に迷子になってしまったということだった。


 私は「どうしよう」と答えるしかなかった。そして、心の内で自分の無能を責めた。あらゆる可能性を考慮するべきだった。



「今日はもう着かないんだろ?」

 今村が言った。

「なら、とりあえず向こう岸に着いたらアタシに任せなよ。この辺詳しいんだ。」


 途方に暮れていた男3人は顔を上げた。

 そういえば、今村はここに小舟がつけてあることを知っていた。


 今村は対岸を見つめながら言った。

「あっちはアタシの故郷だ。」



✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



 対岸に漕ぎ着けると、私たちは川の水で手や顔を洗って涼をとった。


 その後、すっかり元気になった匠の号令で、今村の故郷・山谷を目指した。

 匠がいつものガキ大将に戻って、私も今村もブギも心底ホッとした。



 今村によると、山谷の近くに駅があるらしい。その駅前に青空市が立っているので、地図や食べ物が手に入るかもしれないとのことだ。


 無一文だったが、浮浪児経験のある匠とブギは「何とかなる」と笑った。


 河川敷を埋めるように並ぶバラックを縫いながら、私たちは歩いた。先程の悲壮感は、舟の上に置いてきた。

 揶揄い合ったり、歌ったり、ふざけて肩を組んだりしながら、私たちは山谷を目指した。

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