1949年夏、黄金の骸骨を探しに

釣舟草

プロローグ 1977年 東京拘置所前

 1977年8月10日。だるような真夏日の真昼、私たちはもう30分も立っている。強い日差しはジリジリと肌を焼き、蝉は最後の夏を謳歌するように鳴き続けている。


 場所は東京都葛飾区小菅。田園の広がる開放的な風景の中に、ポツンとコンクリート造りの建物がある。この建物は、およそこの場所に相応しくない冷然な空気を醸し出している。


 そう、私たちの目の前には、東京拘置所がそびえ立っているのだ。



 小学6年生の愛香は、私の隣で身動きひとつせずに、拘置所の門を睨み続けている。歳の割にスラッと背の高い少女だ。向日葵のついた黄色い髪ゴムで、肩に垂れた髪を2つに縛っている。


 母親に似た黒曜石の瞳に汗が流れ入りそうになっていたので、私は声を掛けた。


「大丈夫か?」

「はい、おじさん」


 彼女はタオルハンカチで顔を拭い、短く答えた。今は私の声掛けなど眼中に無いらしい。それも当然だ。




 刑務官が門を開けたとき、愛香の澄んだ瞳は大きく見開かれた。

 門の向こう側に、やつれた女が立っている。彼女は、愛香と同じ目をしている。


「お母さん!」

「愛香!」


 2人は互いに駆け寄り、思い切り抱き合った。ガラス越しでない触れ合いは、実に3年ぶりだ。涙を流して抱き合う母娘に、私もついもらい泣きしそうになった。


 数年分の愛情を伝えるように愛娘を抱きしめる母親の右手には、小指が無かった。




 3年前、今村琴(当時は鎌畑琴)は自宅寝室で、夫・鎌畑正蔵を刺殺した。彼女が正蔵から頻繁に暴力を受けていたことは、周知の事実だった。


『元資産家夫刺殺事件』は当初から大々的に報じられた。ワイドショーでは連日、琴の過去が掘り起こされた。


 彼女は週刊誌やテレビの格好の餌食だった。「悪妻が夫の資産を食い潰したのだろう」と、嬉々として予想するコメンテーターもいた。ある心理学者は、孤児院にいた彼女の経歴から、「親の愛を受けられずに心が歪んだのだ」と断定した。


 しかし、日を追うごとに報道で明らかになる、元夫からの壮絶な暴力。元夫に殴られて片目の視力を失ったこと。異常な骨折回数。犯行時にも顔全体が腫れ上がるほど殴られていたこと。


 さらに、「殺された夫がギャンブル狂いだった」「琴は借金返済のために深夜に働きに出ていた」そんな報道が、人々の胸を打った。


 極め付けに「犯行は、娘を暴力から守るために止むに止まれず行われた」と報道されると、世論は一気に琴に同情的になった。



✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



 1時間前、私は地方裁判所の傍聴席にいた。彼女に言い渡される判決を、固唾を飲んで見守っていたのだ。


「今村琴被告に、刑の免除を申し渡す」


 裁判長が厳かに読み上げると、傍聴席がざわめいた。


 私はすぐに愛車で家に戻り、愛香を連れて拘置所の前に行く予定だったが、家に着いたところでエンジンがかからなくなってしまった。妻に溜息を吐かれた。


「アナタったら、肝心なときにコレなんだから。琴さんをお待たせしちゃいけないわ」


 仕方なく、私と愛香は電車でここまでやって来た。そして、裁判所から戻った琴が荷物をまとめて出てくるのを待っていたのだ。



✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



 緑の広がる田園地帯が、この美しい母娘には良く似合っていた。拘置所の前で愛香の肩を抱きながら、今村琴は私に言った。


「ありがとう、史人」


「僕は何もしてないよ。礼なら敬介に」


 すると、今村は悲しそうな顔をした。


「まさかあんなことになるなんて。……アタシのせいだね」


「今村のせいじゃないさ」と私は答えた。今村は、私と愛香に頼み事をした。


「まず雑司ヶ谷ぞうしがやでお墓参りをしたいんだけど、いいかな? 」


 雑司ヶ谷霊園といえば、彼女の夫が眠っている墓ではない。の墓参りをしたいのだろう。


「いいよ、お母さん。ねぇ、おじさんも、いいよね」


 愛香が、あの日の今村と同じ瞳で見つめてくる。


「そうしよう」


 そう答え、私は駅に向かって歩き始めた。私の後に、母娘が続く。



✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



 乗り換えの北千住駅で降りると、昼間なのに結構な人通りだ。


 目の前の大通りには、無数の乗用車やトラックが行き交い、騒音と共に排気ガスを撒き散らしている。


「旦那さん、一箱いかがかい?」


 煙草売りの小柄な年配男性が、妙に人懐っこく私に声を掛けてきた。

 私は小銭を取り出しながら言った。


「この辺りは随分と変わったようですね」


「そうだね。ここ数年でだいぶ開発が進んだよ。治安も良くなって、住みやすくなったもんさ」


 男性はニコニコと愛想良く私の顔を見て話しているが、多くの年配の街頭物売りがそうするように、一瞬鋭い目つきで私の手元を確認した。

 私はそれに気がつかないふりをして続けた。


「30年前は、この辺りにも闇市が立ったそうですね」


「ああ。戦後すぐのこの街ときたら、地獄だったよ。盗み、恐喝、乱暴。そのうえ、そこいら中で行き倒れが死ぬしで。ホントにいい時代になったもんさ……」


小銭を受け取ると、煙草売りは笑顔を絶やさず他の客を物色し始めた。


「おじさん、行こう」


 私は愛香に急かされ、乗り換え駅に向かって並木道を歩き始めた。


 路傍の木々から降り注ぐ蝉の声が、アスファルトに染みこむ。

 急に突風が吹き、私の帽子を空高くさらって行った。

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