第六十四話:籠の中の鶴は大海を知らず、されど空の青さを知る

 月の里に連れて行くため、大車に乗せられた子供が怯えた目をさやに向ける。

 当然か。子供からしてみれば、またしても知らない大人達に知らない場所へ連れて行かれようとしているのだから。


「大丈夫。私達は君の味方だよ。これから月の里という場所に行くけど、そこで君の怪我の治療と、少し話を聞くだけだから」


 さやはなるべく優しい声音で言う。泣きそうだった子供の表情が少しだけ緩んだが、やはりまだ緊張していて、子供はさやの柿色の着物の裾を不安げに握った。

 その仕草に子供らしい可愛さを感じながら、さやは自分は用があるからついて行けないけど、後から合流すると言い、そっと子供の手を着物の裾から離させた。


 隊員達が大車を押して出発しても、子供はずっと不安げな瞳をさやに向けていた。その視線を受けてさやの心はズキズキと痛む。


「……さや様、行きましょう」


 紫月がさやの肩を叩きながら言う。子供の姿はもう見えなくなっていた。


「あの子、里でどんな扱いを受けるの?」

「それを決めるのは上の者です。私にはわかりかねます。ですが少なくとも、今まで彼が置かれていた環境より悪い待遇を受けることはないでしょう」


 紫月の回答を聞き、さやは少しだけ安心する。相手は盗賊や伊賀の者に虐げられてきた八歳の子供で、しかももう一人の天恵眼の発動者だ。里の方でも乱暴に扱ったりしないだろう。多分。


 さやと紫月は、里からのおつかいを果たすため、まずは酒田の町へと向かう。季節は八月。照りつける日差しは強く、さやは少し歩いただけで汗をかいてしまう。


(あつい……)


 日差しが肌を焦がし、額や腕に汗が滲む。周りを見てみると着物を脱いで上半身裸になっている者が多い。中には下帯だけの男もいた。

 さやは袖をまくりながら、前を歩く紫月を見上げる。彼は特に暑がる様子も見せず、汗もあまりかいていないようだ。体質の違いか、それともたゆまない鍛錬のおかげか、さやには分からない。

 汗を拭いながら着いた町で、紫月は野菜と、うるち米を買った。他には里が委託している薬草園で、数種類の薬草を摘む。ドクダミ、センブリ、ニッケイ、オオバコ……他には毒草のトリカブトや馬銭子まちんしという木の種子も採った。トリカブトは猛毒だが、根の方の附子ぶしは鎮痛・強心・利尿作用のある生薬となる。馬銭子もごく少量なら胃薬として使える。


 それらの薬草を採取したあとは、塩を求めて海の方へ向かう。


 海に近づく度、潮の匂いが強くなる。同時に海藻と魚の匂いも漂ってきた。今まで嗅いだことのない匂いに戸惑っていると、急にアクリが走り出す。


「あ! こら、アクリ! まて!」


 さやがアクリを捕まえようと走る。すばしっこいアクリはさや達の手を躱しながら、あっという間に海岸へと着く。潮風が吹くと、さやの目の前には広大な海が拡がっていた。


「これが、海……」


 打ち寄せる波の音、熱い砂、微生物が死んだ独特な潮の匂い。海鳥の鳴く声。三鶴という内陸国と月山がっさんにある月の里で育ったさやにとって、初めて見る本物の海だった。


 周りには漁師らしき男達が獲れた海の幸を舟に上げていく。他には昆布を拡げ、漁獲網を縫う女達、海に飛び込んで泳ぐ子供達がいた。ほとんどの男はふんどし一丁で、子供の中には何も身につけていない素っ裸な者も少なくない。


「あれは何?」


 さやはアクリを胸に抱きながら、漁師達が網で焼いているものを指さして紫月に問う。恐らく貝の仲間だと思うが、さやは見たことがない。


「あれは、岩牡蠣ですね」

「イワガキ? 柿の仲間なの?」

「柿とは関係ないです。ああいう形の貝が今の時期には獲れるんです。そうですね……アワビと似たような物、とでも言いましょうか」


 二枚貝の牡蠣と巻き貝のアワビは違う物ではあるが、紫月はどう説明して良いかわからず、こう言うしかなかった。紫月もあまり海の幸は詳しくないし、食べたことも少ない。

 興味深そうに辺りをキョロキョロと見るさやを連れて、紫月は海辺で店を開いている商人の元へ行き、塩を買う。他に口細カレイやスルメイカの干物や昆布などを買った。岩牡蠣は鮮度がすぐ落ちてしまうので、里には持って行けない。


「ちょうどいいです。天気も良いので、ここで水練の続きをしていきましょう」


 背負子しょいこに買ったものを入れていき、代わりに中から里特製の水練用着物――水着を取りだし、紫月はさやに渡す。蝦夷エミシの里で着て以来、すっかり忘れていた水着を受け取りながら、「水練なら、旭川でやったじゃない」と紫月に言い返す。


「川と海とでは、水練は大きく異なります。せっかくなので海の泳ぎ方を学びましょう」


 言い終わる前に、紫月は紫紺の装束を脱ぎ始めた。逞しい上半身が露わになり、さやは思わず顔を赤らめて後ろを向く。紫月は構わず袴も脱いで下帯にも手をかける。何人かの女(と少数の男)が紫月の裸体をちらちらと見ていたが、紫月はあっという間に全裸になり、しきみの油を全身に塗って水着に着替える。


 別にさやは紫月の裸を見たことがないわけではない。行水している紫月を何度か見てしまったこともあるし、着替えている時に出くわしたこともある。だが何度見てもさやは慣れない。女の自分とは違う、固くて直線的な身体を見る度恥ずかしくなり、つい目をそらしてしまう。


「終わりましたよ。さや様はあちらの小屋の方で着替えてきて下さい」


 着替え終わった紫月から水着を受け取り、さやは指定された小屋の方に向かう。その小屋は網を縫う場所のようで、ちょうど今女達は休憩中なのか、小屋の中には誰もいなかった。


 辺りを見渡し、怪しい者がいないかと、紫月も後ろを向いてくれているのを確認して、やっとさやは着物を脱ぐ。不思議そうに見ているアクリを尻目に、さやは急いで裸になり、樒油を塗って水着を着た。身体にぴったりと付くこの着物、やっぱりまだ慣れない。


 アクリにカレイの干物を餌にあげて、ここで着物と背負子を見張って待っているように指示し、さやと紫月は海へと繰り出す。じゃぶじゃぶと海の中に入っていく紫月とは逆に、さやは波打ち際で入水を躊躇ってしまう。


「さや様、なにをやっているんです」

「だ、だって、なんか怖くて……」


 濡れて固くなった砂の感触、押しては返す波に足が洗われる感覚は、さやにとって初めてのもので、軽い恐怖を覚えた。海がどんなものかは書物などで知っていたが、実際に見てみると、川より遙かに大きく、波が断続的に襲ってくるのが少しだけ怖かった。


 紫月はため息を吐くと、用意していた水器をさやに見せる。丸い板の中央に人が乗れるスペースがある「水蜘蛛」という、現代で言う浮き輪の役目を果たす水器を、紫月はさやに投げて寄越す。

 さやはそれを受け止めようとするが、その時一際大きな波が襲い、さやは体勢を崩し海の中へ倒れ込んでしまった。


「きゃ!」


 全身に海水を浴び、塩辛さを感じながら、さやは顔を拭って目を開けた。


 視界に入ってきたのは、雲一つない青空、強く輝く日輪。遮るものがない空は、どこまでも広い。


「あ……」


 さやが浸かっている海も、水平線の向こうまで続いている。

 この海のずっと向こうには、日の本とは違う国があり、そこには姿形も言葉も文化も違う人達が住んでいる――昔、三鶴城で果心居士に教わったことを、さやはこの時初めて実感した。自分の世界が三鶴しかないと思ってたあの頃とは違い、今の私は、世界はこんなにも広いことを知った。

 自分が随分遠い所まで来たような、でもやっとここまで来られたような、不思議な感覚がさやの心を満たしていく。


「さや様?」


 様子のおかしい主人に話しかける紫月に、さやははにかんで見せた。

 私の知っていた世界は、なんて小さかったんだろう――十六歳の亡国の姫は、どこまでも続く海と空を見ながら、世界の広さとまだ見ぬ可能性を知り、自分の存在の小ささを知った。


 いつかこの目で海の向こうを見てみたい。夏の日差しを浴びながら、さやはまた一つ、確実に成長していったのだった。

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