第八章:一五九〇年~一五九三年・試験

第三十四話:さや、十五の時

 豊臣秀吉により元号が「瑞祥ずいしょう」と改元されても、全国、特に奥州が平和になったわけではなかった。

 さやが里にて紫月と修行している間、奥州では大規模な一揆や反抗が何度も起こった。

 特に一五九〇年十月に葛西・大崎地方で起こった一揆は、奥州討伐軍が鎮圧するのに年をまたがなくてはならなかった。奥州討伐軍は翌年の一五九一年の六月に一揆首謀者二十名あまりをはりつけにし処刑。しかしこの一揆には芦澤家が裏で扇動していた疑いがもたれ、協議の結果、芦澤家は会津他領地を減らされた。


 同じく瑞祥歴二年、一五九一年三月。南部一族の有力者である九戸政実くのへまさざねが決起し、奥州討伐軍と激しい戦いを繰り広げ、九戸軍は壊滅。この大規模な反乱が鎮圧され、奥州は一時的に平和になったかのように見えた。だが他にも小さな一揆や反乱が何度も起こり、その度に豊臣秀吉の命を受けた奥州討伐軍は抵抗勢力を殲滅していった。


 月の里でも、忍び達が派遣されたり家が滅び帰投したりと慌ただしかったが、さやと紫月は神楽舞を踊るための修行で手一杯だった。


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 一五九〇年十二月。瑞祥歴元年。月山がっさん神社にて坂ノ上家の神楽舞を全て踊りきったさやは、月の里に正式に受け入れられた。


 そしてさやは、里長と上役達の前で起請文を書き、血判を押した。それは月の里を決して裏切らず、掟を遵守じゅんしゅし、心身の能力向上に努めるといった宣誓であった。

 この宣誓が終わったあと、さやは火の一族の焔党ほむらとうに属し、情報深度「壱」までの忍びの修行を付けられることが里長によって決定した。

 紫月はさやの師となり、護衛の忍びとなる。さやは月の里の忍び候補であると同時に、禁術の検体という立場に依然ある。さやは紫月にとって守らなくてはいけないあるじであり、修行をつける初めての弟子でもあった。


 紫月は忍びの師として、さやを鍛える。雪深い月山にて、武芸十八般といった武術はもちろん、基礎的な歩き方や呼吸法、飛神行という腕力を鍛える行や、飛燕という木から木へと飛び移る跳躍力を鍛える訓練、雪をかいて塹壕ざんごうを作る方法や、滑雪スキーも教えた。時には体中に鈴を付け、それをなるべく鳴らさないように走る訓練も行った。走る度にしゃらんしゃらんと鈴を鳴らしてしまうさやに対し、紫月はほとんど鈴を鳴らさず走って見せた。

 凍傷防止にしきみの油を耳や手足に塗ったさやは、紫月の教えに必死についていく。神楽舞を踊りきったときから、以前の自分とは何かが違うとさやは感じていた。体力的なものはもちろん、天恵眼てんけいがんの能力も向上した。以前は視認限界距離が半里(約二㎞)だったのに、それが一里になり、二里になり、最終的に三里(約十二㎞)を記録した。

 また、透視能力も、精神が発達するにつれ向上していき、より具体的に人体・物体を透かしてみられた。人体のどこが弱っているか、体内で起きている異常が段々と分かるようになっていき、屋敷や忍具といった物体の構造がより鮮明に見えるようになった。不意に天恵眼が発動することも少なくなり、さやは実験の度に記録を更新していった。


 他には座学にて、基礎教養の他に暗号解読のための勉強も教わった。基本的に忍びは何かを記録し保存することは少なく、記録しても暗号を使う。暗号の規則性を見つけ、文章に起こしていく。それは時に歌であったり、時に狼煙のろしだったり、時に音を使う。数学的な素養が求められる暗号解読の授業で、さやはあまり良い成績を残せなかった。代わりに罠の仕掛け方や、詩や舞などの演芸、化粧や変装といった分野では好成績を残した。化粧などはお千代に教わったが、元が特徴のない顔立ちのさやは化粧の仕方で色々な顔に化けられた。化粧のしがいがあるとお千代は褒めたが、さやは喜んで良いのか分からなかった。

 他にも棒手裏剣などの忍具の使い方、対象の追跡方法、気配の消し方や話術、忍犬などの獣の扱いや簡単な薬の調合も教わった。さやは必死に勉強したが、分野ごとの成績にムラがあった。特に尾行術や話術は不得手だったが、薬学や忍具の扱いは得意だった。アクリの忍犬調教も難なくこなし、全体的に見れば、座学はなんとか合格の範囲内だった。問題は体裁きである。


 本来、月の里の忍びには、肉体を強化するための術や薬が投与されている。しかしさやにはなんの処置もされなかった。それは下手に肉体強化のための術をかけたら、瞳にかけられた禁術である天恵眼にどう干渉するかわからないからだ。

 術をかけたり、薬を投与したら天恵眼が消滅する危険もある。それは里としても避けたい。なのでさやは他の忍びより肉体面で劣ったまま修行しなければならなかった。一人前になるためには、他人より倍多い量の鍛錬をこなさなければならない。忍耐強いさやでも、時に音を上げそうになったり、極度の疲労から身体がバラバラになりそうに痛んだり、時には精神的に不安定になり、世界中から自分一人が見捨てられ、周りから責められているような妄想を抱いてしまうこともあった。こっそり泣いたのも一度ではない。そうやって精神が乱れると、さやは禅を組み、呼吸を整えた。長く息を吸い、吐くのを繰り返していると、少しだけ頭の中がスッキリとするのを感じた。


 それでもどうしようもなく悲しくなったり、全てが嫌になるときもある。錯乱してしまい紫月やお千代に当たってしまったこともあった。その度に紫月とお千代はさやを窘め、時に慰め、時にきちんと何が不安で何が嫌なのかを系統立てて整理させたりした。紫月達は決してさやを見捨てることはなかった。出来ないのならば出来ない原因を探り、出来るようになるまで何度も何度も試行錯誤を繰り返した。


 さやと紫月は主と従者、師と弟子、年の離れた兄と妹、時には父と娘のような複雑な関係となり、さやは紫月の主でもあり、弟子でもあった。紫月もまたさやの忍びであり、師でもあった。

 冬が終わり春が来て夏が終わり秋になり、また雪が降って冬になる、それが三度繰り返され、里に来て三度目の冬に、さやの忍びとしての最終試験が下された。


 それは、奥羽山脈のとある山に隠れている、人食い赤熊を退治することであった。


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 試験前日の夜、十五になったさやは、明日の試験の為の準備をしていた。

 里の機織り場によって織られた保温性の高い布で出来た黒い合羽。首の後ろは布が余っており、頭部帽巾フードとして使える。内側には沢山の衣嚢ポケットがあり、そこに必要な道具を収納出来る。火打石に附木にクナイ、ぜ玉、煙玉に鋼で出来た弦、更に棒手裏剣にかぎ爪に鎖分銅まで入れてある。こんなに必要ないだろうとさやは思うが、紫月とお千代になにが起きるか分からないからと持たされた。おかげで合羽は鎧のように重い。

 他には忍具制作班から渡された試作品のつちを仕込んだ籠手もある。これの性能実験も行ってほしいとのことだ。一度付けたが、弩と棒手裏剣を仕込んであるからかとても重い。左手に付けるのだが、左手だけが筋肉痛になりそうだ。


「…………」


 標的の赤熊の情報をおさらいしながら、さやは不機嫌そうに髪に触れた。

 この三年で、背が三寸と三分の一寸(約十㎝)伸びた。里の同世代の子と比べてもあまり背は高くない。元々女児にしてはやや上背がある方でそれもコンプレックスだったのだが、今では五尺一寸(約一五三㎝)しかなく、火の一族の中では小柄な方になってしまった。


 まあ身長はいい。問題は髪だ。


 果心居士にばっさりと断髪され、以来三年間一切はさみを入れていないのに、髪が顎くらいまでしか伸びてないのだ。

 明らかに異常だ。紫月や医療班に相談しても原因が分からなかったが、恐らく天恵眼の副作用ではないかと推測された。これでは髪を結うことも流すことも出来ない。

 天恵眼の性能実験はこの三年間繰り返され、能力は伸びたが、未だ発眼条件は解明できていない。伊賀の術であるこの禁術は、詳しい術式が分からず、術の再現も成功していない。白い忍びも、紫月とさや以外に目撃した者は月の里にはいなく、三鶴城にももういないようだった。


 里に来てから、三鶴のことを思わなかった日はない。奥州仕置きが終わり、大規模な一揆や反乱の知らせが届く度、さやは三鶴がどうなったのか不安で仕方なかったが、許可なく里から下りるのは禁じられていたし、自分はまだ三鶴には帰れない身なのだ。

 里の忍びから断片的に聞いた話によると、三鶴城は特に一揆や反乱に巻き込まれた様子はなく、相変わらず芦澤領になっており、城主もさやの叔父のままで後見に大定綱義がついているが、実態は芦澤家のものであり、城主も後見もお飾りであるらしい。


 傍らにあった宝刀を胸にぎゅっと抱き、さやは固く目を瞑る。この三年で身体は成長しても、強くなったかは分からない。紫月は強くなったと言ってくれるが、正直自信がなかった。忍びとしての修行をし、武芸も習ったが、里の同世代と比べて自分が特別優秀だったわけではない。優れているのは視力だけで、勉学も武芸も身体能力もギリギリ合格圏内といったところだ。同じ十五の時には火の一族で一、二位を争うほどの抜群の身体能力を記録した紫月とは大違いだ。


 明日の試験の旅にはアクリと紫月も付いてくる。アクリは補佐のため、また忍犬の修行のため、紫月は護衛と試験の監視・監督のために共に来る。赤熊退治はあくまで自分一人でやらなくてはいけない。自分で作戦を考え、どのように退治するか、今まで習った事を総動員して退治しなくてはならない。

 緊張で僅かに手が震える。この試験で自分の忍びとしての合否が決まるのだ。坂ノ上家第二十七代目の当主として、月の里の者として無様な姿は見せられない。熊すら倒せないようでは、芦澤家への復讐と坂ノ上家の再興は出来ない。自分は人生の分岐点にいる――そう感じたとき、さやの背中が自然と伸びる。


 もう月が高い。早く寝なくては。


 さやはいつものように部屋の隅で掻い巻きを身体に巻き付けて眠る。三年たってもさやは床で横になって寝ることは出来ず、壁や木にもたれかかりながら、夢をみることもなく眠りに就く。


 神楽舞を踊りきった三年前と同じく、満月が月の里を照らしていた。


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 瑞祥歴四年、一五九三年・初冬。

 さやと紫月が里を出て三日後、目的の山に着いた。

 奥州では三日前に初雪が観測され、少ないが雪が降り積もっていた。

 雪の冷たさを肌で感じながら、さやは三年前に月山神社で神楽舞を踊った時のことを思い出す。

 三年前の八月に三鶴を滅ぼされ、謎の忍びに禁術をかけられ、果心居士と共に死者を弔い、月の里に来て紫月と修行した日々が次々と頭の中に浮かんでくる。


「さや様?」


 様子のおかしい主人に、紫月が尋ねる。アクリも心配そうにさやの合羽の胸の中で唸る。


「紫月……」

「なんです、さや様」


 私は強くなった? そう問いかけようとしてさやは口を閉じた。きっと紫月は強くなったと言ってくれるだろう。だがそれはこれから証明しなくてはならない。自信は相変わらずないが、この試験が終わる頃には今の自分とは違った強さが身についているだろう。


「なんでもない、行こう」


 短い茶色の髪を揺らしながら、さやは山の中に入っていった。紫月はさやを見失わない距離で監視し、手出ししてはならない。

 さやは標的の赤熊を見つけるために天恵眼を発動する。

 鳶色の虹彩を発光させながら、人食い赤熊を探すが、なかなか見つからない。辺りが吹雪いてきた。もうどれくらい時間がたっただろう。吹雪が止み、視界が晴れたとき、さやは一匹の熊を見つけたが、その熊は冬眠し損なった別の個体であり、赤熊ではなかった。


 その熊の近くに、を見つけてしまった。


 熊を見つけ、後ろに下がっているが、後ろは崖だ。少年は足を滑らせ、崖から落ちていった。


「!」


 さやの身体が自然に動いた。

 その隻眼の少年が、芦澤家の次男の芦澤虎王丸あしざわこおうまるであることなど、今のさやは知らない。


 一五九三年、瑞祥歴四年。こうして坂ノ上さやの数奇な運命は回り始めたのである。

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