5.たそがれ時は逢魔が時

 調べてみると、一束分どころか、竜葛として収められていた乾燥根七束分のうち、二束分が柴胡さいこにすり替わっていた。


 見た目も手触りも似ているが、別の薬だ。


(どういうこと?)


 宝物殿は、国宝級の貴重なものばかりが収められた、国家の収蔵庫。


 書物や壺、器、屏風など、収蔵されるすべてのものが年に数回、さまざまな目利きの手によって状態を調べられる。


 薬種も、呪禁師や医師、内薬司の侍医など、鳳凰京にいる薬の手練が腕と誇りをかけて調べるのだが、中でも、烏頭うず附子ぶし冶葛やかつ鴆毒ちんどく竜葛りゅうかつという五種の毒は、とくに厳重に扱われた。


 そのひとつの竜葛が別の生薬と入れ替わっているなど、ありえないことだった。


 しかも、見た目だけはそっくりな薬に替えておくなど、巧妙でずるがしこい手口だ。


 まるで、なにが起きたかを隠すようではないか。


(まさか――。気のせい、だよね?)






 宝物殿を出て、典薬寮てんやくりょうへと大路を戻りながら、緋鳥ひとりはずっと考えっぱなしだった。


(薬種の見極めなんて簡単だってうぬぼれてたから、罰があたったんだろうか。明日、もう一度たしかめよう。出向く前に典薬寮の薬箱で柴胡さいこを調べておいて――)


 いつのまにか、京の市にたどりついていた。


 市は、米や味噌、酢に魚とさまざまなものが並ぶ、庶民も貴族も集まる賑やかな場所だった。


(そうだ、墨を買わなくちゃ。きれかけていた)


 学生なので読み書き道具は大事だ。


 とくに筆と墨はまめに用意しなければいけない。


 ただし、墨は三十文、筆はだいたい六十文。


 けっして安い品ではなかったし、もちあわせもなかった。


(下見だけしておこうか)


 ぶらぶらと散歩をして、ごちゃごちゃになった頭の中を整えたい気分だった。


 でも、結局考えごとはやまなかった。


(もしも本当に竜葛が宝物殿から持ちだされていたとして――なら、持ちだしたのは誰?)


 日が暮れはじめて、西日が横から差していた。


 茜色の光が街にあふれた、たそがれ時。


 道で知り合いにでくわしたとしても姿がよく見えずに、「あなたは誰ですか」と尋ねなければいけないから、誰彼たそがれ――と名づけられた時間だ。


 鳳凰京の大路でも、強い光を浴びた壁や人の影が足元から長く伸びていた。


 顔すらろくに見えなくなる人の姿よりも、地面の影のほうがいきいき動いて見える、不可思議な時間でもある。


 西日の光と濃い影におおわれた大路を、緋鳥はぼんやりと歩いた。


(どうやってすり替えたんだろう? わたしみたいに仕事で立ち入る奴だって、妙な真似をしないかって必ず見張られるのに――。だいいち、入れる人はかぎられる。呪禁師と医師と、内薬司の侍医と――。薬種を扱う人でなくても、帝の宝にかかわる人なら入ることはできるか――なら、宮内省の人?)


 勘違いでなかったとしたら、なぜそんなことが起きた?

 誰が?

 なんのために?


 でも、ある時。はっと息をのんでのけぞった。


 しゅん! と風を切って飛んでくる矢があった。

 とん! と音を立てて、緋鳥の鼻先をかすめたその矢は、そばの壁に刺さった。

 てぃん……! と先端の矢じりは壁をえぐって、矢柄を震えさせていた。


 壁に刺さった衝撃で、矢はまだ震えている。


 鼻先を通りすぎた矢の行方を唖然として見つめて、緋鳥はぞっとした。


 あぶなかった。


 いやな予感がしてよけなかったら、この矢は、緋鳥の頭を左の耳から右の耳へと貫いたはずだ。


(流れ矢?)


 矢が飛んできた方角を探した。


 鳳凰京のおもだった門は日没とともに閉じてしまうので、京の外に家がある者は早めに京を出る。京の中に住んでいる人も、早々と家に戻って寝支度をはじめる。


 人でごった返す朝や昼間とは大違いで、いまの大路には人の姿もまばらで、さびしいものだった。


(どこかで捕り物があって、衛士が放った矢がたまたま運悪く飛んできた?)


 だとしたら、とんでもない偶然だ。


 そんなことが本当に起きたなら、ちょっと面白い――愉快がっている場合でもないが。


(それとも、狙われた?)


 周りを睨んだ。でも、緋鳥がいた通りに人の気配はない。


 いや――。地べたの影が動いた。


 人の姿がないのに、大路をさっと横切る長い影があった。


(なに。――持禁じきんを)


 持禁というのは、呪禁師の奥義。守護の技だ。


 緋鳥は、身体に力をみなぎらせた。


 昼は人の時間、夜はもののけの時間だ。


 夜になると、もののけが動きはじめる――というよりは、法が変わった。昼間であれば人がさだめた法や風習がまかりとおるかもしれないが、夜にはその法が役に立たなくなるのだ。


 夕時のたそがれ時と朝方のかはたれ時には、昼と夜、ふたつの時間が混じり合う。


 さまざまなものが有耶無耶になって物や術の出入りがおこなわれたり、見張っていても注意がいき届きにくくなったりするので、呪術に携わる者にとっては気にかけるべき大切な節目なのだが――。


(時間の隙間を狙って動くなら――それを知っている人か、もののけの類だ)


 大路を横切った影は、端の壁の真下に伸びる濃い影のもとにたどりついていた。


 影がいくつも重なって真っ黒に見えているあたりに、影に混じり切っていないなにかがある。


(人?)


 影と影のあいだに、人がうずくまっていた。背中をまるめて小さくなっているが、背の高い男に見える。


 緋鳥は目を細めた。頭の形や肉の付き方に見覚えがある気がしたのだ。


(誰――知ってる人?)


 懸命に目を凝らしたが、なかなかよく見えない。――いや、違う。


 見えたはずの人の姿が、ぼやけはじめていた。まるで、似た色をした影にじわじわと溶けていくように――。


『……けて、れる……けて。れる……』


 はっとして、咄嗟に耳を澄ます。


 耳の奥でボソボソと誰かが喋っているような、ふしぎな囁き声も聞きつけた。


(なに? もうすこしゆっくり話して)


 きこえた声は音がくぐもっていて、耳鳴りに近い。


 同じ言葉を繰り返している――そこまでは聴きとれるのだが。


 音にばかり気を取られていれば、目の前の影が消えてしまう。大路の端にうずくまっていた影が、薄れていく。


「待って」


 緋鳥は駆けだした。男の姿があったはずの場所へと急ぐが――。


 たどり着くと、あるのは、大路の地面だけだった。


 鳳凰京を南北に貫く大路の壁が、真っ黒な影を落としつつ、南の果ての羅城門へ向かってまっすぐに伸びている。


(消えた? それとも、気のせいだった? なにかに化かされたかな)


 怨霊、もののけの類なら、鳳凰京のそこかしこにいる。鳳凰京には大勢の人が暮らしていたが、「見えてしまう」緋鳥たちにとっては、さらに賑やかな都だった。


 影があった場所につま先がふれるやいなや、耳の奥に音が響いた。


(声が、まだ残ってた――)


 たった一粒、ぽつんと垂れた雨粒のようにすぐに消えたけれど、声はこういった。


『――助けて。食われる』

 




 典薬寮がある白鳳宮は、閉門すると中には入れない。


 たどりついた時には閉まっていたので、緋鳥は仕方なく白兎はくとやしきへ向かった。


「いらっしゃい。ごはんにしようか。食べていくでしょ」


 白兎は緋鳥の師匠だが、育ての親でもあった。運が悪く、親のもとでは暮らせなかった緋鳥を、白兎は引き取って自分の邸で育てたのだ。


「かやくごはんと、葱の羹があるよ。あと、わさび菜の漬物と」


 ふるまわれた夕餉に遠慮なく手をのばして、かまどのそばで火にあたりながら、緋鳥は大路での出来事を話した。

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