落下
ヤクモ
落下
すとん、と胸に何かが落ちる感覚がある。それは横断歩道を渡っているときだったり、誰かと話し終えて1人で歩いているときだったり、玄関の鍵を開けた瞬間だったり。
何がすとんと落ちたのかわからないけれど、その瞬間、私は私を見失っている。
あと一押しでどこか遠くに行けるのに。
毎晩、一緒にいた猫が死んだことを思い出して泣いている。誰かが背中を押してくれれば、あの子の隣にまた座っていられるのに。そう思いながら、今日も私は死ねない傷を作ってばかりだ。
死にたいなんて思って、夜寝る前に「目が覚めませんように」と願いながら目を閉じるけれども、開けておいたカーテンを通りこして私を焦がそうとする太陽の光が私を起こす。
「おはよう」
リビングに下りれば、温かい朝ご飯が並べられていて、新聞を読んでいる父とぼんやりテレビを見ながらご飯を食べている妹がいた。
「もう起きたの」
弁当を詰めていた母は私に気が付くとすこし驚いた。今日は高校は振替休日だった。
「目ぇ覚めた」
「ご飯食べる?」
テーブルには妹と父の分しか無い。
「いらない」
冷蔵庫から麦茶を取り出し、小学生のころから使っているコップに注ぐ。寝起きの体に、冷えた麦茶は強烈な刺激を与えた。
「また寝る」
「お母さん、今日出かけるからね」
「うん」
この間、父と妹は一度も私のほうを見ない。別に2人とは血がつながっていないわけでもないし、私が家族の中で浮いているわけでもない。ただ、必要最低限の干渉しかしてこないだけだ。
私の家が静かなほうだと知ったのは、中学生のときだった。
中学で知り合った友達の家に泊まったとき、その子の家の中は常に誰かが会話をしていた。友達も当然その会話に混ざっていたし、私を会話に入れようと話を振ったりもした。そのどれもが私に対しての気づかいから生まれた行動ではなく、当たり前のように自然だった。
その子の家から自分の家に帰ってきたとき、なんて静かなのだろうと驚いた。私の家で話すのは母だけだ。私も、妹も、父も誰も自分から話題を振ることは無い。いつだって、母が誰かに話しかけて会話が生まれる。しかし、それを母が気に病んでいるとは感じない。おそらく父はずっとこんな感じなのだろう。だから、私も妹もそれが普通だと思っている。
振替休日だからといって、別にやりたいことも行きたい場所も無い。遊びに出かけるような仲の子はバイトがあるらしい。そんな日はひたすら寝るに限る。
「このまま目が覚めませんように」
口には出さないけれど、そんなことを願いながら胎児のように布団の中で体を丸めた。
猫はデブだった。足音とかの気配を感じさせないのが猫だと思っていたのに、うちの猫は走るとドシドシと足音がした。
抱き上げようとしても重すぎて持ち上がらないし、本人は甘えて寄りかかっているつもりだろうけれど、私は妹が寄りかかってきたのかと思うほど重みを感じていた。
私のそばにずっといるわけじゃなく、母が猫缶を開ければ母に甘えた声を出すし、妹がソファでだらけていると当然のようにその隣に寝そべる。父にはあまりくっつかない。以前は擦りついていたが、スーツに毛が付くたびにころころをかける父を見て何か感じ取ったのだろう。スーツ姿のときは父にくっつかない代わりに、寝るときはほぼ毎日父のベッドにもぐりこんでいた。
家族全員が猫を好きだった。
だから猫が死んだときは全員が泣いたし、火葬をして遺骨はリビングに置いている。写真を一緒に並べているから、仏壇のようだ。
「猫」
本当は名前が付けられていて、私以外の家族はその名前で呼んでいた。別にその名前が嫌なわけじゃないけれど、私は猫を「猫」と呼んでいた。
実際猫は適当な奴で、私が「猫」と呼んでも、母が名前で呼んでも、妹が愛称で呼んでも、同じように「にゃー」と鳴いて寄ってくるのだ。あいつにとって名前はどうでもいいんだろう。自分が呼ばれていると思ったら近寄る。そんなシンプルな考えが読み取れた。
これは夢だと気づく。
私の通う学校は、屋上へは立ち入り禁止だし、そもそも私は高所恐怖症だから屋上の柵を越えるなんてできない。
「意外と低いな」
4階建ての屋上は思っていたよりも低かった。もちろんこれは夢だから、私が記憶している4階の高さだろう。歩道橋ですら怖くて歩けない私に想像できるのは、せいぜい自分の部屋から見える高さまでだ。
「これならいけるじゃん」
どこに行くんだよ。
そうツッコミながらも、いつの間にか私は一歩前へ足を出していた。
「わぉ」
落ちたことに気づく暇もないほど、あっという間に地面に叩きつけられるのだと思っていた。しかし、私の体は重力を無視したようにふわふわと宙を舞う。
「宇宙船みたいだ」
宇宙飛行士が、液体を宙に出して吸っているのが楽しそうだと思っていた。最近は宇宙食はおいしいのかが気になる。
「猫」
宙をくるくると前転していると、いつの間にか猫がいた。
「にゃー」
毛艶も、デブ加減も、記憶の中の猫と変わっていない。
「無重力すげぇ」
亡き猫に会えた嬉しさよりも、デブ猫でも宙に浮けるのかと感動した。
目が覚めると、布団の中は蒸し暑かった。私は背中に汗をびっしょり掻いていて、寝起きの気持ち悪さよりも貼りつくパジャマの不愉快さが勝って、渋々ベッドから起きる。
さすがにパジャマのままリビングに行くのはなぁと思い、部屋着にしている中学校のジャージを穿いて、スウェットを着た。流行に敏感なおしゃれな妹からは「それはパジャマだ」と言われるが、私がこれで満足しているのだから、ほっといてほしい。
「おはよう」
「今起きたの?」
朝起きたとき、出かけると言っていた母は夜ご飯の準備をしていた。
「うん」
「お姉ちゃん寝すぎ」
ソファに寝転がってスマホをいじっている妹に小言を言われる。
「猫が夢に出てきたんだよ」
「へぇー」
興味無さそうに返事をする妹。
「元気そうだった?」
リズムよく包丁でネギを切りながらそう聞く母。
「空飛んでたよ」
なんとなく、私が屋上から飛び降りようとしたことは伏せた。
「空?」
ぶはっ、と笑う妹を見て、私はにやりと笑う。
「デブ猫でも空飛べるんだよ」
落下 ヤクモ @yakumo0512
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