コーヒーカップ

龍鳥

コーヒーカップ


 『コーヒーカップ』



 晴れた日には外に出て、街並みを眺めがら歩きたい。気温は常温、湿度は快適と”爽やか”の言葉がピタリと当てはまる。

 しかし残念ながら天気に関係なく、人の精神は太陽に照らされされても、曇りが晴れることがない複雑な構造をしている。

 肌に吹き触る風の心地よさを文体で示せば麗らかにできるが、実際に触れると空気が動いて横切っただけのことである。


 其実、其実、目に溢れるもの全てがつまらない世の中なんじゃないかと疑うくらいに、日常を彩らせる。



「この飲んでいるコーヒーも、実はドイツ産ではないだろうか」


「彩音、ドイツではコーヒーは採れないよ」



喫茶店でテーブルに鎮座する2人、彩音と高志はカップに注がれていたコーヒーを飲みながら話していた。



「ふーん。そう」



 高志から投げられた事実に興味なさげに再びコーヒーを口にする彩音。コーヒーは主に、南米やアフリカで亜熱帯地域でのコーヒーベルトと呼ばれている気候で栽培されている。だが、ドイツを含むヨーロッパ諸国はコーヒーベルトから外れているため、コーヒーを採取できるかどうかは薄い望みで。



「彩音、どうしてドイツ産にこだわるんだい?」



 付き合い始めてから5年。互いに性格の相違があっても、お互い助け合ってきた。共に生活すれば、性格や癖も嫌というほどに知り尽くしているのだが、高志は彩音の性格が未だに不明である。

 今回も早朝から唐突に喫茶店に行こうと誘われたのも含めて、彩音のコーヒーの質問に加えて喫茶店に来た目的の理由がわかると確信していた。だが1つ、問題があるとすれば。



「このカップも、ドイツ産かしら?」



異常な程にマイペースであった。


 ここで再度と質問をすれば済む話だが、彩音はまた違う話題を出してくるだろう。以前、間食するためのバームクーヘンを買った際に原産はドイツなのかと聞かれた際に高志は気にせず食べるようと勧めたが、急にラーメンを食いたいと切り出してきた。その時の時刻は‪午後8時‬過ぎであり、小食派である高志の胃は凭れた。


 だから高志は、喫茶店に連れて来られてから異常な警戒心を心の中で彩音へ向けていた。現に、高志のコーヒーは注文されてから全く飲んでいない。現在の時刻は‪朝の7時‬。来店してから20分を経過してるので、コーヒーは冷めていた。


 付き合いは長いのに、相手の胸中が未だにつかめない高志。これまでに幾度の質問をして洞察してきたが、彩音は嘲笑うかのように思いもよらない発言をされてきた。カップの話題をどう切り抜けようか、ゆっくりとコーヒーを飲むフリの仕草をして時間を稼ぐ。ちなみに、高志はコーヒーが大の苦手であるため最悪な気分である。


 

「さあ、どうだろうね」



 スローモーションしてるかのようにカップを置き、卒なく回答する。本人は感じてはいないが彩音の無茶ぶりに対応していく内に、自然と多方面の雑学を身に着けられていた。

 喫茶店のワードから1つのジャンルに絞り、コーヒーなら原材料と、その原材料の生産地はどの国から……というように連想していたのだ。当然ながら、このカップも調査済みである。以上のことから、ここからは高志の独断場が披露されていく。



 「知ってるかい?カップには色んな種類があるんだ。今、僕達が手にしているこれはコーヒーカップだよね。でも、僕たちの部屋で使っているコーヒーは形が少し違うでしょ?」


 「たしかに。微妙に違うわね」



 獲物が網に片足を突っ込んだ。機を逃さない高志は銛を準備する。相手は荒波を超えた海の帝王、特大級の大物である。



 「それは兼用カップと言う名称なんだ。コーヒーと紅茶、どちらにも適した飲み物を入れることができるんだ」


 「なら、最初から家で使ってる兼用カップを出せばいいじゃない」



 高志は笑った。恐らく幾度の我儘に付き合わされてきた対象が初めて弱味を自分に握らせていることに、笑いの渦が発生している。銛を突き刺すだけでは足りない、散弾銃で腹の奥までまき散らしてやると意気込む。



 「彩音、ここは喫茶店だ。コーヒーのような飲水を生業としているんだ。現代兵器の拳銃や連射銃で敵を倒すのと同じだよ。」


 「なるほど」



 この一言が、彩音の意中に計り知れない喜びを巻き起こす。向かい合う席の2人。火花こそ散らしていないが間違いなく、2人の空間は嵐の中で漁業をする歴戦の漁師と獲物となっている。ついに船から引き上げて銛と散弾銃で傷だらけになっている相手に、最後の一撃を喰らわす。



 「まず、コーヒーカップの幅は厚いんだ。これは、コーヒーは抽出時間が長く温度が低めでできるから、冷めにくくする為なんだよ。それと飲み口が狭く円筒に近い形状で高さがあるのは、コーヒーの香りが飛んでしまわないようにする為でもあるんだよ。」


 「対してティーカップは、逆なんだ。飲み口が広く背が低くて紅茶を飲める温度まで冷ます。でも内側には、デザインが施されている事が多くて澄んだ紅茶の中に映る絵柄を見て楽しむ工夫もされてあるんだ。紅茶は色合いを、コーヒーは香りを楽しむ、ということさ。」



 近年では紅茶もコーヒーも技術や品質が上がりどちらも色合いや香りを大事にしている。その背景には、兼用カップの普及、あるいはカップの区別をしない傾向が強まっているようでもあるとされている。


 言い終えた本人は誇らしげに満足気であり、狂暴な蘊蓄で獲物を完膚無きまでに怯ませたはずだ。


 高志の演説を表情を変えずに聞いた彩音。次に放たれる言葉で勝敗は決定すると、喋り過ぎて口内が乾燥した高志は嫌っていたコーヒーでも一口で飲み干した。冷めて味は落ちたが、適温な熱さであれば格別な美味しさだろうと内心、残念に思う。


 獲物は釣り上げたと余裕ある動作でカップを置いた時に、彩音がここへ来て初めて高志から視線を外して窓に写る空を見上げた。



 「第二次世界大戦の時、ドイツのドレスデンには目立った軍事施設もなく、ドイツ最高のバロック様式の美しい街並みと数多くの文化財があった。人々は「ドレスデンだけは空襲に遭うことはない」と信じていた。ドイツ軍も空襲に対してはほとんど無警戒であり、高射砲などの兵器も、戦争末期には他地域に移動するなどして、空襲への防備は手薄となっていたわ。」


 「これらの理由のせいで、ドレスデン爆撃の被害は、歴史的な旧市街地に建物が集まった都市は火災旋風に弱く、美術史上きわめて価値の高い多数のバロック建築物を含むドレスデン中心部がほぼ灰燼に帰した。爆撃の目的は、黙示録級の大破壊の為だけに行われたとされ、欧州戦線における最大級の1つの空爆とも言えるわ。」



 唐突の話題で開いた口が塞がらない高志は、彩音が空を見て途方に暮れてるのを眺めるしかなかった。彩音はカップを顔に近づけて、コーヒーが空になって見える底へ目を凝らし始めた。



 「でもドイツは立ち上がった。廃墟のまま放置されていた王妃の宮殿が再建されてからは、高級ホテルに生まれ変わった。瓦礫の状態で放置されていた聖母教会の再建には、世界中から何億円もの寄付が集まって、瓦礫から掘り出した部材をコンピューターで可能な限り元の位置に組み込む作業は「ヨーロッパ最大のジグソーパズル」と評されたのよ。今では、新しい部材との組み合わせのおかげで、以前とは違う新しい名所となっているわ。」

 


カップを丁寧にソーサーと呼ばれる受け皿に置く彩音は、高志に微笑みかける



 「このカップ、ドイツ製よ。」



 カップの側面は、ガラスコーティングがなくマットな質感で、筋状にランダムな溝が入っており、ソーサーにはきみどり色を基調としたレトロな花柄をしていた。これは日本ではあまり見ない代物である。意識を取り戻した高志は急いでカップを手にして必死で記憶のページを漁り、360度回しながら見回す。


 何かを諦めたように彩音は、高志の手を握ってテーブルを降ろさせた。透き通る瞳は実在した、獲物だと思っていた目前の相手が次元を超えた存在であったと判明した高志は体が動くことはできない。この時、漁の網にかかったのは自分だったと初めて気づいたのだ。



 「落ちたわね」



 彩音の手が離れ、高志は入り混じった感情を整理することはできない。明日になれば、また彩音の異常性の行動に付き合わせるのだろうと落胆した時に、手に持って置かれたドイツ製のカップが目に入る。僅かに残る水滴は冷えてアイスティーとも呼べない飲み物になっいた。


 何故彩音が、ドイツ製のカップだとわかったのか疑問に思い始めた時に突如、高志の記憶がら風が吹き始めたのだ。


 彩音が見ていた空を見上げる。思い浮かべるのは、木造ながらも立派で流麗な建物。毎年クリスマスの時期には、市庁舎前に盛大なクリスマスマーケットが出現する。華やかな装飾と光、そして集まる人々の笑顔がクヴェートリンブルクの冬を彩る教会。通称ネコ城のノイカッツェンエルンボーゲン城と続く風景のライン川。忘れていた空が、高志の目から溢れる涙で抑えきれない。



 「そうか…君の言っていたことが、やっとわかったよ」



零れる涙が止まらず、強くカップを握りしめる高志。もう一度、彩音の両手が先程よりも優しく包んだ。2人の空間は、遠くの彼方の場所に移すのは2人が初めて行った新婚旅行についてだった。



 「そろそろ行きましょうか」


 「うん、帰ろう」



2人がいたテーブルに並べてある2つのコーヒーカップは、綺麗に飲み干されていた。

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