第8話 正義とは?
意識が
どこか遠くで、声が聞こえる。
私を、悪魔と
……幾度となく聞いた、断罪の声だ。
揺らぐ意識の中。遠い過去の記憶が蘇る──
***
あれは、私がまだ初等学校に通っていた頃の話だ。
四つ上の兄は勉学において非常に優秀だったが、授業に関しては早いうちから休みがちだった。
「あの銀髪、ダールマンのガキらしいぞ」
「げっ、あの家か。カウフマンといいダールマンと言い、この街には厄介な血筋ばっかり住んでいやがる」
……兄が通学しなくなった理由を、私は痛いほど理解している。
だが、兄に比べて要領の良くない私は、罵声に耐えて通うことを選んだ。通学なしに優秀な成績を収めることなど、私には不可能だっただろう。
「ダールマンの……長男はともかく、次男は真面目な生徒だ。家がどうこうと、くだらない噂を流す方がどうかしている」
真面目に学業に
……まあ、結論を言えば、くだんの教員は、ハインリッヒ司教様のように
「顔ですかな。確かに、男とは思えぬ美麗な
「まさしく。血がどうあれ、容姿だけは神に愛されたらしい」
……。
「話によれば、悪魔や魔物の方がよほど美しい容貌をしているとも聞きますよ。奴らは人をたぶらかす存在ですからね」
「……何が言いたいのですか」
「先生、熱心に指導されてるそうですが……。もしや、
…………。
「良いか。他の先生達の言うことなんて気にしなくていい。君は、僕だけを見ていれば良いんだから……」
………………。
幼いながらに、ある程度は理解していた。
世界は、不条理なものだと。
それでも、居場所が一切ないわけではなかった。
祖父やきょうだい達は私の救いであったし、街の人間も、全員が全員迫害に加わっていたわけではない。
「またお前か」
寂れた教会に立ち寄ると、無愛想に声をかけられた。
初老の神父は名をユルゲンと言い、幼い私によく勉学や遊びなどを教えてくれていた。
顔はよく覚えていない。……確か、この時から一年も経たずに亡くなってしまわれたはずだ。
「どうした。ここはもう……。……とにかくだ。あまり、来ない方がいいと言ったはずだが」
ゴホゴホと胸の悪そうな咳をして、ユルゲン神父は突き放すように語る。
当時は既に肺を病んでいたのだろう。感染症の可能性を思えば、子どもを遠ざけるのも無理はない。
「……最近、先生の様子がおかしいんです。いじわるな先生ばかりの中、めずらしく良くしてくれるとおもってたんですけど……」
私の相談に、ユルゲン神父がどんな
「初等学校のか」
「はい」
「来い、詳しくは中で聞く」
ぶっきらぼうに言い、ユルゲン神父は私に手を差し出した。
病のせいか、その手指は枯れ枝のように細くなっていた。私がもっと幼い頃は、よく抱きかかえてくれたことも、軽い運動に付き合ってくれたことも、記憶の片隅に残されている。
「何もされていないか」
「えっ」
「身体をしつこく触られるようなことは?」
「ええと……肩や腰、なら……たまに……?」
「……。何かあったら、すぐに逃げろ。そして、私に……いや、お前の祖父に知らせなさい」
私の頭を撫で、彼は静かに語る。
その手は、小刻みに震えていた。
「お前は確かに美しい。落ち着きもあるし、聞き分けもいい。だが、まだまだ子どもだ。遊びたいざかりの、ごく普通の少年だ……」
記憶は薄らとしか残されていない。
しかし、私が将来を選択した際に、彼の存在がとてつもなく大きかったことは確かだ。
「わたしが神父になったら、この教会はのこせますか?」
「……やめておきなさい。到底間に合わない」
「そうですかぁ……」
「その気持ちだけで充分だ。……ありがとう」
当時の私には、まだ、何もわからなかった。
優しいはずの教員が、私に「何を」求めていたのかも。
私を抱き締めたユルゲン神父が泣いていた理由も。
「主よ……。幼子に、なんと酷な試練を与えるのか……」
その、言葉の意味も。
悪意が迫る。
私の魂を破壊せんとばかりに、過去の記憶がなだれ込んでくる。
「どうして先生の言うことが聞けないんだ! ダールマン家のお前に、あんなに良くしてやったのに……!」
「例の噂を聞いたか? あんなに大人しい顔をして教師を誘惑するとは、先が思いやられるな……」
「兄さん、姉さん、たすけてぇっ!」
「ちょっとあんた達! 弟から離れなよ……!!」
「アリッサ、一人では危険だ!」
「大丈夫! あたしがやっつける! コンラート兄さんはエルンストを守って!」
「親御さんは大層お怒りだそうだ。……もちろん、向こうのガキどもをボコしたアリッサとお前にな」
「なぜですか!? 先に寄って集ってエルンストを殴ったのはあちらです!」
「俺もそう思ったが、謝る気は一切なさそうだったな。……くそったれがよ」
「……祖父さんの処刑が決まった。満場一致だそうだ」
「そんな……! 父上がまだ帰国されていないのに……!」
「下手に庇ったらお前らも投獄するぞ、と圧をかけられた。……どうしようもなさそうだ」
「……? あれ、どうしたの
「ギロチンの音が聞こえる……」
「……! やめて母さん! 今すぐ窓から離れて!! 母さんっ!!!!」
「どうしたコンラート。顔が真っ青だぞ」
「あれ?
「……医者を……」
「……!
「……もう……冷たく、なって……」
「
「自らが司祭になれると勘違いしているのか?」
「ああ……うちの教会に来るなら面倒を見よう。……純潔の方は保証できないがね」
「おや、手が滑って水を零してしまった。失敬失敬」
「いけませんよエマヌエル神父。ハインリッヒの奴に告げ口されます 」
「ああ……確か、奴のお気に入りだったか。どうだね。
「おい、若造。ハインリッヒ神父様はどうした。最近めっきり来ねぇじゃねぇか」
「へぇ、あんたも神父? 女みたいな顔だねぇ。そんなんでハインリッヒ神父の代わりが務まるもんかね」
「本当に男だとはなぁ。脱がしてみりゃ女になるかとばかり……」
「……で、神様がなんて? 救ってくれそうかい?」
「穢れた血の死に損ないが、何を乞いに来たというのだね」
「見たまえ。
「大丈夫っす。……オレは、そばにいます」
聞き覚えのある声が、意識を現実に引き戻す。
「……っ、ヴィル……っ」
「へへ……今日は名前、めちゃくちゃ呼んでくれますね。嬉しいっす」
背中に縋り付き、口付けに応える。
身体の震えが止まらない。
「……ッ、あ……そ、そこに……いる……! 奴らは……私を……私を、犯し、
「大丈夫っすよ。誰もいないんで」
ヴィルは私を優しく抱き返し、傷痕を撫でてくれる。
潰されかけた魂が、ゆっくりと、形を取り戻していく。
「……ヴィル……ヴィル……っ!」
「ここにはオレらしかいません。……だから良いんすよ。弱いトコ、全部見せて……」
──正義は俺達にある!
誰かの「声」が脳裏に閃く。どす黒い悪意が、再び私の魂を侵していく。
「……っ、う、ぐ……ぅうううっ」
「……神父様?」
ヴィルは怪訝そうに呟き、呻く私の顔を覗き込んできた。
「……気に、するな」
息をどうにか整え、その腹の上に
「抱け」
葛藤も、混濁する意識も、すべて振り払って自らの意思を告げる。
ヴィルの瞳が、不安げに揺れた。
「……まさか……」
呪い、まだ効いてるんじゃ?
茶色の瞳がそう語る。
「……続けろ……っ」
意識を蝕む「悪意」に抗い、畳み掛ける。
「で、でも」
「いい。……おまえの手で私を壊せ。おまえが、私を狂わせろ……!」
マルティン達がオットーを倒せば、「呪い」は強まる。
それならば、迫り来る悪意を塗り潰すほどの悦びが欲しい。
狂わされるのなら。
壊されるのなら。
他でもない。いっそ、おまえの手で……。
「……っ、たく……無理すんなっつったのに!」
縋るようにして、ヴィルの手に触れる。ヴィルはその手に指を絡め、私の唇を
一瞬、意識が「誰か」に繋がる。
見覚えのない路地裏の光景が視界に映る。
修道士マルティンが銃を構えている。「私」の方ではなく、地面に転がった長剣に向けて……
「俺は何度だって蘇る……善良な一般市民が血を、涙を流し続ける限り、俺は何度朽ち果てても悪を駆逐する……ッ! いいや、俺じゃなくたって構わねぇ。志を引き継ぐ者は大勢いる! この世に残るべきは、栄えるべきは善だ!!」
***
「……呪いがまだ効いてるって、なんで言わなかったんすか」
寝台の上。ヴィルは私を押し倒すようにし、問い詰める。
振り払おうと思えばできるが、あえてそのままにしておいた。
……ヴィルの腕の中は、居心地がいい。
「暴走のことを、隠さねばならなかったからな」
「それでも、オレには言ってくださいよ」
「言えば、貴様はオットーを倒すより先に私の解呪を優先させただろう。それでは、余計な犠牲が増えかねない。『異形』を狩る専門職と連携できたのだ。封印を解いたオットーが猛威を振るうより前に、なるべく速く対処せねばなるまい」
「……ッ」
ヴィルは返す言葉もなく、歯噛みする。
申し訳ない気持ちはある。
ヴィルは愛のために道を踏み外した。私を護るためであれば、彼は他のすべてを犠牲にするのだろう。……もう、それを理解してしまった。
だが、このままではいけない。修道女マリアは厄介者と知りながら私たちに手を差し伸べ、マルティンは
血を啜る異形と化していようとも。
この手が血で汚れていようとも。
後戻りできないほど、堕ちてしまったのだとしても。
「……一瞬、オットーと意識が繋がった。倒されたことは間違いないだろう」
「そりゃ、良かったっすけど……大丈夫だったんすか」
ヴィルは、心配そうに私の頬に触れる。
心地の良い温もりが、指先から伝わった。
「修道士テオドーロの解釈には、少しばかり語弊があったようだ。……オットー・シュナイダーは、あくまで『正義の男』であったらしい」
無論、歪な形ではある。それでも、彼は間違いなく正義を貫いた。
「『善き人々が涙を流し続ける限り、何度でも蘇り、悪を
悪意はあった。……だが、正義の心もあった。
正義の心があったからこそ、私を追い詰めるよりも、自らの意志を伝えることを優先したのだ。
「……正義、ねぇ。確かに、『一般市民』にとっては正義だったのかもっすけど……」
返された言葉には、静かに首を振る。
「悪とは、なんだ。その判断基準はどこにある」
オットーが、自らの正義に従ったことは間違いない。
だが……彼が生涯を、命をかけて貫いた正義であったと理解していても、私はそれを認められない。……認めるわけにはいかない。
「駆逐されるべき悪とはなんだ。善き人々とはなんだ。喜んで祖父に石を投げ、その死を
私の問いに、ヴィルは困ったように眉根を寄せた。
「……あー……たぶん、考えない方がいいっす。ほら、大抵の人間って自分勝手なもんじゃないすか……」
そのまま、私の身体を抱き寄せ、背中を撫でてくれる。「別に、気にしなくていいのに」……そんなひとり言も耳に届いた。
「誰がなんと言おうと、オレは神父様の味方です」
「……貴様は、強いな」
「単純なだけっすよ」
ヴィルは私の髪を撫で、額に口付ける。
いつも、そうだ。
私一人では到底抱えきれない重荷を、ヴィルは、嫌な顔一つせず背負ってくれる。
「単純、か……。そうだな。だからこそ、心強いのだ」
その言葉は、本心から溢れ出た。
ヴィルはきょとんと目を丸くし、恐る恐ると言った様子で聞いてくる。
「……えっと……大丈夫っすか? ほんとは精神攻撃めちゃくちゃ効いてるんじゃないすか?」
……。ああ、まったく……どうしてこういう時ばかり鈍感なのだ、この男は……!!
「……愚か者」
「えっなんで怒るんすか」
「うるさい。着替えるぞ」
ヴィルの腕を振りほどき、ベッドから抜け出した。別に怒っているわけではない。……まあ……なんというか、その……気恥ずかしいだけだ。
「オレなんか悪いこと言いました!? だったら謝りますからぁ~~」
「いいから着替えろ。そろそろ二人が帰って来る。……二人とも裸でいれば、禁忌を犯しているとバレてしまう」
私がそう言うと、ヴィルの目が再びきょとんと丸くなった。
「神父様って、ヘンに真面目っすよね」
「……?」
「あ、いや、なんでもないっす」
私が首を傾げると、ヴィルは気まずそうに目を逸らし、続きをはぐらかす。
いったい、なんだと言うのだ……?
……ともかくだ、マルティン達が帰って来れば、今後について話し合うべきだろう。
敵は、少ないに越したことはない。
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