九鬼龍作の冒険 地下鉄のさえちゃん

青 劉一郎 (あい ころいちろう)

第1話

「さえちゃん、もう帰るのかい、今日は早いね!」

 畠山早苗、通称、地下鉄のさえ。名古屋地下鉄の職員さんからは、そう呼ばれている。

 「鈴木さん、元気だね。うん、今日は、親戚の人が来るの。大好きな叔父さんだから、早く会いたいの。明日、またいつもの時間に来るね」

 「そうかい、良かったね。そんなに好きなんだ、その叔父さんが」

 「とつても優しいの」

 「そうかい、そうかい。気を付けて、帰るんだよ。明日、待ってるよ」

 地下鉄の名古屋駅の改札口を、さえは何時もより速い時間に出た。もう少しすれば、仕事帰りのサラリーマンでごったかえすが、今はまだその時間帯ではない。

(本当はもっと遊びたかったんだけど・・・)

 いつもなら別れの挨拶は、これで終わりなのだが、今日は違った。さえは振り返り、

 「じゃ、帰るね。九鬼の小父さん」

 にこりと笑った。

 九鬼龍作のショルダーバッグから小さな顔をひょいと出し、にゃーと黒猫のビビが鳴いた。

 「ああ、そうだった。さようなら・・・忘れたね。ごめんよ。ビビちゃん、また明日会おうね」

 小さく手を振るさえちゃん。

 「ここに来れば、いいのかな!」

 「うん、私が遅れたら、待っていて下さい」

 「分かったよ」

 という龍作も微笑んでしまう。


 明日、さえちゃんと会って、何をするでもない。ただ、

 「あの子に、地下鉄の楽しみ方を教えてもらう」

 つもりだ。早苗は、

 「私に、名古屋の地下鉄で知らないことはないんだから。ほんとうに迷路になっているんだから。コインロッカーが何処にあるのか、どう乗り継いでいけば、目的の場所に早く着けるのか、そして、地上に上がると、そこが何処なのか・・・知らないことはないの・・・」

 龍作に自慢する地下鉄のさえちゃんだった。龍作は、その時の早苗の目の輝きが、すぐに気に入ってしまったのである。

 九鬼龍作が名古屋に来るのは、久しぶりだった。

 「十五年・・・か」

 もう・・・そんなに時間が経っていた。当時も地下鉄は走っていたのだが、こんなに多く走り、迷路のようにはなっていなかった。地上ではまだ路面電車が走っていて、それなりの情緒があった。今は、もうその路面電車はない。

 龍作は名古屋に着き、さっそく地下に降りたはいいのだが、どう歩き進めばいいのか、一瞬戸惑ってしまった。

 そんな時、

 「どうしたの、おじさん?」

 と声を掛けて来たのが、畠山早苗だった。

 「いや・・・名古屋に来たのが久しぶりなもので、びっくりしているんだよ。すつかり変わってしまったね」

 「うふっ」

 見た感じ三十五を超えたくらいの男の人を頭の先から足まで見て、早苗は白い歯を隠そうともせず、声を出して、笑った。

 「ところでおじさん、これから何処へ行くの?」

 「別に、これと言って予定はないんだけどね・・・」

 このおじさん、九鬼龍作なんだが、見た処高校生かも知れないが、気安く話しかけて来た少女に驚いている。屈託のない表情をしていて、じっと龍作から目を逸らさない。

 「おじさん、今の名古屋の街を案内してあげようか?もちろん、おじさんさえ良ければだよ」

 「本当かい、君さえいいんなら・・・」

 「いいわよ。そうだ、ただし来週の土曜だよ。そうなんだ、私もまだ高校生なんだからね」

 

 「ところで、そこで顔をひょいと出している黒猫・・・可愛いね。名前は、何て言うの?」

 「ああ・・・この子は、ビビと言うんだ」

 龍作はビビの頭を撫でた。

 すると、早苗はニコニコしなから近づいて来て、

 「抱いていいかな?」

 「いいよ」

 龍作がビビを抱き上げ、早苗に渡した。

 ビビは暴れもせず、早苗に抱き上げられた。

 「きれいな黒い毛ね。つるっつるっ・・・きれいに光っているのね」

 すると、早苗はビビを顔の近くまで持って来て、

 「よろしくね、わたし・・・さえちゃん、と言うの。今度の土曜に来るからね」

 早苗はビビを龍作に返した。

 「じゃ・・・今度の土曜に、あそこのコインロッカーの前で待っていて下さい」

 こういうと、早苗は走って、龍作の前から去って行った。


早苗は家に帰ると、家の中を丹念に見回った。まだ、父は帰って来ていない。

 「叔父さんは?」

 「まだ、来ていないわよ。夜になってからじゃないの?」

 「そうだよね。でも、叔父さん、何をしに来るのかな?」

 「さあ、お父さんに頼みたいことがあるようよ」

 「ふ・・・ん」

 早苗は叔父に、これといって用事はなかった。ただ、久しぶりだから会いたかっただけである。


 夜になった。といっても八時を過ぎた処である。五月も終わりになり、窓を開けていると、涼しく爽やかな風が緩く吹き込んでいた。

 「あっ!」

 窓際に立った時、通りに人影があった。二つ・・・である。

 早苗が住んでいる家は、名古屋から五つ目の小さな駅で、歩いて十分くらいにある国道沿いの団地である。だから、人通りは少ないことはない。

 早苗が驚いたのは、その一人が・・・叔父に似ていたからである。多分、叔父の

 「村田裕太に違いなかった」

 からである。一度も会ったことがなければ見間違いするが、父の畠山慎二と仲が良いらしく、よく家に遊びに来ていた。だから、見間違いをすることはない。その時、早苗と妙に気が合い、やって来る度、裕太おじさんだと言い、抱いてもらったり、背中に飛び乗ったりしていた。

 だから・・・見間違える筈がなかった。

 もう一人の人・・・男に、早苗は見た覚えはなかった。父の慎二はまだ帰って来ていない。

 早苗は時計に目をやった。

 まだ九時にはなっていない。慎二は、もうじき帰って来るはずである。

 ところで、その二人だが・・・さっきから何やら話している。もう一人の男の方がカバンのようなものを、叔父に渡そうとしている。裕太は仕切に、それを押し返している。その動きを何度も繰り返している。

 その時、誰かが来るのに気付いたのか、二人はそのやり取りを中断している。

 早苗も人の気配に気付き、その方に目をやると、父の慎二が歩いて来ていた。足を引きずるように歩く。別に、足を怪我しているわけではない。六つの時、体育の跳び箱に失敗し、骨折をしたらしい。

 「もう、直っているんだけどね」

 といい、

「その歩き方がずっと抜けないんだよ」

慎二は娘の早苗を見て、いつも苦笑している。

「慎二」

歩いて来ているのが慎二と気付き、裕太は手を挙げた。

すると、もう一人の男は瞬時慎二の方を見たが、何を思ったのか、そのかばんを持って走って、逃げて行った。

「何だか、慌てていたみたい・・・」

と、早苗は首をひねった。

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