第9話 家庭科部部長の事情  夏菜子side

 私───安藤夏菜子あんどうかなこはとんでもないところに居合わせてしまった。つい先ほど、家庭科部の部長さんと男子部員さんは、口論の末に被服室を出て行ってしまったのだ。


 残されたのは私と河合先輩。河合先輩はしばらく遠くを見つめていたけれど、やがて我に帰ったようにハッとして、こちらを見る。私に向けられていたのは困ったような、悲しそうな、いろんな感情が混じった笑みだった。


「ごめんね、こんなことになってしまって。今日はもう、帰ろうか。」


「はい。」


 本当は、聞いてしまいたかった。私の知らない過去も、想いも。けれどもそれを聞くにはまだ、付き合いが短すぎる、というか、まだ初対面なのだ。普通なら、そう簡単に教えてくれるわけがない。


 そう、普通なら。


 私と先輩は手早く道具の片付けと着替えを行い、被服室を出た。そして鍵を職員室まで返したのちに、昇降口へと向かった。


 ほんの数ヶ月前であれば、この時間帯はすでに真っ暗で、冷たい空気がピンと張り詰めていたのに、今ではぼんやりとしたオレンジ色のグラデーションが広がり、ゆるゆるとした風が私たちの横を通り過ぎていく。


「夏菜子ちゃん、どの辺に住んでるの?」


「3丁目です。近くに花坂公園があります。」


「そっか、そしたら私の家と同じ方角だ。もし夏菜子ちゃんさえよければ、一緒に帰らない?」


思いもかけぬ提案。一瞬ためらいはしたものの、私は大きくうなずいた。


「は、はい!」


***


 先輩が再び口を開いたのは、家まで半分ほどという道に差し掛かった頃だった。


「ハナちゃんもね、きっと今頃後悔してると思うんだ。新庄くんも家庭科部のことを思っての発言だったと思うし。ハナちゃんもそこは理解してるんだよね。でも……」


 先輩はこちらを見ようとしない。先輩の少しうるんだ瞳に映るものの正体が、私にはわからなかった。


「許せないんだ。ハナちゃんのお母さんのことがあるから。」


「お母さん?」


 思わず聞き返していた。しまった、と思った時にはもう遅くて、口が勝手に動いていたのだ。


「うん、お母さん。


 ハナちゃんのお母さんはね、家庭科の先生だったの。ただ、ハナちゃんが生まれてまもなくやめてしまったらしいの。その原因が‟幽霊部員”。

 ハナちゃんが生まれたのもハナちゃんのお母さん———菜々子さんっていうんだけど、菜々子さんがまだ20代かそこらのときで、教師になりたての頃。妊娠がわかって、ばたばたしていたころに家庭科部の幽霊部員たちは現れたの。菜々子さん、部員なんて名前だけで一回も来ないのは、やっぱりそれは間違ってるって、幽霊部員たちに伝えたらしいの。そうしたら、その幽霊部員たち、一斉に学校に来なくなっちゃって。当然、菜々子さんの指導方法が問題だってされて……。それでもしばらくは、ハナちゃんが生まれた後も復帰して頑張っていたらしいんだけど、やっぱり仕事をしてるとその時のこと自然と思い出しちゃって、それに加えて育児のストレスもたまって……。なにも手につかなくなった。」


 あまりにもつらい話、そして今回と重なる影。私の脳裏には部長さんの悲しげな、苦し気な表情が焼き付いて離れない。


「苦しんでいるお母さんを見てきたハナちゃんだから、あんなに声を荒げたんだよ。自分があの時何も力になれなかったことが悔しくて、もどかしくて。」


「でも私は、新庄くんの意見に賛成してる。……難しいね。なにが自分の中で大切かをぶつけるのって。」


 先輩は眉をはの字に、困ったように笑う。


 河合先輩はもしかしたら、あの時自分が何も言えなかったことを、悔やんでいるのかもしれない。新庄先輩の肩を持てば部長さんを責めることになる。かといって、両方の肩を持つことなんてできなかった。河合先輩はいまでも、模索し続けているのだろう。あの場にとって自分はどの立ち位置が正解だったのかを。


 私の家まではあと少し。いつの間にか私たちの足は止まっていた。


「私、こっちなんだ。夏菜子ちゃんは?」


「私はこっちです。」


 私と先輩が指さしたのは違う方向。先輩はそれを見て、「そっか、じゃあ」と手を振って歩き出した。


「あの」

 

 このまま、私もくるりと背を向けて家に向かってまっすぐ歩いてしまってもよかった。けれども、やっぱり聞いておきたいと思った。


「どうして、そんな大事なこと、会って間もない私に教えてくれたんですか?」


 すると、先輩は少し考えるそぶりを見せてから、また、困ったように笑った。


「ただ、誰かに話してしまいたかったの。何も知らない人に。」



 



 

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