第28話 試される絆
10月に入った。金木犀の香りが鼻先をくすぐる。私はこの金木犀の香りが好きだ。幼少時代からどれだけこの香りに誘われ、あの路地この路地を迷走させられたかしれない。このなんとも懐かしい、心の奥底に触れてくる甘い香り。何度この香りに心を鷲づかみされ、息苦しさに似た甘美な痛みに心震わせただろう。私はこの香りに長らく魅了されつづけているのだ。
メリルとマリアとジョージがやってきた。いつにも増して肩を落としているように見えるジョージに私は声をかけた。
「ジョージ、どうしたの?心と体の調子はどう?」
すると、ジョージが
「はあ、私の心が悪いので…」
と、力無く言った。
「ゆっくりと掛けてちょうだい。今、お茶を淹れるわ。確か、ラムレーズンの焼き菓子があったと思うの」
と、私は言った。
コトコトとお湯が沸く間、メリルもマリアもジョージも誰も話さなかった。黒猫は、そんな重い空気など意にもかけない様子で気だるそうに大あくびをし、これまた気だるそうに煙草に火を点けた。
そして、遂に
「何なの?揃いも揃ってしみったれた顔で。気持ちのいい秋晴れが台無しよ」
と、重い空気に耐えかねたように黒猫が言った。
しかし、尚も沈黙は続いた。
私は珈琲をドリップしながら豆から落ちる雫に、早く、早くと心で急きたてた。いつもなら浮き浮きと心弾ませるこの工程が、これじゃ苦行ね、と心で舌打ちしながら、待ちわびた珈琲を差し出した。勿論、ラムレーズンの焼き菓子も忘れずに。
「それで、どうしたの?」
と、私はメリルたちに訊いた。
「ジョージパパを許せないの」
と、マリアが言った。
どういうことなの?と、私はメリルに目で問いかけた。
メリルは事の詳細を話し出した。
ジョージの真っ黒い分身が現れて、ひと月が経とうとしている。そんな家にメリルをひとりにしておけないと、頼んでもいないのにマリアが実家に転がり込んできた。これがないと寝られないという虎頭の枕を抱いて。そしてマリアは、朝に夕にそのジョージの分身を見るにつけ、これがジョージパパの醜い本性なんだという怒りと憎しみがふつふつと沸き上がり、遂には、ジョージは母メリルに相応しい相手ではない、とマリアが言い出したというのだ。
「だって、あの分身はいつも私とママを見張っているんだよ、後をつけまわして。気色悪いこと、この上ないのよ。でもそれって、ジョージパパでしょ。パパが私たちを見張っているんでしょ。それっておかしくない?」
と、マリアが気色ばんでジョージに言った。
ジョージは成す術なく黙っていた。そのジョージに向かってマリアが、
「ねえ、ジョージパパ、なんで私たちを着けまわしているの?説明してちょうだい。あの分身はジョージパパの心なんだから、自分でわかるはずよね?」
と、追い打ちをかけるように言った。
ジョージは、か細い声で言った。
「自分ではそんなつもりはないから…自分でもどうしていいのか…」
「そんなだから分身なんて作っちゃうのよ!自分の心すら見えないから!」
と、吐き捨てるようにマリアが言った。
マリア、とメリルがなだめようとしたが、それを遮るように
「だって、ママだってそう思うでしょ。ジョージパパが優しいなんて嘘よ!最近は本性を出して敵意に満ちた顔でママを見ているじゃない!ママも私もエイドもすっかりジョージパパの仮面に騙されたのよ!優しいふりした仮面にね!」
と、激しさの増した口調でマリアが言った。
「マリア、いい加減にしてっ!」
と、メリルが耐えかねたように言った。そして、続けた。
「ママだって最初は混乱したわ。分身がジョージの本心なのか、本体のジョージが本物のジョージなのかって。それに、最初は何よりもジョージが怖かったわ。真っ黒いヘドロの分身を想像したら、まるで妖怪か怪物にでもジョージがなったような気がしてね。マリアの言う通りよ。この人と夫婦として続けていけるのかしらって、この結婚は果たして正しかったのかしらって。このひと月、ママも自問自答し続けたわ」
「メリルはあの時、ジョージを支えるって覚悟したんじゃなかったの?」
と、私がメリルに訊いた。
「はい。ジョージが自分の痛みや過去と向き合って本来あるべきひとつの魂になるまで、妻である私が支えなきゃって思いました。でも、その決心が日に日に揺れだして、気がついたらジョージを嫌悪する私がいて…」
と、メリルが言った。
「ママ、よく考えて!エイドを救うために家族の団結が必要なのよ。なのに、真っ黒い分身がいる状態で団結なんてあり得ない!こんな大事な時に、家族の足を引っ張っているのはジョージパパよ!だからジョージパパには、いますぐあの分身を本体に戻すか、それが出来ないなら出て行ってもらうしかないと思うの」
と、マリアがジョージへの憎しみを露わにして言った。
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