ハイボールと少年

蟻月 一二三

ハイボールと少年

十八時。仕事を終えて帰路に就く。同じく労働から解放された同志ちたが、わらわらと電車に乗り込んでいく。ただでさえ疲れているのに、彼らの悲壮感にあふれた(ように見える)顔を見ていると疲れが上乗せされるような気がして、たまらず下を向いた。どうして昔の人は、一日八時間の労働を五日連続でこなせると思ったのか。どう考えても不可能だ。個人的に三日が限度。いやいや現に働けているじゃないかと、甘えるな、社会はそんなに甘くはないなどという人もあるだろうけれど、やさしさや、好奇心などといった、人が人である所以みたいなものをそぎ落として、それらを生贄にしながら無理矢理身体を動かされているような気がして怖い。


 社会人三年目。前述したそぎ落とされる恐怖にも慣れてきてしまった。慣れというものは怖い。浸ってしまったが最後。辛くてたまらないのに、なぜか抜け出せない。まあ、抜け出せないほうが、あるいはいいのかもしれない。


 いつも通り、疲れ眼で電車を降りる。今日は金曜日。帰り道にあるコンビニでハイボールを二缶と冷凍のから揚げを買うことだけが、ささやかな楽しみ。この世から、から揚げとハイボールが消えたら、僕も一緒に消えるだろう。時にはこの二つを引き連れて、消えてしまいたいと思うことさえある。




 から揚げを皿に移し、電子レンジへちょっと乱暴に突っ込む。温まるまでが地味に長い。それが難点なのだが。…いったいいつから、から揚げをチンし終わるまでの時間の長さなんかに難癖付ける大人になってしまったのか。自分で言っておいて少し落ち込む。これから楽しい時だというのに。そもそも大人ってなんだ。今の今までに、幼いころに想像したような、いわゆる立派になった人間に誰一人として出会ったことがない。みんな皺が増えただけの我儘な子供に見えてしまう。酒すら自分で注げない奴が、立派な人間であるはずがない。人間は大人になんてなれやしない。立派にもなれない。ずっと子供のままで、貧弱なんだと思う。


 考えても絶対に答えが出ないことに対して、必要以上に考えを巡らし続けてさらに気持ちが沈む。悪い癖だ。考えることをやめたくて、ベランダへ出た。綺麗な夜景でも一望できればまだ救われるのかもしれないが、 ここは三階。隣は、こちらより少し背の高いアパートだ。






 斜め上に大きめの窓が一つ付いている。僕からは部屋の天井と、ハンガーラックらしきものが見える。大胆なことにカーテンもかかっていない。だが、人は住んでいるのは確かだ。そして女性。ベランダに出ると決まって、真赤なブラジャーを窓際に吊るしているのが見える。覗いているのではない。あんなところに吊るしてあったら嫌でも目に入る。そもそも、ブラジャーごときでは興奮できないほど、日々疲れている。


 あんまり長居して覗きと間違えられては困ると考え、そそくさと部屋へ戻る。レンジの中で黄金に輝くから揚げを皿ごとそっと抱き上げ、机の上へ置いた。乱雑に蹴飛ばされ、遠くへ飛んで行った大きめのクッションを引き寄せ、大げさに座った。 始まる。この日をどれほど待ち望んだことか。静かに胸のあたりで手を合わせたあと、ゆっくりとプルタブに指をかける。少し強めに手前に引くと、隙間から炭酸のはじける音がした。






「すいませーん!」






誰だ。玄関の方からではない。ベランダの方からだ。いやでもここは三階。




「すみません!!」




声の距離が近い。 恐る恐るベランダに出る。向かいの窓には、紙がぼさぼさで、襟がよれよれのTシャツを着た、女性がいた。少しばつがわるそうにこちらのベランダの下の方を指さしている。




「申し訳ないんですけど、とってもらえますか」




何を? そう思ったのもつかの間、僕の目に飛び込んできたのは、真赤なブラジャーだった。 ベランダの隅に落ちている。




「風で飛んじゃったみたいで。引っかかっちゃいました」




へらっと笑った彼女の顔を見たあと、もう一度それに目を移した。これは、今目の前にいる女性が日頃から身に着けている下着。さっさと渡せばよいものを、余計なことを意識したせいで挙動不審になっている。震える手を伸ばし、ブラジャーを手に取った。そして自身の身体に起こった変化に情けなくなる。ブラジャーごときでは興奮できないほど疲れ切っていた身体は、少し元気になっていた。


 物干し竿に引っかけて向かいの窓へ伸ばした。彼女は手に取ると、頭を掻きながら僕に感謝の言葉を述べた。




「ほんとにありがとうございます。普通に返してくれる人で良かった」




またへらっと笑った後、同じ場所にブラジャーを干し始めた。




「そんなところに干してあったらまた飛ばされますよ」




「お、確かに。賢いですね」




と言って、今度はにやっと笑った。




「どうしていつもそこに干しているんですか?」




「ん?いつも?」




彼女の、怪訝というほどではないが、不思議そうな顔を見て、自分の犯した過ちに気付く。




「あーいや、いつもというのは、いつもブラを見ているということではなくて。僕はよくベランダに出るんですが、派手なものがぶら下がっているなーって、なんとなしに見たらそれが毎回ブラだというだけで」




焦って早口になり、目をそらした。汗が噴き出す。 終わった。僕の唯一の平穏。なんでベランダになんか出たんだろう。というか、やはりおかしいのはあちら側だ。どうしてあんなところにブラジャーを干す必要があるのか。だが、ブラジャーごときで興奮できないほど疲れ切った身体が興奮してしまったのだから、言い逃れできない。




「いつも私のブラを見てたんですか」




冷めた声がずっしりと耳に響いた。逃げ出したくて震える足を抑えながら、恐る恐る顔を見る。 目が合って、僕は驚きと、戸惑いと、安堵が混ざり合ったよくわからない気持ちになった。




彼女はまたも、にやっとしていた。






「もう知りません」




そう言うと彼女は部屋の奥へ歩いて行った。といっても冷たい感じではなく、冗談半分な感じだ。初対面とは到底思えないほど奔放な彼女にあっけにとられていると、もう一度窓から顔をのぞかせて、彼女は言った。




「そうだ。お名前、よかったら教えてください」




「え」




「嫌ですか?これだけ話せばもう真赤な他人ではないでしょう。ご近所ですし、これから会うことも増えると思うんです。ブラジャーも見られたことですし」




まあ、確かに。ブラジャーも見たことだし。




「……琴田。琴田護です」




「琴田さん。私は東美樹です。よろしくです」




こんなペースで他人と、ましてや女性と距離を縮めたことがなく、戸惑いが隠せないままだが、不思議と嫌な気分ではなかった。誰しも持っているであろう初めてという緊張。それを解きほぐすに長けた人というのは稀にいるが、彼女もその一人だろう。如何にも周りの目など気にしなさそうなその性格に僕は少し安心し、また、うらやましく思った。




 それから彼女とは頻繁にアパートの前や、駅などで会うようになった。今日も近所のスーパーで買い出し中に遭遇し、帰路を共にしているところだ。毎度のことながら、ボサボサの頭にヨレヨレのシャツである。こんな姿であるため最初は気が付かなかったが、僕はここに越してきた三年前から彼女を知っていた。


 紺色のスーツに黒のパンプス。髪はダークブラウンで、ゆるくパーマのかかった綺麗なボブ。シンプルな出で立ちだが、それこそが彼女本来の美しさを際立たせている。大きく、長い猫目。眉間からまっすぐに伸びた鼻筋。薄い唇。顎はスッととがっていて、顔全体は片手で覆うことができるほど小さい。手足が長く、歩く姿が美しい。まるで氷の上を滑っているかのようだ。道行く人々が彼女を見る。男性も女性も見ている。かく言う私も、その中の一人であった。一生のうちで、これ以上美しい人を見る機会はもうないと思っていいだろう。ましてや、今後言葉を交わす瞬間など永遠に来ない。ならせめて、ちょっとだけ、見るだけなら……。




 今僕の隣にいる、暴発した髪に、胸の先端がはみ出しそうなヨレヨレのシャツに、角度によってはパンツが見えそうな短パンを履いて、缶チューハイの入ったビニール袋を振り回しながら、ケタケタと笑う人物。先述した紺色スーツの絶世美女と同一人物だと言ったら、面白くない冗談だと一蹴されるに違いない。


よくここまで変化できるものだ。化粧が上手いとか、そういうことではない。そもそも、今の酷い出で立ちでもよく見れば顔は美しい。むしろ、普段それほど濃い化粧でないことがわかる。であるにもかかわらず、それを一切感じさせないだらしなさ。もはや妖術の域である。




 互いのアパートの前に着いた。スーパーからは歩くと十分ほどかかるのだが、その間ほぼ一人で話し続けていた。いくつも口があるようだった。会話があまり得意でない僕に気を使ってくれているのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。だが、その方がこちらとしても気が楽だ。社会人になり、常に他人の一挙手一投足に神経を張り巡らせているせいか、人と話すのが億劫になり始めていた。とはいえ、話を聞くのは好きであるから、このように相槌を打ちながら聞き手に回る会話は心地がよかった。


 突拍子のない性格ながら、どこか自身との親和性を感じられる彼女に、普段では考えられない速さで心を開けている自分がいた。(もっとも、自分はほとんど話していないが)




 部屋へ戻り、少し急いで風呂に入る。今日も今日とてハイボールを飲む。楽しみが待っているとせわしなく動いてしまうのは、僕がまだ子供だからだろうか。


 いつものようにクッションを敷き、その上に腰を下ろす。迷いぬいた末、結局から揚げを購入してしまった。いつもの布陣でいざ。




「護君!」




窓の外から呼ぶ声がする。そんなことをする人物は一人しかいない。




「東さん。携帯に連絡くれたらいいじゃないですか」




「めんどくさいのよ。もう一緒に住んでるようなものじゃない。私たち」




「住んでませんよ」




特に用もないのに窓越しに僕を呼ぶことが増えた。




「今何してるの?」




「お酒飲もうかと思って」




「うちで一緒に飲まない?おつまみもお酒も充実してるよ」




流石に返答に困った。一人暮らしの女性の部屋にお酒を飲みに行くなど、考えたこともなかった。というか、こんな軽いノリで行ってしまっていいものなのか。自身の気持ちとは裏腹に、口は迷いなく正直に動いていた。




「行きます」






「部屋番号は301ね」




そう言うと、彼女は部屋の奥へ入っていった。僕は少しだけ空いたハイボールを持って、隣のアパートへ向かった。平静を装ったが、足取りは早かった。僕が子供だからだろうか。


 自室の鍵を閉めるとき、ふと不安がよぎる。何の備えもないが、このままいってもいいものか。辛うじてできた備えといえば、風呂に入ったくらいだが。あれこれ考えながら歩き出す。ゆっくり階段を上り、扉の前に着いた。右上には301の文字。鼓動が早くなった身体を落ち着かせつつインターホンに手を伸ばす。次の瞬間、扉が勢いよく開いた。




「びっくりさせないで!来てたのね。遅いから見に行こうと思ったの」




「びっくりしたのはこっちです。遅かったのはすいません」




「初めてレディの部屋に入ることになって緊張したのかな?」




「……どうして初めてだと」




「あら、本当に初めてなの。かわいい反応。さ、上がって」




かわいい。この歳で言われる言葉ではない気もするが、嫌でもない。嫌がるのが普通なのだろうか。だとすれば僕は相当な変態ということに…。


 もやもやしながら足を踏み入れた。玄関に入ってすぐ右手に半透明の扉があり、少し開いている。そこからほのかにシャンプーの香りが漏れ出し、部屋中を漂っている。彼女も先程風呂に入ったようだ。


 風呂を過ぎると、六畳一間のワンルーム。部屋の中央には、ピンク色のふわふわしたカーペットが敷いてあり、その上にかわいらしいちゃぶ台が乗っている。右手に見えるのが、僕の部屋から見える窓だろう。際に見覚えのあるハンガーラックが置いてある。僕の部屋からは見えない窓下にはシングルベッドがあった。真赤なブラジャーはかかっていない。




「今日は着けてるよ」




心でも読まれたか。聞いてないと答えると、悪そうな顔で笑った。


 彼女は冷蔵庫から冷えたレモン酎ハイを持ってきた。僕の家から持ってきた開けかけのハイボールにこつんと当てたかと思うと、立ったまま豪快に飲みだした。同時に、クッションの上に座るよう催促されたので、缶を開け切り、座りながら飲んだ。彼女は、僕の隣にピッタリと並んで座った。




 たわいもない会話をたくさんしたが、正直ほとんど覚えていない。酔いが回っているからなのか、もともとそういう手癖なのか、彼女の手は、僕の肩やら腿やら頬によく触れた。


 どう思っているのだろうか。と、さすがに考える。元の人柄も相まって、何を考えているのか読めない。僕が男だということくらいは、さすがに認知しているはずだが、そんなことは意識するまでもないということなのだろうか。


 触れ合う回数が増え、しまいに彼女は、僕にもたれかかりっぱなしになった。肩に頬を乗せて、ぐったりしている。手を握ったり、足を撫でたり、無言で僕の身体に触れ続けた。 自分の心臓の鼓動音が、彼女にも聞こえているのではないかと思えるほど大きくなっている。 それと同時に確信に変わった。彼女が僕に想いを寄せているということ。これまでにも、それらしいしぐさはあったのかもしれない。だが、この歳になってもまだ恋愛のれの字も知らない男だと気づいたのだろう。でなければ、こんなことはしないだろう。




 この状況では、腰に手を回すぐらいのことはしなければならない。やましいことなど考えていないといえば嘘になるが、全くおかしなことではない。この胸の鼓動の早さ。僕も彼女に想いを寄せていたのだ。自分の気持ちにすら鈍感とは、なんとも情けない話である。


 腰骨あたりにそっと手を置き、引き寄せる。恋や愛といった類のものは、もっと劇的なものだとばかり思っていた。突然といえばそうだが、これほどまでに自然に、まるですでにそこにあったかのように、受け入れられるものなのか。


 感慨に耽り、ふと前を見るとハンガーラックが見える。その端には、女性ものの服に紛れて黒のボクサーパンツが吊るされていた。レディースか?いや、だがあれはどう見ても…。




「あれ」




「ん?」




「男性用のパンツ……ですよね?」




「うん。彼氏のパンツ」






確かに言った。彼氏と。聞き間違いではない。彼女には彼氏がいる。意味が分からず混乱した。であれば、今行われているこの触れ合いはなんなのか。男女が触れ合ったそこには、少なからず恋心や、愛といったものがあるものではないのか。無いのなら、今行われているこれらの行動の意味とは。




「彼氏と別れる気なんですか?」




「どうして?」




「どうしてって。こんなことまでしておいて、流石に」




彼女は、今までに聞いたこともないくらい大きな声で笑った。




「本当に子供なんだね」




「は?」




「そんなに簡単なことじゃないよ。人を好きになるっていうのは」




唖然とした。彼女は立ち上がり、ベッドに腰かけた。




「もしかしてだけど、私のこと好きになっちゃったのかな?」




「……」




「なんかごめんねぇ」




その後彼女は、彼氏の良いところ、悪いところを語りだした。長くなりそうな話で面倒だったので、飲みかけのぬるくなったハイボールを飲み干し、部屋を出た。




自身の部屋に戻ってベッドに倒れこみ、自慰をした。




彼女を好きではなくなった。






 相も変わらず、代わり映えのない日々が続く。週末のささやかな幸せのために、毎日を生きる。子供のように泣きたい日は、外の空気を吸いに、別に綺麗でも、景色がいいわけでもないベランダへ少しだけ出る。プライバシーのかけらもない大きな窓。際には、真赤なブラジャーがかかっている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハイボールと少年 蟻月 一二三 @tngtsht

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ