第30話 音をばらす③
「―――ッ!」
俺は弾いていた右手のフレーズを考えを捨て、思いのまま動かす。木製の鍵盤が手に吸い付くように俺の動きに合わせ、少しざらざらする木の感触が俺を刺激した。
不協和音を鳴らし、収める。
収めて、また鳴らす。
そのひとつひとつのフレーズに観客が息を呑むのが分かった。
空気が揺れる。
形式にとらわれない。不協和音? それの何が悪い。不協和音は曲を、心を結束させるためにあるんだからな。
もしかしたらミツケヴィチの詩にはこういう捕らえ方が出来るんだと思う。
『自分を壊す物語』
なぜオンディーヌはいままで喰らって生きた人間の騎士と恋に落ちたのか。イケメンだったからなんて簡単な理由なはずがない。
これは俺の考えだ。違った解釈があってもちろん構わない。むしろそれを推奨するまである。
おそらく、おそらくだ。
オンディーヌは騎士が歩み寄ってきたから受け入れたのではないだろうか。
森の妖精がいたとしてもずっと具現化していられるのは彼女一人だけ。
オンディーヌに恋がわかるような心があるとするなら、―――それが何百年続いたと考えたらどうだろう。
いくら人間じゃなくても寂しさを感じるに決まっている。絶対にだ。
それだというのに今まで来た騎士はオンディーヌを斬ろうとしてきた。それがどんなに悔しくて辛かったことだろう。人間が嫌いになっても仕方がない。
だがその騎士は事情を聞き、歩み寄ってくれた。
いくら邪険にしても自分を襲おうとしなかった。
だったら自分を壊してこちらからも歩み寄ろうとしてもおかしくはない。
月見里も同じだ。
彼女はピアノに支配されてきた。母親に支配されてきた。自意識過剰かもしれないが、俺に委縮しそれすらに支配されてきた。
だったらそれを壊せばいいだろう!
自由に、壮大に、そして美しく。
バラードは穏やかな波の部分が終わり、アレンジを加えたまま、壮大に『転』に入る。右手のオクターブ連打をずらしより音を組み合わせ重厚感があるように手を動かす。
腕が痛い。右手も左手も筋という筋がビシビシ悲鳴を上げている。
俺はそれすら燃料に変えさらに加速した。
♪♪♪
「これは……」
月見里母———月見里沙月は審査員席で短く息を漏らしていた。
最初の二曲は完璧だった。認めたくはないけどあの男の息子ってだけある安定した演奏。
強弱はもちろん曲の雰囲気を壊さないアクセント。白旗を上げるしかなかった。
だが三曲目。
出だしこそ普通だったが第二フレーズに入ったとたんアレンジしたのだ。コンクールでは完全にアウトな、子供でも分かっているタブー。
寝ていると思っていた隣に座っていたじじぃですら驚きの表情で長く伸びた眉を寄せて彼を凝視していた。
「月見里さん、これどう見ますかな」
「聞くまでもないでしょう。アウトですよアウト。臥龍岡家は何をしているんだか。教育がなっていない」
「ふざけすぎだ。断じて認められんな」
審査員は評価シートに総じて大きくバツをつけペンを置いた。そうするのが当たり前。それは月見里母も分かっている。
だがどうしてだろうか。彼女はペンを持ったまま震えていた。
「この曲は……」
一流のピアノ弾きは聞けばわかる。それが何を意味しているのか誰を相手取っているのかを。
月見里沙月も例外じゃなかった。
自分宛てのメッセージだと気づくのにそう時間はかからなかったのだ。
ほかの審査員は顔をしかめつつ机を指で叩いている。だがそれは自然とリズム取っていた。気づいている人は月見里母ただひとり。
時間を遡るように記憶があふれ出してくる。
「そう、・・・・・・テーマは自立、自由といったところね」
凝り固まっていた時間とともに感情もほぐれていく。月見里母は脱力してペンを置いた。なにも書かずに、ただ。
それを他の審査員は驚きの表情で見つめ、演奏している奴を見る。
彼は――臥龍岡は笑っていた。
手を端から端まで88鍵をすべて弾くように縦横無尽に動かし、スポットライトを浴びて汗を浮かべながら笑っていた。
ピアノは『結』、コーダに入る。
自由奔放に走り回っていたフレーズは収束し、だがダイナミックさを残したままオクターブの階段状の連打に入った。ところどころ水の精が躍るようなトリルが付け加えられながら。
叩きつけるように高音を打ち付け下に移動し低音を響かせる。打ち分けも見事というほかない。
こんなことができるのは彼しかいない。そう審査員の心が一致した。
密かに観客を見た審査員もいた。その瞳には恍惚とした表情を浮かべたものだけが映るだけ。
歴史あるピティナコンクールにあるまじきことだ! と怒りだすものなど一人もいない。完全に酔っている。酔わされている。
そして最後の一音が鳴らされ―――、
「「わあぁぁぁぁぁあああああ!!」」
盛大な拍手とともに手が鍵盤から離された。彼の汗ばんだ手が空中でキュッと握られる。
それを成し遂げた彼はきょとんとした顔で観客席とピアノ、舞台袖を交互に見て困惑の表情を浮かべていた。なぜならまだ最後の曲が残っているから。
彼は恐る恐る立ち上がり小さくペコっとお辞儀をして座る。明らかな挙動不審。ビデオに残っていたら彼は相当赤面しただろう。
月見里母はその様子を呆然と見つめていた。
そして震える手でペンを持ち、紙に躍らせる。
「規則だものね。しょうがないわ」
大きく『バツ』と。他の審査員の誰よりも大きくバツをつけた。
そして講評用紙のコメント欄に一言書き加え、微笑んだのだった。
♪♪♪
「最っ低の演奏だった……」
俺は観客にお辞儀をしながらボソッとつぶやく。
三曲目で怒られるっておもっていたのに待っていたのはブーイングじゃなくて拍手とスタンディングオベーションだったんだぜ! 調子狂うだろ!
結果四曲目は三曲目と比べ見劣りする形となってしまった。
やっべー。はっずかしー。
俺がこそこそと舞台袖に引っ込むとアナウンスが今日のプログラムは全て終了したとの声を入れる。ガヤガヤと騒ぎ出す客席を感じ、俺はため息をついた。
「ひぃー」
「そこは普通、はーじゃないの?」
「仕方ないだろうが。あんなに緊張したのは初めてなんだよ」
「あなたでも緊張するのね。びっくりだわ」
憎まれ口が減らない、ついこないだ知り合った十年来の知り合いに顔を向ける。そして固まった。俺の目がメデューサと合ってしまったように。
「いや、髪。どしたんそれ」
「? ……ぁぅ、っ……。んんっ、それより!」
誤魔化した!
月見里は赤くなった顔で必死にすまし顔を作りながら手で髪をすく。コーティングされていたからかおろしても絡まっているように見えるその髪は、どこか彼女の心を表しているように思えた。
「どうして曲を編曲したのよ。これは冒涜といっても過言じゃないわよ。あなた私を侮辱してるの?」
「自分で分かっていてそれを聞くのは反則じゃないですかぁ……?」
普通演奏を終えた演奏者は控室にもどり、着替える。だが彼女はここにいるのだ。カーディガンを着て、髪を崩して。つまり―――、
「俺の演奏で立ち直ったんだなぁ。そうかそうか。嬉しいなぁ」
「―――ッ! 死ね」
ド直球すぎません? 言われて悲しくなるから言わないでほしいな。俺はネクタイを緩め第一ボタンを外しながら月見里に問いかける。意地悪だと自分で自覚しながら。
「で? どうするんだ? お前は。お膳立てはしてやったつもりだぞ」
「あれがお膳立てって自意識過剰じゃない? 顔が厚いっていうのかしら?」
「そうそう。で?」
軽く嫌味を受け流し片眉を上げて問うと月見里は顔を伏せ、ぽつりとつぶやいた。
「自分の意思を伝えてみるわ。そう言いたかったんでしょ?」
そう言うと月見里は足音をわざと立てながら控室に戻っていく。そんなにヒール鳴らすと折れちゃうよー。もの、大事にねー。
俺は肩をすくめながら手をまわし係員にお辞儀して。
俺も控室に戻った。
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