常雨 夢途

第1話

「ねぇ、幸せもとめるほど苦しくなるのは何でです?」


「物事にはいつでも矛盾がつきまとうものさ」


「求めるほど奪われるのはなんでです? 生きようとするほど傷つけられるのはなんでです?」


「どれも全て当価値なのさ。相反、裏と表。表裏一体というだろう? ひとつの概念には必ずコインのように表と裏がある。で、たいがいのところ、そのコインは良くない方が出るものさ」


「へー、くわしいんですね。うける」


 少女は真顔でそう呟く。冷淡なその声音はひどく無機質で、空っぽだ。


「ねぇ、わたしのかみさま」


 少女は目の前の男をかみさまと呼びます。少女にとって、男は紛れもなく神に等しいしるべであり、光であり、また闇でもあった。


「まったく、私を神様と呼ぶのはやめなさい。これでも、多くの人を裏切ってきたのです。多くの幸せを奪ってきたのです。だから神と呼ぶにはいささか私は悪辣だろう。自分も他人も傷つけてばかりの人生だ、だから最後にせめてもという思いで君と話をしているのさ」


「へー」


 少女のその何の感情も込められてない声音に、男はどこか郷愁さえ感じていた。

 共感する資格など無いと男は思っていながら、それでも共感してしまう不必要な優しさが、男には残っていた。

 歯噛みする。都合の良いところに発揮する優しさなんていらない。これまで欲に任せて他人の快も楽も愛も全部非情に無慈悲に奪ってきた。欲望のまま他人を傷つけてきたのだ。ならば、心も非情に染まれば良い。

 それなのに、この共感だけはする心はなんだ。気持ち悪い、気持ち悪い、自分が気持ち悪い。

 男は一切表情には出さず、想像で自分を刺殺し続けていた。胸を、腹を、頭を、自ら串刺しにするのだ。それでもふらふらと生きている。気持ちが悪い。男の乾いた瞳が僅かに揺れた。

 それを少女は見逃さなかった。


「かみさまも辛いことあるのです?」


「……神様に辛いことなんてありはしないさ」


「ほんと?」


 少女は僅かに声を弾ませて、首を傾げました。

 男は眉間に微かに皺を寄せながら微笑みます。


「ほんとさ」


「うそ」


 ぎゅぅぅぅぅぅぅぅ。

 少女は男を抱きしめました。か細い腕で思い切り、大事そうに力強く抱きしめました。

 男は乾いた瞳を見開いて、久しぶりに自身の動悸と、他人の温もりを感じて、ひとりでに震えだしていました。男は悲痛に叫びます。


「痛い、痛い……心がずっと痛いんだ。何も感じない、何も残ってない、喜怒も楽も……愛も信心も、ただ虚ろで虚しいだけなんだ。それなのに心だけは痛いんだ。ずっと痛いんだ。そんなこと思う資格すら私には無いというのに」


「そんなことないです」


「ずっと奪い続けてきた。ずっと傷つけ続けてきた。私はいつもそうだ。心が赴くまま、醜い感情に支配され、最後はいつも貪り尽くす。そうして手に入れたつもりで手元には何も無い。何にも残っていない。私は最低なんだ。生きている価値すら無いのだ。それなのに、涼しい顔して生きる醜態、最後に君で罪滅ぼしをしようとする醜悪、ああ殺してくれ殺してくれ。失望したろ、見限ってくれ」


「そんなことないです」


 男は自身の手に乗った透明な涙を見て、さらに死にたくなりました。心身全て穢れきった自分の流す涙だけはなぜ透明なのか、男は気味が悪くて仕方がありませんでした。

 涙を流している自分の目をくり抜きたい、そんな衝動にすら駆られていた。

 そんな男を少女はさらにぎゅっと抱きしめます。


「わたしはかみさまが好きなので、そんなこと言わないでほしいのです」


「私が……、すき……?」


 そんなこと!と声を張り上げようとした男の口を、少女は優しく塞ぎました。


「かみさまが昔にどんなことしてたってそんなことしらないです。わたしはわたしがしるかみさまが好きなのです。だから勝手にわたしの好きなかみさまを自分で汚さないでほしいです」


 やはりその声は冷淡で機械じみてさえいますが、それでもどこか深い感情を感じさせる、そんな温もりがどこかにあるように、男は思いました。


「かみさまに、わたしは救われました。話を聞いてくれました。みんなはそんなこととバカにするけれど、かみさまはずっと話を聞いてくれました。いろいろ教えてくれました。わたし、ほんとにすくわれたのです。わたしが生きてることはほんとに嫌でうけますが、それでもかみさまと話すために生きていると思うととたんにうれしくなるのです。ああ、わたしのかみさま。わたしはあなたがすきなのです。だから、わたしもあなたをすくいたい」


「あ、はは……そうか、そうか。君は私の神様だったのか」


 男はそう感嘆し、震え、涙しました。

 少女は感情のない瞳で男を見つめます。


「うける」


 少女はぽつりと呟きますが、男には届いていないようでした。



 曇天を見上げ、ひとりでに男は諭すように呟く。


「幸せを求めるほど不幸が手繰り寄せられ、傷つきたくないと思うほど傷ついてしまう。信じる程に裏切られ、サイコロの目は全部最悪。だから、何にも期待しない方がいいのさ。何にも信じなければいい。そうして何も感じ無くなれば、もう痛みも無い世界が待っている。それなのに、信じてしまう……私達のように」


 少女が消えていった地獄の底を眺めて、男はほほ笑みかける。


「でも、あなたは卒業できました。人間の抱える矛盾、それらから解放されたのです。君は強い人間です。強く、聡くて、たまらなく透明だ。その脆ささえ、美しさの象徴さ。君は私にとって、本当に神様のように輝いて見える。ああ、私の最後の愛。あなたを抱えて、私は朽ちるまで生きてゆきます」


 男は踵を返した。少女が消えていった奈落から。

 すでに男は枯れ果てていた。故に朽ちるのも最早時間の問題だろう。生きながら死んでいる。死にながら生きている。

 虚ろな人間に幸あるか?

 男は笑いながら歩く。一歩一歩着実に、死んでいくのだ。

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常雨 夢途 @tokosame_yumeto

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