第14話


 助手席にワラシを乗せ、リード、切って折り畳んだ折り込み広告、ビニール袋、タオルなどの散歩グッズを後部座席に放る。運転席には昌代が座り、知道は膝の上にワラシを乗せ、助手席に腰を下ろした。昌代は運転を知道に任せることはない。まだ新婚時代、知道が運転する車がトンネルの中でハンドルがぶれて、壁に接触しそうになったことがあった。昌代が座っていた助手席側が壁に異常に接近したのだ。元々他人の運転には不安を覚える性質の昌代は、それ以来、知道に運転を任せることはなくなった。

 日曜の朝の道路は閑散としている。月曜日の朝の、車が連なる風景とは大違いだ。知道は日曜の朝の散歩の度に、休日がもつ安らぎというものを感じた。

 ワラシは久しぶりの運動公園行きで落ち着かない。知道の膝から昌代の膝に移りたい仕種をする。

「ママのとこへ行くか」

 と知道がワラシに問う。

「こんでいいよ。パパのとこにいなさい、ワラシ」

 昌代はすかさず牽制する。実際、ワラシが移って来れば運転の邪魔になるのだ。しかし、ワラシは既に立ち上がって、昌代の膝に跳び移ろうという姿勢をとっている。

「ワラシ、ここに居なさい。ママは運転しよるんだから」

 と知道はワラシの体を手で抑えようとするが、ワラシはその力に抵抗する。

「仕様がないね。ハイ、おいで」

 と昌代は膝を叩いた。待ってましたとばかり、ワラシは跳び移った。跳び移った後もじっとしていない。ドアの内側の把手に前足を掛け、伸び上がって窓の外を見ようとする。

「ワラちゃん、窓の外見るの」

 昌代はそう言ってパワーウインドのボタンを押した。窓ガラスが下がる。ワラシは窓から頭を突き出し、前方を眺める。吹きつける風がワラシの顔の毛をなびかせる。ワラシは目を細くして、気持よさそうに風に吹かれている。知道は車に乗ったワラシがよく見せるこの姿を「風に吹かれるワラシ」と名づけた。

 I川の河口に架かる大きな橋を車は渡る。橋の手摺りに五、六人の男が釣竿をもたせ掛けている。足許にはクーラーボックスや腰掛けなどが置いてある。背後を車が勢いよく走り過ぎるのだが、落着いて釣りができるのかと知道は訝しく思う。

 総合運動公園が近づくとワラシは興奮してくる。クーン、クーンと鳴き始め、それが高まって吠え声となる。昌代の膝にじっとしておれず、知道の方に突然跳び移ってくる。下腹をワラシの体重のかかった前足で踏まれると、知道には「ウッ」と声が出る衝撃がある。「ワラちゃん、静かにしなさい」と昌代は声をかけるが、ワラシの興奮は公園が近づくにつれて高まる一方となる。知道が「大丈夫、大丈夫」と言いながら背中を撫でて少しは鎮まっても、車が公園の駐車場に入ると前以上の高い声で吠え始める。いつも停める停車枠に車が入ると、今にも窓から跳び出しそうな狂騒状態となる。そんなワラシになんとかリードを付け、車の外に抱え出す。地面に置いて手を離せば一目散に走り出すので、知道はリードをしっかり握ってワラシを抑える。広告紙とビニール袋を手早くポケットに押し込む。走り出そうとするワラシに引っ張られる形で遊歩道に入る。

 ワラシを間にして夫婦で歩き始める。散歩が始まった。休日の朝、家族で平穏に散歩できる幸福が知道の意識に上るが、それにはなぜか物寂しい感情がつきまとっている。十メートルほど歩いたところで、知道はリードを離した。ワラシを抑えていた力が抜けて、ふっと解放感が広がる。ワラシは勢いよく前に駆け出す。しかし二十メートルほど駆けたところで止まり、後ろを振り返る。知道と昌代が歩いてくるのを確認すると再び駆け始める。ワラシとの距離が開く。

「ワラちゃん、ストップ! 」

 と昌代が叫ぶ。そして、

「ワラシだけ先にやったらいけんやないね」

 と知道に文句を言って、駆け出す。

「ストップ! ストップ! 」

 と、走りながら叫ぶ昌代の声に、ワラシは立ち止まり、振り返る。昌代はワラシに近づき、リードを摑んだ。知道も駆け足で近づく。

「先が見えん所で放したらだめよ。この辺りには野良犬もいるし、リードをつけないで散歩させている犬もいるんだから」

 昌代は知道を叱る。知道は顔をしかめる。その顔に容赦なく、

「あんたはリードを放して、ワラシが見えなくなりよるのに、ゆっくり歩いていくんだから、信じられんちゃ」

 と昌代は非難を浴びせる。

「あれだけ言ってるのに」

 知道は唇を引き結んで頭を振った。確かに何度も言われてきたことだ。リードを放したら、犬の前方や周囲に一層目を配らなければならない。前や周囲が見通せない場所では決してリードを放してはならない。しかし彼は、ここまで来ればもういいだろう、という思いで、ついリードを放してしまう。知道は省みて、それはワラシに自由を与えてやろうという思いより、ワラシをコントロールする骨折りから逃れるためなのかなと思う。だから走っていくワラシを追う気にもなれないのだ。昌代はそのあたりの知道の自分勝手ないい加減さを鋭く突いてくる。

 知道の散歩のさせ方についてはこの他にも昌代が批判する点は多かった。人間より先に歩かせない。体の側にぴったり付けて歩かせる。有害な虫がいたり薬が散布されていたりする恐れがあるので、叢には近づけない。これらはいずれも知道が守りきれていないため、昌代から繰り返し批判される事柄だった。それが飼い犬の安全のために重要な事項であるため、知道は不快を覚えながらも昌代の言葉に反駁することができなかった。

 昌代に非難されて、さっきワラシのリードを放した時に膨らんだ解放感が萎んでしまったのを知道は感じた。ワラシのリードを把って前を行く昌代を眺めながら、ワラシに対する自分と昌代の気持の違いを知道は思った。すると数日前の夜の出来事が思い出された。

 その夜、二人はレンタルのビデオを見ていた。それは妻と死に別れた男が妻への思いを断ち切れず、それを手紙に綴り、壜につめて海に流すという映画だったが、昌代は見ながら、

「私が死んだら、あなたは若い人とさっさと再婚してね」

 と言った。それは昌代がよく口にする言葉だったが、知道は、

「何でお前が先に死ぬんか」

 と苦笑を浮かべて言い返した。そして、

「お前は俺の最期を看取らんといかんのぞ」

 と、これも彼がよく言う言葉を続けた。

「俺が死んだらお前どうするんか」

 と知道は逆に訊いた。

「それよりもワラシが死んだら、お前どうする。大丈夫か」

 と、多少からかいの気持を込めて知道が訊いた時だった。昌代は、

「私、あなたの死は受け入れられるけど、この子の死は受け入れられない」

 と答えた。知道は聞き流そうと思ったが、やはりショックだった。俺の死は構わないが、ワラシの死はとても耐えられない、と言っているように彼には聞こえたのだ。湧いた疑念を今質すかどうか彼は迷った。ビデオの返却期限は翌日に迫っていた。十五、六年前に買ったビデオデッキは老朽化したのか、巻き戻しがスムーズに出来なかった。ここで問い質したりするとビデオを見ていられなくなる。話が終ったところですぐビデオを巻き戻して視聴再開ということもできない。おまけに一時間後にはスポーツニュースが始まる。知道夫婦が応援するプロ野球チームがその日の試合に勝ち、マジックが点灯していた。その試合の模様を是非とも知りたかった。それは夫婦に共通する唯一の娯楽だった。ここでビデオを停止したり巻き戻したりしていると、スポーツニュースまでには見終えないだろう。スポーツニュースが終ればもう就寝時間となり、見る時間はない。見終えないまま返却ということにもなりかねなかった。このまま黙ってビデオを見続けるのが一番無難なのだと思った知道だが、やはり気になったことははっきりさせなければ落着かなかった。彼は起き上がり、

「俺が死ぬのは構わないが、ワラシが死ぬのは困るというのか」

 と昌代の顔を見て問うた。昌代は、少し笑って、

「あなたが病気になって弱っていくとしても、あなたがどうしてそうなったか、どんなことを思っているか、はわかるでしょ。言葉があるから。だから納得もできるけど、ワラシの場合はそうじゃない。なぜ死ぬのか、どんな思いでいるのか、分からないままに死んでいくのよ」

 と答えた。知道は思いもしなかったことを言われて、不意を突かれたような気がした。氷解とまではいかなかったが、なるほどとは思った。「受け入れる」とは言葉によって納得するという意味だったのだ。ワラシに寄せる昌代の思いの、自分とは違う角度をまた一つ示されたような気がした。

 思いに沈んでいるうちに遅れてしまった知道は走って昌代に追いつき、ワラシのリードを受け取った。しばらく歩いたところで、ワラシは鼻面を地面に近づけ、くるくる回り始めた。排便の兆しだ。知道はズボンのポケットから折り畳んだ広告紙を取り出し、それを広げてワラシを注視した。回転が止まり、ワラシが背中を丸め、後ろ足を踏ん張って腰を落とした時、その尻の下に素早く紙を敷くのだ。そのタイミングが早すぎると回転がまた始まり、遅すぎると糞が出てしまって広告紙で受けることができない。その場合は糞の上から紙をかぶせて握り取る形になるが、きれいには取れないことが多い。タイミングよく紙が敷けると一安心だった。紙の上に糞がカサッと落ちる。量、色、形はその時々でさまざまだ。紙を丸めるとビニール袋に入れる。ビニール袋は昌代が持つ。この糞の処理の仕方も昌代が始めたものだった。

 

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