シネマ・コネクト

タマキ

第1話

 七月三十一日

「今日はありがとう。映画面白かったね、また遊ぼう」

 家に帰る電車の中で、葉月はづきは右手に持ったスマホの画面に浮かぶ文字列を眺める。大学の友人と絶賛公開中の話題の映画を見てきた帰り道。表情を変えぬままそのメッセージに返事をし、膝の上にスマホを置く。二人掛の座席の隣には誰も座っておらず、線路沿いの全ての駅に停車する普通電車の中は閑散としていた。通路側の席に黒いショルダーバッグを置き、顔を上げて車両の天井から吊り下げられた花火大会の広告をぼんやりと眺める。最後にあの花火大会に行ったのはいつのことだっただろう。

 両耳に入れた黒いイヤホンから、中学生くらいのころから好きなアーティストの曲が頭の中に流れてくる。心地の良いリズムとメロディと歌声。この時間が、葉月の生活の中で一番有意義な時間だった。右を向くと、窓ガラスの向こうは真っ暗で、自分の顔が反射している。

 大学一年の夏休み真っ只中。ついこの間梅雨が明けて、ようやく夏らしくなってきた今日この頃。八月の頭から、九月の終わりまでの約二ヶ月間ある夏休みも始まったばかりで、高校で親しかった人や大学で知り合った人達から遊びに行かないかという連絡がいくつか入っていた。

 窓に映る自分に今日もお疲れ様と労いの微笑みをかける。

 正直なところ、それらの遊びの誘いは葉月にとってはありがた迷惑だった。気の合わない他人と一緒にいるくらいなら、一人で自由な時間を過ごしたかった。どれだけ外側を取り繕っても、内側はそう簡単には変わらない。かといって、それを直接相手に言えるほどの勇気は持ち合わせていない。そのため、相も変わらず楽しくもない人付き合いを続けている。そんな自分はなんとも中途半端な人間だと葉月は思う。将来は人が全くいないような自然に囲まれた田舎に住みたい、それが今のところ最大の夢だった。

 急行なら止まらないような小さな駅に電車が停まった。ホームの大部分には屋根が無く野ざらしな状態で、かろうじてある屋根もビニール製の簡素なものであった。窓からは電車から降りていった人達が、二つしかない無人の改札を通っていく姿が見える。定期か切符をどこかにやってしまったのか、立ち止まってカバンの中を漁っている女性がいる。その人の様子を観察していると、ドアが閉まり、電車がゆっくりと進み始めた。葉月は口を大きく開けてあくびをする。

 同時刻。葉月が乗っている電車の一本前の電車に先ほどまで乗っていた浩介こうすけは、一旦電車を降り乗り換えの電車が来るのをホームの待合室の椅子に座って待っていた。当たり前のように耳につけられた白いイヤホンからは、ピアノの柔らかな旋律が流れてくる。その音を聞いていると、心に虫食いのようにあいた穴が少しずつ修復されていくように感じた。

 ガラスで囲まれた待合室からは向かい側のホームの待合室に座っている人の姿が見える。チカチカしている切れかけの電球の周りを小さな黒い虫が旋回している。誰もいないその仕切られた空間に滞在する時間は七分間。やけに長いその空白の時間を埋めるようにリュックの中から文庫本を取り出した。

 映画館からの帰りに本屋に立ち寄った際に偶然見つけた、サークルの後輩から勧められたミステリー小説。店員が本にカバーをかけると同時に入れてくれたしおりが挟まっているページを開き、続きを読み進める。

 さらにその同時刻。みなとは小学校の入学祝いに祖父が買ってくれた木製の勉強机に向かって塾の宿題をこなしていた。正面には問題集や教科書やノートが並んでいて、その横には余白に二年五組と書かれた時間割り表がコルクボードにピンで留められている。そのコルクボードのすぐ手前には四角くて薄いCDプレイヤーが置かれていて、そこから伸びる青いイヤホンのコードは湊の耳へと続いていた。 

 流れているのはラジオ。名前も知らない低い声の男性と高い声の男性二人が視聴者から送られたお便りを読みつつ番組は進んで行く。目の前の数学の問題を解くのに夢中な湊には彼らの声は届かない。

 耳元で流れている音が全く聞こえなくなること、それが自分が勉強に集中できている証拠だということを湊は自覚していた。開け放たれた小さなベランダに繋がる窓から心地よい風が入り込み、カーテンレールにかけられた制服のズボンが少し揺れる。

 その直後、三人の耳に流れていた音が急に止まった。葉月は何事かと思ってスマホを確認する。しかし画面に映るジャケット写真の下には、再生中であることを示す横向きの三角マークが表示されていた。浩介はスマホとイヤホンの接続が悪いのかと思ってコードの根元を何度か動かしてみる。しかし状況は変わらない。湊はCDプレイヤーのつまみを一旦CDに変え、再びFMに戻す。砂嵐どころか、何の音も聞こえなかった。

 止まった音楽の一方で葉月の乗る電車は滞りなく動いており、目的の駅まではあと一駅で三分ほどというところだった。イヤホンの線が切れてしまったのかもしれないと思い、雑に扱ってきたことを悔いながらも左耳のイヤホンを外す。

「あーあー、聞こえてるかな?」

 葉月は肩をビクッと揺らして、顔を上げる。どこからか可愛らしくて高い声が聞こえたような気がした。正面にはその声の主らしき人物は見当たらない。振り返ってみるが、そこにもそれらしき人はいない。それどころか、数少ない乗客は皆下を向いているか目を閉じていて、誰もこちらに注意を向けている様子はなかった。幻聴だったのかなと思いながら葉月は右耳につけているイヤホンにも手をかける。

「聞こえてるよね」

 三人の耳に再びその声が届く。そこで葉月は気づいた。その軽やかに弾んだ声を聞き取ったのは、左耳ではなく右耳だった。

「それではさっそく宣伝です。私の声をお聞きの皆さん、退屈な日々を過ごしていませんか?明日から、使われなくなっていた映画館を期間限定でオープンすることにしました。場所は川のそばの大きな公園の近く、畑の真ん中です。目印として屋上には大きな赤い旗が置いてあるので、それを頼りにぜひ足を運んでいただけると嬉しいです。皆様のご来場を心よりお待ちしております。それではまた」

 何事も無かったかのように、先ほどまで聞いていた曲の続きが再生される。その音は右耳を通って、葉月の頭に入ることなく抜けていく。

「何、今の?」

 葉月のつぶやきは、停車駅をお知らせするアナウンスにかき消された。

 家の最寄り駅に着いた葉月は電車を降り、改札を抜け、階段を下りて駅を後にし、家までの夜道を一人歩く。曲の再生を止めて、耳につけっぱなしのイヤホンからは何の音もしない。ただ、遠くに聞こえる虫の音とどこかの家の室外機のゴーっという音を曇らせているだけである。

 あの声は本当にこのイヤホンから聞こえてきたのか、そうだとしたらあれは何だったのかと考える。突然のことすぎて、映画館がなんとかと言っていたような気がするがその他の内容は覚えていなかった。

 蒸し暑さと涼しさが同居しているような風が正面から吹き抜ける。「まあ、どうでもいいか」と頭の中で自分に声をかけふっと鼻で笑う。


 八月一日

 次の日、葉月は昨日の出来事などすっかり忘れて一日中家でだらだらと過ごしていた。何もしなくとも時間は過ぎていく。気づいたら昼を過ぎ、夕方となり、いつの間にか夜になって、時計を見ると日付が変わっていた。今日一日、一体何をしていたのだろうと徒に過ぎていった二十四時間が戻ってきてくれないか天に願う。


 八月二日

 昼ごろ、葉月はエアコンの効いた涼しい部屋で、冷感素材の敷きパットが敷かれたベッドの上に寝転がっていた。昨日だらけた一日を送ったせいか、目が覚めたのはついさっきのことで、これから何かをしようという気も起こらない。さらには、これと言ってやるべきことも特に無く、とりあえず自分の部屋を出てダイニングルームに行き、ロールパンを一つかじってからまた同じ場所に戻ってきたのだった。

 ベッドの横の窓からは太陽の暖かみのあるオレンジ色の光と、空の青さをお裾分けしてくれているような水色の光が差し込み、部屋の中で散乱していた。とても心地の良い空間である。

 仰向けに寝転がったまま、腕を天井に伸ばして顔の正面でスマホを持つ。そこからは当たり前のように黒いコードが伸びていて、その先は葉月の耳へと繋がっていた。一昨日の出来事が今更ながら気になってネットで検索してみる。

 映画館という単語の他に、その映画館は川のそばにあるということを言っていたような気がして、その条件を満たす映画館を探してみる。川と言ったら、昔から何度もその名を聞いたことのある、この町を流れる一級河川しか思い当たるものがなかった。

 しかし、そのそばに映画館など存在してない。葉月もそんなところに行った記憶は持ち合わせていなかった。そもそも、一昨日の出来事は現実だったのか。寝すぎたために夢と現実の境が曖昧になっていたのかもしれないと思いながら、スマホを持ち上げていた腕の中程が痛くなったため腕をベッドに下ろす。そこでまた、イヤホンから流れる音楽がいきなり途切れた。

 葉月は目を大きく開き、勢い良く体を起こす。スマホを握る手には無意識のうちに力が入っていた。

「どうも、こんにちは。一昨日皆さんに呼びかけたのに全然映画館に来てくれなくて、私はちょっとだけ落ち込みました。ちゃんとこの声は届いているはずなんだけどな」

 不満そうな様子が声だけでも伝わってくる。イヤホンから知らない人の声が聞こえてくるという一昨日の意味不明な出来事はやはり現実だったのだと葉月は確信した。

「なので繰り返しにはなりますが、宣伝です。川沿いの大きな公園の近くの畑の真ん中に建つ映画館を、期間限定で再営業しています。建物の屋上には目立つように大きな赤い旗が置いてあるので、それを目印にしてください」

 葉月はメモアプリを立ち上げ、聞こえた内容を書き起こす。

「それでは皆様のご来場をお待ちしています。今度こそ、映画館で会いましょう。それではまた」

 言いたいことだけ言って、その声は聞こえなくなる。明らかに怪しい出来事なはずなのに、その可愛らしい弾んだ声のおかげだろうか、不思議と怖さは感じなかった。葉月の中ではそれよりも好奇心の方が上回る。

 川のそばの大きな公園。幼稚園の頃から中学校くらいまで遠足で何度も何度も行ったことがある緑地公園くらいしか思い浮かぶものがなかった。長いローラー滑り台と、角度が急なトンネル型の滑り台が特徴的な無駄に広いその公園には、バーベキューをするためのスペースや、テニスコート、野球グラウンド、バスケットゴールなんかもあった気がする。

 地図アプリの航空写真を使って公園の周りを観察してみる。住宅街の間に緑や茶色となっている田畑が広がるエリアがいくつかあった。それらを端から順に見ていくと、公園の東側、少し離れたところにある一番川に近い場所に位置する田んぼの真ん中に大きな建物が存在するのを発見した。

 これかもしれないと思って、地図を拡大する。四年前に撮影された写真に写っていたのはガラス張りの四角い建築物。おそらく二階建てくらいで、建物全体を囲むガラスは曇っており、ガラス張りと言っても近代的な美しさは持ち合わせておらず、新しさというよりは古びた印象を受ける佇まいだった。看板はなく、それが映画館なのかということはスマホの画面を通してでは分からない。

 葉月はベッドの上から、部屋の壁に掛けられた白い時計を見る。もうすぐ十三時になろうとしているところだ。窓の外には青空と、分厚くて白い雲が漂っているのが見える。

 葉月は立ち上がった。

 床に置きっぱなしになっていたショルダーバッグを拾い上げ、財布とスマホと家の鍵を入れて部屋を出る。一階に下り、玄関横に置いてあった鈴のついた自転車の鍵を手にしてドアを開けた。


 ペダルを勢い良く漕いでから、一旦足を動かすのをやめる。何もしなくてもスーっと前に進んでいく自転車と変わりゆく景色。夏の日差しを受けて、道沿いの家の前に止まっている車の色や、建物の外壁の色、ベランダに干されている洗濯物の色や草木や花の色など、生活を取り巻くささやかな色たちが鮮やかなコントラストをなしている。全てのものが視界にはっきり、くっきりと映る。特に黄色い小さなひまわりがいたるところで咲いているのが目についた。

 自転車のタイヤが回転する音が大きく聞こえる。蝉の声も四方八方から聞こえてくる。

 小学校の横の道を通ると、夏休みのプール開放に来ているのであろう少年達が楽しそうに声を上げながら走って行く様子が見えた。かすかに香る塩素のにおい。もうプールなんて何年も入っていないなと葉月は思う。その光景が異様に輝いて見えた。

 オレンジ色の蝶が目の前を横切っていく。額に汗がにじみ、半袖の白いTシャツから出た腕には紫外線が降り注ぐ。車がギリギリすれ違えるかすれ違えないかくらいの幅しかない踏切の方へとハンドルを切る。ちょうどカンカンと、電車が来ることを知らせる音が鳴り始めたので、ペダルを漕ぐ足にうんと力をいれて急いでそこを通り過ぎた。

 自転車を五分ほど漕ぎ県道を過ぎると、一気に建物が少なくなり視界が開けた。周囲は田んぼや畑だらけになり、かろうじて転々と建物が存在するという状態である。田畑の緑が美しく、空が広い。心も広く、軽くなるようだ。そんな車通りのほとんどない一本道を自転車で駆け抜ける。真っ直ぐに続く道は進んでいてとても心地が良い。

「やっぱり、夏が好きだな」

 八月生まれの葉月はそう思いながらペダルを漕いで進んで行く。ずっと座っているせいか、お尻が痛くなってきた。

 立ちこぎで坂を登ると目の前に再び大通りが現れる。トラックが多く通っていくその道を渡るため、葉月は自転車を止めた。照りつける太陽に目を細める。道の向こう側の左右に大きく広がる青空の下に四角い建物が見えた。その建物の上で赤い大きな旗が風になびいている。

「大正解」

 葉月は口を少し開いて微笑む。タイミングを見計らって信号のない横断歩道を渡り、坂を下る。加速する自転車と葉月の心。そしてそのまま畑と畑の間にある、トラクターが通った跡がいくつもついている細い道を、最大速力で通り過ぎていった。


 自転車を適当な位置に止め、カバンを肩から掛けてガラス張りの建物のドアの前に立つ。写真に映っていたよりもずいぶんと古びた様相の建物には看板も何も無い。たいぶ狭い駐車場らしきスペースにも車は一台も止まっていない。それどころか、畑から風に乗って流れてきたであろう枯れ草の塊がそこら辺に転がっていた。本当に営業しているのだろうか。

 葉月は見上げる。映画館の後ろには深い緑色をした木々が生い茂っていて、補色の赤がよく目立つ。疑いを持ちながら視線を正面に戻しドアに手を掛ける。ゆっくりドアを開けると、中から涼しい空気が葉月の方へと流れてきた。

 建物内のロビーはかなり広々としていて、外から見た印象とは異なりほどよく綺麗さが保たれている。葉月は少し進んで館内を見渡す。建物を覆う窓から入ってくる光のおかげで映画館という名に似つかわしくない明るい空間だった。 

 右を向くと映画を見る人達が待つための二から三人掛のソファや、テーブルと背もたれのない椅子のセットがいくつか配置されている。その奥の壁沿いにはカウンターのような形で長いテーブルが設置され、その前にも複数の椅子が置かれている。左を向くと、同じようなソファが四つと二階へ繋がる階段があった。

 そして顔を前に戻す。正面には「TICKET」と「FOOD&DRINK」と大きく書かれたカウンターがある。けれどもそこには誰もおらず、本来ポップコーンが入っているのであろうケースも空っぽだった。他の客も一人もいない。

 本当に営業しているのだろうか。葉月はもう一度そう考える。

 正面左手にはシアターへと繋がる通路らしきものがあり、その手前にある台のところ、普通の映画館であればチケットをもぎる場所にあたるところに人の頭のようなものが見えた。下を向いているようで、葉月のいる位置からは人っぽいということしか分からない。歩みを進め、近づいて行く。葉月が床を踏む音だけがロビーに響く。

 その音に気づいたのか、下を向いていた人が顔を上げた。

「あ、お客さん?」

 少し離れた位置から葉月に話かけるその声は、間違いなくイヤホンから聞こえてきた声と同じだった。声の持ち主が立ち上がり、こちらに近寄ってくる。

 薄い茶色のふわふわとした長い髪に、淡い色のワンピースを着た背の低い少女。

「本当に来てくれたんだ、嬉しい。私はナギです。よろしくね」

 容姿の幼さの反面、スラスラと滑らかに言葉を紡ぐ少女はどこか大人びている様子もあった。差し出された手を握る。

「よろしく」

 その手はひんやりと冷たかった。手を離してから、葉月は彼女に問いかける。

「ついさっきイヤホンからここの映画館の宣伝をする声が聞こえたから来てみたんだけど、あれはあなたがやったの?」

 右耳に指をかざしながら首を傾げる。

「うん、そうだよ」

 なんてことないという様子で答える。

「どうやって?」

「それは秘密」

 口の前で人差し指を立てて微笑む。

「それと、私のことはナギって呼んでよ。こうして出会ったのも一つの縁でしょ。よろしくね、葉月ちゃん」

 人気の無い古びた映画館と正体不明の少女。ありふれた退屈な日常から近いようで遠く離れた未知なる日々が、葉月を巻き込んで始まろうとしていた。


「八月末までは毎日やってるから、いつでも来て良いよ。もちろん無料。せっかくだから見てってよ」

 ナギに腕を引っ張られ、葉月は奥へと入っていく。左右に三ずつ並んだ計六つの部屋。その間の通路にはソファと観葉植物が置いてある。この映画館には一から六までの番号が割り振られた六つのスクリーンがあった。

「一番から六番まで、それぞれ別のものを常時上映中だから、好きな部屋に入ってね。入退室のタイミングも自由だから」

「別のものって、どんなもの?」

「それも秘密。入ってからのお楽しみ」

 ナギは手をひらひらと振って、通路を戻って行った。この映画館で上映されているものが邦画なのか洋画なのかすら分からない。

 葉月はとりあえず近い位置にあった一番の扉を開ける。すると暗い部屋の中から水の音が聞こえてきた。扉は部屋の後方にあって、ちょうど正面にスクリーンがある。ゆっくりと扉を閉め、座席の間の端の通路を下りて行く。

 部屋はこぢんまりとしていて、四連の赤い椅子が横に三つ、縦に五列並んでいるだけだった。総座席数は六十席。葉月が昨日行った映画館とは比べものにならない少なさだ。

 後ろから二列目の右端の方の席に腰を下ろし、ショルダーバッグを空いている横の席に置く。座る姿勢を正して正面を向くと、視界の左の方にもう一人別の誰かがいることに気づいた。ちょうど葉月の二列前の左端の席に座ってスクリーンを見上げている。葉月も同じようにスクリーンに視線を向けた。

 雨の日。色とりどりの傘をさした人々が行き交う交差点。街中のある一点を上空から映したような映像には、待てど暮らせど映画の主人公達がクローズアップされる様子はなく、ストーリーが展開している様子もない。

 整った音響設備からは本物以上にリアルな雨音が聞こえてくる。その音が葉月の脳内で響き渡る。目をつむると、本当に雨の中を傘も差さずに立ち尽くしているようなそんな気になった。降りしきる雨が頭の中を空っぽにしてくれる。雨音がだんだん大きくなるように感じる。目を閉じたまま、葉月はいつの間にか眠っていた。

 再び目を開けた時、前に座っていた人はもういなくなっていた。葉月は軽く伸びをして背筋を正す。カバンからスマホを取り出しこっそり時間を確認すると、ここに来てから二時間くらいが経過していた。けれども相変わらずスクリーンに映し出された映像は同じまま。葉月は不思議に思って、その映像を改めてぼんやり眺める。

 傘を差した人の流れや、車の流れには一つとして重なるものがない。同じ場面がリピートされているわけではなかった。一体何時間にわたる映像なのだろうか。ストーリーのある物語ではなく、百貨店の高い階の窓から地上を歩く人々を眺めているような、そんなライブ感のある映像。一体自分は何を見せられているのか、そこに映る景色に見覚えはないか、看板など場所が分かるような文字が無いかと目をこらすがその場所を特定することはできない。

 しばらくして、葉月はカバンを持って立ち上がった。そしてそのままスクリーンに背を向けて足下の灯りを頼りに幅の広い階段を上る。扉に手をかけて一度だけ振り返る。そして重い扉をゆっくりと開けた。

「どうだった?」

 部屋を出ると、すぐ目の前のソファにナギが座っていた。こちらをニコニコしながら見上げている。その両手にはアイスの袋が握られており、その片方を葉月の方へと差し出した。葉月はそれを受け取ってナギの隣に座る。

「気づいたら寝てた」

 正直に言うとナギは笑う。

「そっか、リラックスしてもらえたようで何より」

 葉月はアイスを袋から出す。ソーダ味の、コンビニで売っているようなよくある品だった。

「葉月ちゃんはこの辺に住んでるの?」

「うん、自転車で十分くらいのところに」

 ナギは興味津々という様子で、葉月の顔をのぞき込む。その姿をちらりと見てから、葉月は正面のドアへと視線を移しアイスを口に入れる。キーンとする冷たさが頭に染みる。

「ナギは、この映画館の所有者の孫か何か?」

 館内にナギ以外の従業員の姿は見当たらない。それに加えて、他に客もあまり入っていないようだった。再営業と言っていたが、おそらくこの映画館が復活したというわけではないのだろう。夏休みに暇を持て余した少女が両親か祖父母が所有するこの映画館を道楽のために開いたというのが妥当なところだ。 

 それにしても、どうやって私の耳に声を届けたのかは考えても依然として謎のままだった。秘密と言われてしまったのでは仕方が無かったが、きっと特殊な電波を使ってそういうことができるような装置でもあるのだろう。

「まあ、そんなところかな。夏休みで暇だから、毎日でも遊びに来てくれると嬉しい」

 床から浮いた足を揺らす。ワンピースの裾がひらひらと動いた。

「葉月ちゃんは今何歳?ちなみに私は十五歳」

 身長が低いからか、ナギはその年齢より幼く見えた。

「十八歳」

「私の三個上かあ。高校生?大学生?」

「今、大学一年だけど」

 ナギは葉月の反応など全く意に介する様子なく、自分の気になることをどんどんと質問しているようだった。それだけ他人に興味を持てるというのは少し羨ましいと葉月は感じる。

「大学ってどんなところなの?楽しい?」

 まだ始まったばかりの大学生活を振り返る。たったの四ヶ月間だったが、可も無く不可も無く、そつなくこなしてきたという印象しかなかった。こんな生活があと三年以上続くなんて、自分は一体何の為に大学に入ったのだろう。

「楽しいかは人によるかな」

 苦笑いしてアイスの角をかじる。

「葉月ちゃんは大学楽しくない?」

「うーん、まあまあ」

 サンダルに沿って変な形に日焼けをしてしまった自分の足を眺める。

「それならさ、葉月ちゃんが楽しいって思うことは何?例えば、趣味とかある?」

「趣味か、そうだな。自然の景色を見るのが好きかな」

 趣味と言えるかは微妙なラインだったが、葉月は綺麗な自然の景色を見ることが好きだった。例えば劇やダンスやアートのように人が作ったものに心を動かされることはあまりなかったが、人が全く手を加えていないような自然の風景はなんとなく美しいと思えた。何時間だって眺めていられるし、眺めていたいと思う。これはもしかしたら、人が嫌いだということの裏返しかもしれないが、それにしたって美しいものは美しい。

「自然か、良いよね。私も人が多い都会よりは田舎が好きなんだ。私が住んでるところがどちらかと言えば田舎だからっていうのもあるかもしれないけど。そうだ、その綺麗な景色の写真とかないの?」

 ナギが身を乗り出す。葉月はショルダーバッグのチャックを開けて、スマホを取り出した。アイスを食べながらスマホのカメラフォルダを開く。そのほとんどが風景写真で埋まっていた。もちろんどれも葉月が撮ったもので、同じ景色を同じアングルで何度も撮ることもあるためものすごい枚数となっている。その写真をナギに見せてみた。

「わあ、綺麗」

 感嘆の声を上げて、ナギは画面に張り付く。

「全部葉月ちゃんが撮ったの?あ、この夕焼けすごい良い色」

 ナギが指した写真は家の窓から撮ったもので、沈み掛けた太陽が放つオレンジ色の光が、青空に浮かぶ雲に差し込み、雲が淡いピンク色をしている光景を切り取ったものだった。

 葉月はその景色を見た日のことを思い出す。ちょうど去年の夏の終わりだった気がする。

 カメラでは自然の色をそのまま写すことができない。さらには視界に入る角度と、カメラで捉えられる角度には大きな差があるため、自然の広さと壮大な美しさを切り取ることは難しかった。撮った写真より、実物の方が美しいなんてことは珍しくない。美しい景色を美しいまま収めることができる技術を持っていたらどれだけ良いだろうか。

「本格的なカメラで写真を撮ったりはするの?」

 ナギがカメラを構えるジェスチャーをする。指で作ったフレームの中に葉月の顔を収め、右手の人差し指でシャッターを押すふりをした。

「カメラは持ってない。でも、良いカメラを買って一人旅をしながら巡り会った景色の写真を撮っていくとか楽しそうで良いかも」

 葉月の楽しそうな表情をナギは優しい微笑みで眺める。一昨日目にした葉月の表情とは大違いだった。

「自然の景色が好きなら、三番スクリーンの映像がおすすめだよ」

 通路の一番奥の閉じられた扉を指さす。

「葉月ちゃんにならきっと気に入ってもらえると思う」

 そこで、葉月は先ほどまで一番スクリーンに映し出されていた映像についてナギに尋ねてみる。

「ここで上映されているものは、映画って言えるの?」

 ナギが指している方向とは別の、正面に位置する数字の一が書かれた扉を指さす。

「私が思っていた映画とはずいぶん毛色が違っていて、ずっとライブカメラの映像を見ているような感じだったんだけど」

「一番の部屋は、街。この映画館の立派な音響設備も相まって、なかなか臨場感あったでしょ?」

 ナギは鼻を高くして言う。

「まあ意外と良かったよ」

 葉月は笑う。

「私、映画ってあんまり好きじゃなくてさ。なんか画面の中の世界と、座席にじっと座ってる自分の間に大きな溝があるような気がして、感情移入もできなくて冷めた目しか向けられなかったんだよね。昨日も友達に誘われて流行ってる映画を見に行ったんだけど、どう?って感想聞かれても良かったとしか言えなくて」

 するすると心の内にあった言葉が口から出てくる。普段なら他人にこんなことは言えないのに、不思議だなと喋りながら葉月は思う。

「その良かったって言葉もとりあえずの言葉で、本当はどこが良かったのかすら自分には分かっていなかったんだ。でも、ここの映像は画面の中の世界に自分が入っていけるような気がして良かったよ。まあほとんどの時間、私は夢の中だったけどね」

 冷房のひんやりとした風が、サンダル履きの足を通って上へ上がってくる。反応しづらいことをナギに話してしまっているなと自分でも思った。しかし、葉月の予想を裏切って、ナギは微笑んだままゆっくりと言葉を返す。

「きっと、これまで葉月ちゃんが見てきた映画は葉月ちゃんをターゲットとしてなかったんだと思う。どんなに世間から評価を受けているものでも、それが面白いと思えない人だっているからね。流行り物が合わない人が、その流行に乗り続けていても永遠に良いものに出会えることなんてないと思うんだ」

 葉月は自分の過去を振り返る。

「その通りだ」

 自分の持つ感覚が世間一般とはズレているということは自分が一番分かっている。もっと気の合う人がいたら良いのにと思うこともあったが、おそらく自身の性格上、そのような人に出会う機会は今後も訪れないだろう。

「生きづらいんだよね」

 ナギは葉月と目を合わせる。

「でも、ここの映像は良いなと思ってくれたんでしょ?それなら葉月ちゃんの心に響くものも、この世界にはちゃんと存在してるってこと。全部が全部ダメなわけじゃない。これは映画の話に限らずね」

 葉月はナギを眺める。アイスは少し溶け、べたべたした水色の液体が木の棒を伝って手に付着する。

 ナギにはちゃんと世界が見えていると思った。実年齢はナギの方が下だったが、なんとなく精神年齢は近いような、なんならナギの方が上を行っているような感じがした。

 葉月はソファに深く座り直す。アイスを握っていない方の手を体の後ろに置いて、上体を反らし、最後の一口を口にする。ナギの隣は居心地が良かった。

「私、ナギとは友達になれそうな気がするよ」

 残ったアイスの棒を袋の中にしまって、両手に持つ。

「私も、葉月ちゃんと友達になりたいって思ってたんだ」

 少しだけ、ナギの瞳が輝いたように見えた。

 葉月とナギが話をしていると、映画館のドアが開き誰かが入ってくる音が聞こえた。足音は一直線にこちらに向かってきている。二人は話を中断させて、音のする方向を見る。現れたのは背の高い黒髪の青年。

「あ、浩介君。今日も来てくれたんだね」

 その爽やかな青年に向かってナギが駆け寄って行く。その様子を葉月は椅子に座ったまま見ていると、その青年が葉月に笑顔を向けた。葉月は軽く頭を下げる。

「葉月ちゃん、この人も私が呼んだお客さんなんだ」

「はじめまして。君もナギの声を聞いてここに?」

 浩介が葉月に問う。

「はい、まあそうです」

 葉月の少し距離を置くような態度とは反対に、浩介は爽やかに笑う。

「そっか、よろしく」

 二人の微妙な溝を埋めるように、ナギが二人の間に立つ。

「浩介君は、昨日もここに来てくれたんだ。お客さん第一号だったんだよ」

 ナギは楽しそうに飛び跳ねる。葉月は見上げ、浩介の顔を見る。表情こそにこやかだったが、その奥が全く見えなかった。ずいぶんと愛想の良い人だなと思う。

「今日はどの部屋にする?」

「どこがオススメ?」

「うーん、今の時間帯なら四番が良いと思う」

 ナギの提案を受けて、一から三のシアターとは反対側の壁、その一番奥にある四と書かれた扉へと浩介は歩いて行った。葉月は浩介が部屋の扉を開け、中に入っていくのを見届けてからナギに話かける。

「さっき一番の部屋にいたときも先に誰かがいたみたいだったんだけど、何人この映画館に呼んだの?あまり客が多いとは言えないと思うんだけど」

 葉月の声が、広々としたロビーまで響いて聞こえる。ナギは人差し指と中指と薬指を立てて、前に出した。

「三人だよ」

 葉月は目を見開く。

「それだけ?てことは、私と、今四番に入っていった人と、一番の部屋で見た人だけってこと?」

「うん、あんまりたくさん呼んでも意味ないからね。それに、来てくれなかったら悲しいからさ」

 ナギは笑う。

「私達はここに来るっている確証があったわけ?」

「それは秘密」

「ナギは秘密が多いな」

「その方が、なんとなくワクワクしない?」

 ワクワクするなんて、秘密を生み出している本人が言う言葉ではないよなと葉月は思った。今日はどんなところなのだろうかと、好奇心から突発的に足を運んでみたが、明日もまた来ても良いかもしれない。

「そうだね。いつかその秘密を教えてもらえる日を楽しみにしてるよ」

「ということは、また来てくれるってことだよね」

 ナギのその食いつきを、葉月は少しだけ嬉しく思う。

「うん、明日も来るよ」

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