第44話 AKIRA
「潜入、ですか」
「そうだ」
薄暗いバーのカウンターで
スパイ防止法のない日本はスパイ天国である、とフィクションの小説などで言われて久しい。
実態としては、国内の外国勢力によるスパイ活動は公安警察や外事警察等の警察機関によって監視されているし、経済力と国力が斜陽を迎え日に日に国際社会での影響力を失っていく日本でスパイ活動を働くコストをメリットが上回らないため、一部のアジアの国々を除き日本国内でのスパイ活動は活発とはいえない。
そうした国際情勢下と乏しい予算節約の解決策として現地の汚れ仕事を外注されるのが、彼女のようなフリーの工作員である。
六本木にある裏通りの外国人の出入りが多いバーで、いつものように彼女は外注工作の担当者と会って話していた。
通信が傍受されるリスクを考えると、結局はこうして騒音のある場所で対面で話すのが早く会話の秘密も守れる。
現に、担当者は3回変わっていたが、彼女は過去の5年間、14回の工作活動で一度も当局に捕まったことがない。
ところが、今回持ち込まれた案件は、とびきりの厄介ごとだった。
「現地に乗り込んで?冗談じゃないわ」
彼女が得意とするのは、対象者と友好関係を築き、相手も知らないうちに情報を抜き取ることを得意とする、いわゆる対面型の社会的情報活動である。
それが現地に乗り込んで直接潜入となると、街中で特定の人物を相手にしたりするのとは桁違いにリスクが高まる。
「情報を知りたいだけならハッキングで十分でしょう?もう少しアナログな情報が欲しければ社員を買収したり脅迫するとか、もっと単純に衛星で入っていく車と出て行く車の数を数えるとか、いろいろ手段があるでしょうに」
彼女のような外国人、特に美人の女性は目立つ。
その容貌が対人面での工作に役立つことは多いが、一方で隠れたり逃亡したりする場合には不利に働く。
印象に残りやすい人間にとって潜入工作任務はリスクが大きすぎる。
「だいたい、失敗したら口を拭って無かったことにする連中のために、どうして体を張らないといけないの」
もしも工作が露見した場合には速やかに海外に逃亡する必要があるが、フリーの工作員は脱出手段も自前で用意しなければならない上に、そもそも島国からの脱出は陸で他国とつながっている欧州とは異なり脱出が難しい。
そして彼女が日本の当局に捕まったところで、政府と交渉して身柄を引き受けるような酔狂な真似をする機関はないことも承知している。
「今回の件はな、依頼者の連中も本腰だ。報酬は大きい」
「…どれぐらい?」
すでに任務を引き受ける気は失せていたが、好奇心から聞いてみた。
そもそも、彼女がこの危険な
この性癖ばかりは何度失敗を繰り返しても治らなかった。
「20万ユーロ。ケースによっては80万ユーロまで出す、と言っている」
相場の数倍の水準に、さすがに彼女は息を呑んだ。
「…本当に払われるの?払われない高額報酬に釣られて、バカな囮に仕立て上げられるのはごめんよ」
「それはわからん。ただ半額の10万ユーロは依頼を受ければ準備金として受け取れる」
「…そう」
「それに情報のバックアップもある。現地と建物内の地図、現地訪問者のスケジュール、内部協力者の連絡先、破壊活動用の爆薬、暗殺用拳銃…ありとあらゆるモノを用意する、と言っている」
「逃走ルートは?」
条件を聞いて彼女の好奇心と意思の天秤は、大きく傾き始めている。
男も、それを感じ取ったのか真剣味を増して回答した。
「…それも用意させよう」
「複数の手段が要るわ。現地からだけでなく、国外への脱出ルートも」
「用心深いな」
「まだあるわ。逮捕されたときの法的な保護を」
「…それは難しいと思う。が、交渉はしてみよう」
難しい顔をする男に、彼女は畳みかけた。
「どうせ、当日に動くのは私だけじゃないんでしょう?そっちの計画とルートも使わせて」
「…なぜそう思う?」
「かなり大きそうな計画だもの。私みたいなフリー1人に任せるほど、計画を立てる人間達も間が抜けてないでしょ」
男は美女の指摘に黙って肩をすくめた。
★ ★ ★ ★ ★
用心の足りない若い男について行きながら、それでもルイーズは警戒心を失っていなかった。
やがて男の案内で、一見すると駅の改札口のような開放感のある通路のような場所に出る。
「こちらから、処理施設の環状線に乗車できます。見学者パスを改札に当ててください」
「環状線ですって?」
「ええ。直径1キロ、全周で3キロを超える巨大処理施設ですからね。移動や輸送のために施設の縁に沿って全体を一蹴する環状線が走っているんです。元々は廃棄物や廃液を輸送するための貨物専用でしたが、今ではメンテ要員や見学者を運ぶための乗客線も併設されています」
「すごい設備ね」
事前情報の通りではあったが、実際に施設の規模を目にすると感嘆せざるを得ない。まして、これから施設の偵察と、できれば一部の破壊をする、という任務を帯びているのであるから。
「はい!去年、ようやくJRから分岐した線路が直に乗り入れできるようになりまして、東京湾で積み込まれた廃棄物を満載したコンテナやタンク車を環状線まで引き込みができるようになりました。
うちの社が東京湾の港湾施設にも出資して専用の自動ガントリー施設も構築したおかげで全自動処理でここまで送られてくるようになりました。
あ、僕はそこでコンテナの自動化処理の研究をしていた縁で、この会社に入社できたんです!ああ、すみません。自分の話ばかりしてしまって…」
「いいえ。大変興味深いお話です。新田さん、優秀でいらっしゃるんですね」
ルイーズが大げさに誉めてみせると、若い男は覿面に上気した。
「…そうして環状線の各駅にあたる部分の施設で廃棄部や廃液を種類やサイズで分類して一時処理施設に配分、もしくは分岐栓でコンベアやパイプに流して行くんです。あの傾斜の途中にある施設群ですね、あれらが処理施設です。そうして最終処理は中央コンクリートドームの内側にある施設で行われます。あれこそが我が社の心臓部です!」
「まるでSFみたいな景色ですね」
我が事のように胸を張る能天気な男へ、ルイーズはとびきりの笑顔で微笑んで見せた。
★ ★ ★ ★ ★
「まるで出来の悪いSFね」
男から事前提供された写真にはMCTBH社の誇る施設群も含まれている。
直径1キロに及ぶ配管とコンベアの中心のドーム内には「何でも分解して浄化する」
バカバカしいが、事実らしい。
その
「そうだな。ネット上では、衛星写真の形状からAKIRA、なんて呼ばれているそうだ。
男の解説に女は形の良い眉をしかめる。
「AKIRA?誰かの名前かしら?」
「君はあまり日本のサブカルチャーに詳しくないようだね。コミックのタイトルだよ」
「私、そういうコミック好きなナードとは付き合わない主義なの」
女は男を冷たく突き放した。
★ ★ ★ ★
間抜けた男の話を笑顔で聞き流しつつ、できるだけさり気なく視線を移動させながら、ルイーズはクレーター中心の標的を見つめた。
あのコンクリートの石棺ドームに納められた技術の秘密を手に入れた者が、今後の世界の覇権を握るだろう。
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