第36話 黒い死体


「ドクター、あと30分ほどで基地につきます」


 ゆさゆさと揺らされてフェルナンドは目を覚ました。


 眼鏡のズレたぼんやりとした視覚と、ターボプロップ機特有の鋭いプロペラ音が聴覚に戻って来る。


「だいぶお疲れのようですね。ドクター!」


 色の浅黒い若い軍人がプロペラ音に負けないよう大声で話しかけてくる。


「ああ、すまないね。昨日も機材の手配で徹夜でね…!」


 若者の迷惑な親切心に眼鏡をかけ直し、ややきまり悪さを隠すように負けずに大声で答えてやった。


 フェルナンド医師はしぱしぱと涙でかすむ眠い目を擦りつつ輸送機の小さな窓から眼下に広がる一面の緑の絨毯を眺めた。

 密林を切り裂くように山の上のそこここに広がる四角い緑はセイロン茶の畑だろう。

 あと2月もすれば収穫期のはずだ。

 目を凝らせば、紅茶畑で働く農民たちの姿が見える気がする。


 輸送機に乗り込んだ当初は永遠に続くように思えた密林もまばらになり、やがて水平線が見えてきた。


「着陸します。シートベルトを確認してください」


 中国製輸送機の硬いシートと同様にベルトも硬く、フェルナンドはしばし操作にまごついた。


 ★ ★ ★ ★ ★


 スリランカ首都の国立大学病院に勤務するフェルナンドが院長に呼び出しを受けたのは2日前のことだ。


 やや緊張して院長室に入室すると、来客用ソファーに座るよう示される。

 普通は立たされたままで一方的に短く通告をされるのが常であるから、思わぬ厚遇に何か悪い話かとフェルナンドは身構えた。


「君のロンドン留学時代の論文を読んだ。専門は確か病理だったね。伝染病の…」


「ええ、はい」


 裕福な一族の一員であるフェルナンドは支援を受けて留学先をイギリスに選んでいた。

 同じく別の私立病院で医師をしている妻もロンドンのインターン先で出会っている。


「この写真を、どう思うかね」


 院長が差しだしたのは、SNSの写真をスクリーンショットしたものを、さらに印刷したと思しき解像度の良くない白いA4の紙。

 写っているのは、白い砂浜に転々と横たわる人の姿だった。


「遺体でしょうか。タミル系に見えます」


 スリランカではイギリス統治政策に起因する多数派のシンハラ人と少数派のタミル人の間で内戦が長く続いた。

 ようやくにして内戦が治まった今も北部州や東部州では依然としてタミル人の勢力は強い。


 この写真はそうした内戦時の写真が流出したものかもしれない。

 ただ、優秀な医師であるフェルナンドは写真の遺体の肌の色に違和感を覚えた。


「…黒い、ですね。日焼けしているにしては黒すぎます…まさか!」


「その、まさかだよ。黒死病ペスト…少なくとも、その疑いがある」


「これは国内なんですね?どこですか?すぐに関係各所に連絡を取らないと手遅れになります!他に写真はないんですか!?」


 慌てて立ち上がろうとするフェルナンドを、院長はやんわりと止めた。


「待ちなさい。今のところ、証拠はこの写真が一枚だけ。その上SNS上からは倫理上の理由で消されている。高度な情報戦や単なる悪戯の可能性も否定できない」


「…しかし事実なら!」


「そう、事実なら大変な事態だ。全土ロックダウンになる。黒死病患者を出した国は国境が封鎖され、全ての飛行機は空港に留められる。港にある全ての荷物の輸出許可は取り消され我が国の紅茶産業は壊滅する」


 そこまで説明されて、フェルナンドは自分が呼ばれた理由を理解した。

 大統領や院長をはじめ、自分を含む多くのシンハラ系の上流階級の一族は多くの紅茶畑を資産として所有している。


 あやふやな情報を元に首都にも支部がある世界保健機関WHOなどが動き出し騒ぎ立てれば、その風評被害が及ぼす国家や私有財産への経済的損失は計り知れない。


「大統領は事態を憂慮されている。できれば秘密裏に現状を把握したい、と仰せだ。軍医と軍人を中心に調査チームを派遣する。君には専門家としてアドバイザーに加わってもらいたい」


 フェルナンドに断る権利はなかった。


 ★ ★ ★ ★


 北部の軍事基地に着陸後は、軍港から揚陸艦へと乗り換える。


 SNSの写真が投稿された漁村へは、整備されていない陸路を行くよりもインドとセイロン島の間のアダムス陸橋を抜けて海路から東岸へ抜けた方が早いと判断されたらしい。

 ヘリで行くという案もあったようだが、それでは十分な人数と装備を運搬できないということで却下された。

 空軍から海軍へと遅滞なく速やかに渡されるリレーのバトンになったフェルナンドは、上層部の危機意識と焦りを感じた。


「到着まで10時間、か」


 洋上では出来ることも限られる。

 フェルナンドは改めて写真について軍部がまとめて調査レポートを読みこんだ。


 調査によれば、写真が投稿されたのは2週間前の午後3時12分。

 インド系資本のSNSにアップされ、15分後に運営会社により消去された。

 運営会社にはアップした場所の情報履歴が残っていて、今回の漁村がその撮影場所と見なされている。

 スマホの契約所有者も村の一員と思われる。

 ただ、こうした僻村では個人所有でなくレンタルスマホを共同所有することも珍しくないので本当の撮影者は不明。


 漁村の親戚と連絡が取れない、と他の村の人間が地方の役所に訴えたものの賄賂を払えなかったため無視されて報告が遅れた。

 さらに上への報告でも何度も同じことが起きて報告はさらに遅れた。


 ようやく事態を知った地方政府は腰を上げたものの、当初は政府軍による生物兵器のテストが行われたと疑われたため道路封鎖するにとどめて、現在も碌に現地調査も行われていないとか。この点だけはありがたい。


 そして現在に至る。地方から政府への通報がこれだけ遅れたのも、タミル人が持つ中央政府への根強い不信感のためだろう。


「生物兵器。ねえ」


 レポートを読み終えてフェルナンドはため息をついた。


 こんな狭い島の中で同国人に対し生物兵器を使うわけがない。


 そう言い切れないだけの憎悪を、長い内戦はシンハラ人とタミル人の間に産んでしまった。


「波濤の統治者よ、分割して統治せよ、か」

(ルーラー・オブ・ザ・ウェーブ、ディバイド・アンド・ルール)


 船室から見える穏やかな夜のインド洋の波を眺めながら、フェルナンドは自分に四分の一だけ流れるイギリス人の血を微かに嫌悪した。

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