紅饅頭

もこ

寂しさの終てなむ国ぞ

 寂しさの終てる国がある。

 数日前、この茶屋に、初夏の風と共に運びこまれた噂は、都ではもう随分前に、一廻りも二廻りもしたらしい。途切れがちだった客足が、今ではゆるゆるとではあるものの、絶えることがないほどまでになっている。


 寂しさのない国を求めて、どこまで続くかも分からぬ、永い路を、独りで歩む旅人たちが増えるのは、茶屋の娘としては嬉しいけれど、一人の娘として云うならば、ただただ哀しいというより他ない。


「姉ちゃん、一杯頼むよ」


 紅の暖簾を少しだけ押し上げて、疲れた声が言った。店の外の縁台が、キシキシと小さく泣いて、人が座る気配がする。


「お疲れ様です」


 赤い盆に載せた、湯気の立つ茶と、紅白の饅頭を持っていくと、太く長い木の枝を握って、俯いていた旅人が、ぱっと顔を上げた。


「あぁ……ありがとう」


 血の気がなく青白いその顔は、まだ幼さが残っている。最近の旅人は、若者ばかりであるから、驚くことはもうないけれど。

 恋をして、愛を知り、家庭を抱える年頃だろうに、たった独りで旅をする彼らを、同情の混じった目で見てしまうのも、致し方ないだろう。


「貴方も、あの国に行くんですか」


 茶をゆっくり嚥下する旅人に尋ねると、彼は湯呑みを傾ける手をぴたりと止めた。

 暫く辺りに沈黙が漂った後、彼は掠れた声で、それを破った。


「……寂しさが終てるという、あの国のことか」


 虚ろな瞳が、茶屋の前の川を見つめる。


「何日も、何日も歩き続けているけれども、それらしい国など見かけない。あとどれほど歩けば、辿り着けるのだろうな」


 傷だらけの手の中で、湯気の消えた茶が、寂しい顔をぼんやりと映す。


「本当に、そんな国などあるのだろうか」


「ありますよ」


 あっさりと答えたのに驚いたらしく、旅人は目を見開いた。


「本当か?」


「あの国を探し求める方は、これまで何人もお見かけしましたし、見つからなかった暁には、帰り路でこちらに寄るとおっしゃっていました。しかし、未だ一人もそのような人はおりません。それは、あの国に着いたということではないでしょうか」


「……そうか」


 それっきり、旅人は黙り込んでしまった。そよそよと風が吹いて、店の横の柳が揺れる。川のほとりに咲いた曼珠沙華も、赤い体をゆるゆる揺らす。サラサラと川の流れる音だけが辺りに響いた。


ややあって、旅人は、紅饅頭を手に取り、頬張ると、決心したように立ち上がった。


「ご馳走様。お勘定、お願いするよ」


「かしこまりました」


支払いを済ませると、旅人は、汗をボロボロになった衣の袖で拭った。


「この川には、橋が掛かっているかい?」


娘は、盆に残された白の饅頭をちらりと見て、答える。


「いえ、舟が出ております。川に沿って真っ直ぐ行きますと、すぐに着くと思います」


「ありがとう。あと少しだけ、旅を続けてみるよ。あの川を渡れば、その国かもしれないし」


「そうですか」


「ああ、ありがとう」


「お気をつけて」


ぺこりと頭を下げ、彼の後ろ姿を見送る。木の杖が地面を突く音と、草履が地面を踏む音が、交互に鳴り、段々と小さくなっていって、やがて消えた。


「おーい、お姉ちゃん。一杯頼んでもいいかい?」


「はい。ただ今」


店に戻ると、娘は、縁台に座る右目のない男のための茶を淹れ、木箱から紅白の饅頭を一つずつ取り出し、赤い盆に載せた。




 寂しさの終てる国がある。

 全てを忘れ、幸せになれる国がある。


 彼岸と呼ばれるその国の国境には、大きな川が流れており、そのほとりには、小さな茶屋がある。

 その茶屋で出されるという紅白の饅頭は、人を殺めた者には、赤い方しか見えないという。





「……一体いつになったら戦はなくなるのかしら」


 三途の川のほとりで、一人の少女が呟いた。

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紅饅頭 もこ @A_mokomoko

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