39話 交渉
「だから、あんなに大掛かりな変形をしても疲れも何もないのね」
ガウリさんがふう、と息を吐いた。意を決したように、背筋を伸ばす。
「あなたは交渉するために、私達をここへ連れてきたんですね」
その言葉はあまりにも唐突に思えた。だけど、
「そうだ」
間髪入れずに、旦那さんは答えを返す。私の口は勝手に動いて、復唱した。
「交、渉?」
「ちょっと待て、まだ……」
割って入ろうとしたレオンを遮るように、ガウリさんは手で制して首を横に振る。
「リオ……いいの、大丈夫なはずよ。ひとまず纏めるべきだわ。学長、よろしいですね?」
頷く学長。レオンは不服そうだったけど、一先ず矛を収めた。不思議なのは、双方交渉というワードに対して疑問は持っていなそうなことだ。
「僕はこういう形以外で罪滅ぼしをしたいんだけど……正直、億分の一も相殺できるものじゃない。どういうことをしていいか、考えもつかないよ」
「多くは望まない……望んだことだけしてくれれば、後は余計なことだ」
「その、望むことってのは? 具体的に」
「まず、俺とカナをフラスコで無期限に匿うこと」
「えっ?」
逃げるんじゃ、ないの?
「……なんでお前が意外そうな顔をするんだ?」
「えっ、いや、わたしてっきりこの子を連れて二人で脱出するんだと……」
それを聞くなり、旦那さんは訳が分からないという表情になって、
「お前が人間の方の俺について訊いたのはなんだったんだ?」
「え?」ポカンと呆けた顔同士向かい合っていると、レオンがああと納得して捕捉に入る。
「マリ、ミコトがフラスコ内でいられるのか聞いたよな? それをわざわざ、この……ホムンクルスの方のミコトが、懇切丁寧に説明してくれただろ。それ聞いて、俺達はホムンクルスのニイちゃんがここに居座る気だって、予想はついたんだ。それで……ニイちゃんは、あー、俺達も、マリがそれを分かって堂々と聞いたもんだと思ってたんだが……」
「その時はただ、ミコトのことが心配で……」
「ゴルドシュミットといい、本当に度し難いな、お前たちは……考えろ、ここを出てどこに行く? 地上にこんな密閉空間はない。仮にあっても、人間の方の俺がそこに入るかも分からない。何より、そんな状態でカナの世話をするのは限界がある。……言ってなかったが、人間の方の俺は今回のことについて、一切関知していない。俺の存在も知らない」
そうまくしたてて、旦那さんは呆れた視線をわたしに向ける。レオンは肩をすくめると、
「ほらな。自分に不利になるような情報を出してくるだろ。そういうアピールなわけだ」
射貫くような視線を、旦那さんはレオンに浴びせる。だけどレオンは、捉えようのない笑みでそれをいなした。まだまだ余裕があるとでも言いたげに。
「わざわざ警備を遠ざけてるの。私達なんかあっという間に無力化できるのにね。でも、彼はそれを選ばなかった。そうできる力があるのに、そうしないのは理由があるからよ。……ここは出口が一つしかない鼠捕りだけど、出る必要がないなら最高の城だからね」
前半はわたしに、後半は旦那さんに確かめるように、ガウリさんは語った。
「俺の願いのもう一つは、カナの生活を保障することだ。単純に保護もそうだが、教育、成育その他身の回りの世話を含めた全てを要求する。これで俺の望みは全てだ」
「その二つ、だけ?」
「それだけだ。破格の条件だと思うが?」
「それはこちらの提示した条件との、すり合わせによるでしょうね」
ガウリさんの雰囲気が変わる。声のトーンはそのままなのに、後ろ姿からでも冷徹さ感じ取れた。代表の一人として、一歩の妥協も許さないという決意が滲んでいる。
カナやわたしと接している時の落差……これが、アカデミー創始者の一人としての顔なんだ。
「まず船内、船外問わず、全ての人間に対しての武力の行使、及びそれに準ずる行為の禁止。次に、許可のない渡航の禁止。これはカナさんも含みます。次に、アカデミーの方針その他一切へ干渉することの禁止。最後に、何らかの圧力でもってこれらの条件を変更することの禁止。以上の内、一つでも破られた場合は、要求の履行を拒否せざるを得ません」
「……なるほど、まあ、落としどころだろうな」
特に意に介した様子もなく、むしろ予想が当たったような、勝ち誇った余裕さえ漂わせて、旦那さんはガウリさんへの返答を始めた。
「俺は君臨する気も、統治する気もない。ただ在るだけでいい。俺達を、お前達の下らない争いに巻き込んでくれるな」
争い……ホムンクルスの実在の影響が、アカデミーだけに留まるはずがない。お前達って言うのは、この場合地球人類のことだろう。
「……学長、よろしいですか?」
学長が口を開こうとしたところへ、すっと旦那さんが口を挟む。
「同情は要らん。利害と損得で判断しろ」
「解ってるさ……ガウリ・ゴルドシュミット。アカデミー学長として僕はこの者に」
「待て」脈絡なく旦那さんが宣言を遮った。
「今度はなんだ!」
たびたびのことにレオンも苛立ちを隠さない。肩を貸している学長へ気遣う視線を送る。
「フェアじゃないだろう? 同意は全員分得られてない。蒸し返されるのは御免だからな」
『全員』――その言葉の意味するところを私が理解するより早く、旦那さんは立っていた場所から横にずれた。同じくして、それまで背にしていた壁が全面、舞台の緞帳のように上へと捲れ上がっていく。黒い緞帳が上がったそこに待ち受けていたのは、
「こいつとも話し合ってくれ」
カナが入っていた筒のすぐ後ろ、壁を一枚隔てたすぐそこに、最後の一人はいたのだ。
――シュヴァルツ・ゴルドシュミット。
ドイツ人の見本のような真面目で実直な人物として知られるその人は今、整えられていたであろう長い金髪を振り乱し、端正な顔の抜けるように白い肌を朱に染め上げて、合金で仕立てられた椅子に拘束され、もがいていた。
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