33話 灯されるぬくもり
「はっ……! はっ…………! はあっ……!」
苦しい。空気はまだ、十分あるはずなのに。……ううん、苦しいんじゃない。
――恐い。
すぐそこに宇宙が、いる。その実感はあまりにも強烈で……わたしの中にあったなけなしの対抗心は、塵みたいな物だったんだと理解させられた。
ぎゅう、とわたしは女の子を抱きしめる。
縋った。もう心のより所は、この動かない女の子しかなかった。
目を閉じて、震えながら、わたしは無限の地獄をやり過ごすことしかできない。
誰か、誰か。
「ミコト……!」
わたしの口から零れた言葉に、
「……マリ?」
答えた声は、
「ミコっ――「うおおおぉぉぉぉぉっ!」
生命を振り絞った叫びと途絶えた笛の音の残響にかき消えて、
「良くやった!」
次の瞬間には、称賛だけがこの場に轟いたのだった。
周囲を覆っていたベールが取りさられる。空気が大きくうねって、突風が顔を洗った。
目を開けると、部屋が元の形を取り戻している。
まるで、今のことが白昼夢だったみたいに。
だけど――
「えっ……?」
ほんの小さな振動。細く、華奢な感触。けれど、確かにわたしの腕はそれを感じた。
信じられなくて、顔を上げた先で、
「なんで……!?」
目が、合った。
薄く開けられた瞼の先の……開くはずのない瞼の先の……!
「生まれたのか……!」
身体に這っていた金属の蔦が、床に還った。
体を包んでいた絨毯を、背中を支えながら何かが丁寧に剥がすと、
「えっ、あっ」
その子はわたしの頬へ、その手を伸ばしてきた。形を確かめるように、輪郭を掌がなぞっていく。
わたしはどうしたらいいか分からなくて固まっていると、
「……っ! ごっ……ぐっ……ごぼっ!」
その子は急に苦しそうな顔をして、口から大量の水を吐き出し始めた。
「なっ……! おっ、おい! 手伝え!」
「てっ、手伝えって何を!? 背中さすればいい!?」
わたしと何かが泡を食っていると、その子は背中を丸めてとめどなく水を吐き続ける。
「ええい!」
焦れたような唸りを上げると、何かは吐き出される水を手で受けた。いや違う。掴んだ。
ゼリーのような、透明な腸のようなそれを、何かは思い切り女の子の口から引きずり出していく。床で軽く弾んで連なっていったそれは、尻尾を放り投げられると一瞬で床に広がった。
ふう、と息をつく音が二つ重なる。だけどこんどは、
「うっ……うっ、うう~うっ……あっ、あっ……ああ~~っ!!!」
火がついたようにその子が泣き出して、またてんやわんやだ。
「わっ、ちょっ……んぐぐ……!」
急に女の子が抱き着いてきて、後ろに倒れないように踏ん張った。まるで大きな
――あか、ちゃん?
抱きしめて背中をぽんぽん叩いてあげると、女の子もわたしの背中をぎゅっと抱きしめた。肩に頭が載って、身がすくむほど冷たい息がかかる。
「ひっ!? ~~っ! あ……あんた、拭くもの、ない? これじゃこごえちゃう……!」
「んん!? あぁ……!? ……こっ、これしかない!」
何かが逡巡してポケットを探りかけて、すぐさま決然と上着を脱ぎ始める。
「前は……」『前』という表現にそこはかとない抵抗を抱いたけど「まあ、私があっためるから、腕とか背中の露とってあげて」
何かは上着を綺麗に折ると、比較的柔らかそうな裾部分で女の子の体を丁寧に拭いた。
その間、わたしの背中に回った手やくっついた体はぶるぶると震え続けて……一時的にわたしが腕を離した時には、より一層強い力で抱きしめてきた。
「――!」
大方露を拭い去ったあたりで、何かが視線を上げる。その焦点は遠くを見透かすような感じで、わたしに向けられたものではなかった。
にわかに慌ただしさを帯びた何かは最後にざっともう一度体を拭き、上着を広げる。
「裾以外は乾いてるから……袖を通してやりたいんだが」
何かが、その子の二の腕に触れる。
途端わたしを抱きしめる腕にまた力が入った。
ひどく驚いた顔を、わたしは見た。一瞬目を見開いただけだけどそれは間違いなく、何かの感情をこれ以上ないほど表していた。
束の間何かは立ち尽くし、やがて口を結ぶ。そして、
「任せてもいいか?」
「――いいの?」
「お前がいいらしい。だから」
「……分かった。あんたのためじゃ、ないからね」
何かは答えることも無く、広げた上着を女の子の背中に持ってきた。
意を察して、わたしは一度手を離す。何かが上着をかけると、落ちないように抑え込む形でわたしはまた女の子を抱きしめた。ついでに膝立ちから何とかぺたんと座り直す。
「……じゃあ、任せる」
「……うん」
ぴしゃぴしゃ力無く音を立てながら、何かは容器の台座へ座り込む。伏し目がちで、何か思案しているようだった。
凍えそうな息遣いだけが、耳に届く。
途中で気づいて、わたしは抱きしめる手の位置を変えた。掌を心臓の裏、背骨に当ててみる。一番温かいと思ったから。するうち震えが幾分和らいで、少し安心した。
やがて、変化が訪れる。
「あー……はー……」
呼吸が穏やかになった。吹きかかっていた息にも、温もりが混じりだす。
それは、熱だった。命あるものが宿す熱だった。
「なんとか……なったかな」
たぶんでもそう実感すると、知らずの内に強張っていた体から無駄な力が抜けた。
そしてもう一つの実感。それを問うてみたい気持ちが押し寄せて、わたしの口を動かす。
「……蘇生したんじゃないのね。この子は今、生まれたのね……」
答えが返ってくることは期待していなかったけど、
「そうだ」
素っ気ないその言葉を、ああやっぱりそうなんだ、とわたしは素直に信じた。
頭の中じゃわけのわからない状況に巻き込まれているって解るんだけど……でも、でも今、こうしていることは間違いじゃないって……わたしは誰にだって、自分にだって、そう言える。そう――言えるのだ。奇妙だけれど……すごく、満ち足りていた。
けれど、どたばたで失念していたことを不意に気づいてしまって、そちらに目をやる。
「がっ、学長……!」
学長は戒めを解かれてはいつくばっていた。顔は見えない。けど、背中は上下している。
「失神してるだけだ。……まだ死なれては困る」
視線を伏せたまま、何かは興味なさげに言った。それきりまた、黙る。
気を揉む案件を認識した途端、空気が再び重苦さを増してきた。澱んだ沈黙が始まる。
……まだ、か。剣呑な一言に心がざわめ「あっ、ちょっ、髪食べないで、髪食べないで」
ラーメンを食べる練習はまだ早い。いや、髪ならスパゲティ?
そもそもこの子は何を食べるんだろう? 消化器官は出来上がってそうだけど……。
「……ふふっ」
よだれ塗れの髪を引っ張り出しつつそんなことを考えていたら、笑いが込み上げてきた。
「全然空気読まないんだから」
「……あーうー? あー?」
「うん、そうそう、その通り。そーねー」
お互い相手が何言ってるのかさっぱり解らないけど、一つ確実なのは……視線をずらす。
何かは依然、座ったまま動く気配がない。けど永遠にそうしているわけでも無いだろう。
わたしがどう考えようが何しようが――もはやなるようにしかならないってことだ。
だったら、気を楽にしていよう。
幸い、わたしは一人じゃない。この、見た目はわたしと同い年くらいの――頭二つ分は身長があるけど――大きな赤ちゃんがいるのだから。
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