19話・後編 見えざるとも、いなくとも ただ青く

 それきり、また機内は静かになった。一人一人がブランクさんの一言と、自分の覚悟を見つめながら、刻々と時間は過ぎていく。


 わたしは……まあ、一種諦めていたから……空港とエレベーターのレオンを思い返す心のゆとりがあったんだと思う。


 ゆるゆると流れていく時間を、背中を読みながら過ごす。所在なく座りなおす人、肩を揺すってみる人……そういえば、ミコ


 ――また寝てる!?


 ミコトは片肘を着いて、目を閉じていた。レオン以上にゆとりがある人間がいるなんて。

 暢気なのか大物なのか、見慣れた寝顔に、呆れながらも頼もしさすら覚えてしまう。


 ……ん? 閉じた瞼の下で、眼球が動いてる。これは夢を見ている時の身体の反応だ。それとも、起きて何か考えてるの……?


 わたしがちょっと腰を上げて、顔を近づけようとした時、

『……あー、時間だ。これより本船は錬金術アカデミーへ出発する』


 スピーカーから放送が流れると同時にミコトがぱっちり目を開けたから、わたしはどぎまぎしながら席に着いた。


「あれ、寝てた?」と能天気に聞いてくるミコトに「寝てた」と手短に返す。

『で、忘れもんはないか? ……ここで降りられる、賢いやつはいるか?』

 それに答える声はない。だけど、それぞれの背中はもう、『決めていた』。


『あーあ、今回もバカしかいねえ。……管制、発進シークエンスに移る。……バカ野郎諸君、ようこそ宇宙へ。歓迎する。シートベルトはしっかり締めときな』


 放送が途切れると、ほどなくして機体が動いた。エンジンでじゃなくて、たぶん土台そのものが移動している。蒸気機関車の機回しって、こんな感じだったのかもしれない。


 金属質な音がして移動が止まったかと思うと、今度は前に引き出されている感覚に変わった。横の小さい四角窓からドックの風景が見えて、それが間違いじゃないと分かる。


 次に小刻みな振動。巨大な何かがきしむ音。徐々に前へ進んでいくと、それが分厚い気密扉が開く音だったのだと察した。


 おそらく機体が完全にその扉を潜り抜けた時、またも移動が止まる。そしてまた、先ほどの振動と、きしむ音。後ろからだ。きっと扉が閉まったに違いない。


 ふと気がつくと、息をするのを忘れていた。緊張してるらしい。ミコトは……と、今は顔を見られたくないから、よそう。


 背中達は――息を殺して、やり過ごそうとしている。わたしにはそんなふうに思えた。

 レオンだってリラックスしているようで、そうでもない。だって、こういう時には気分を盛り上げて行くような言葉をかけてくれるのが、レオンだ。


 ふう、とため息が出た。心臓がうるさい。

 ……ああ違う。遅れて理解した。周りが静かになったのだ。シャトルの外はもう、真空。


 息が死んだ世界だ。


 振動が音もなく伝わってくる。


『外部口解放確認。リニアレール、延伸を確認。……機体浮上。カウントに入る』


 十、九、八、七

 十三階段じゃないけれど、


 六、五、四、三

 その瞬間が来るまでは、


 二、一

 死を、突きつけられていた。


 零。


 機体が滑らかに滑り出す。窓の景色から人工物が去って、暗黒に塗り替わった。

 発進は轟音も振動も伴わない。けど、わたし達はもう恐ろしい速度で動いている。


 軌道エレベーターの利点は、一つに地上から重力を振り切るだけの燃料を使わなくて済むこと。


 二つには、それに加えて格段に安全であること。


 そして三つ目に、宇宙船が出発する際に無条件で初速を得られることだ。その速度はおよそ時速千七百キロ。その源は、地球の自転だ。

 

 だけど、その速度を認識するすべはわたし達にない。暗黒の宇宙空間では、相対的にしか速度を認知できないからだ。


 今だって、出てきたばかりのエレベーターは千七百キロで追いかけてきている。けどもし後ろの風景が透けたなら、そんなにとんでもない速度には見えないはずだ。

 むしろシャトルは発進時の加速分で離れていっている。見かけ上は、その差分のスピードだけ。


 案外……なんだろう、こう……何の感慨もないって言うか。わたし、宇宙に何か期待してたのかな……。残念になるような、正体のあるワクワクもなかったはずなんだけど……。


『馬鹿野郎諸君、本機は地球に向かって絶賛墜落中だ』

 突然の告白に、機内がどよめく。


『まあ、ステーションから十分な距離が取れ次第、エンジンで加速すりゃ問題ないがな』

 悪い冗談。とはいえ、冗談で済んでほっとした空気が漂う。


『ま、なんだ。その前にやることがある。間違い探しだ。今から何かが変わるから、探してみな。あ、シートベルトはしたままだぞ』


 いまいち意図の分からない放送だったけど、皆困惑しつつも言われたとおりに――シートベルトしたままで席から立てないから――視線をそこかしこに向ける。


 と、そんなことをしなくとも、明らかな変化がわたし達に現れ始めた。それは目でなく、耳でなく、全身で感じられる。


「ねえマリ。傾いてるよね?」

 だんだん隣から『上』になりつつあるミコトが、能天気に訪ねてくる。周りからは小さい悲鳴とか驚きの声がちょこちょこ湧いてきていた。


 するうち傾きは増して、さっきまで左だった方向が完全に『下』に変わる。わたしはそれに反発して、顔だけでも上を向いていると、


「わあ…………」ミコトが恍惚の表情を浮かべた。

 え、わたし? と一瞬ドキッとしてしまったけど、その瞳はわたしを映していないことに気づく。じゃあ、何を……。

――!

 ミコトのヘルメットのバイザーに反射したそれを求めて、わたしはミコトの視線を辿る。


 窓の外、真空を挟んで――地球が、青く、蒼く、碧く、輝いていた。

 

 この暗黒の只中で、誇らしげに浮かんでいた。

『あー諸君、何度でも言おう。お前らは大馬鹿だ。なんであんないい所から出ていくんだ?』


「でもよ、爺さん。馬鹿になった奴だけだぜ。これを見られるのは」

 互いに聞こえてはいないはずだけど、レオンは問いに答えた。


 ――そうだ、きっとそれが答えの一つなんだ。


 神はいなかったなんて、きっとどうでもよかったはずだ。

 ただ『地球は青かった』それだけだったんじゃないだろうか。


 地球は、自転の速さでわたし達を投げだしたんじゃない。


 背中を押してくれたんだって、今は、今だけは、そう思いたかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る