9話 『銃 命』

「大丈夫?」

 自然と、言葉が出ていた。


「うん」薄く、爽やかに笑んで、そいつは答えた。

 そいつが途轍もなく頑張ったことは、誰が見ても明らかだった。

 

 けど、その頑張りを労える言葉は、きっと誰も持っていなくて……。

 わたしはさっきまで考えてたことがたぶんとんでもなく的外れで、失礼なことだったんだと思って無性に言葉を探したけれど、

「遅くなって、ごめん」

 飲み込んで、心でこだまさせる資格しかなかった。


「それはいいから、その、向うに……あそこのベンチに座ろ?」そいつに日本語で言って、レオンには英語で「とりあえず、あっちのベンチに座りませんか?」

 

 提案を「その方がいいな」とレオンは聞き入れる。

「カタヲ、カシマショウカ?」


「大丈夫、です」今に倒れるか知れないのにレオンの申し出を拒否したそいつは、わたしが指さしたベンチ目指して、またゆっくりと歩き出す。


 慌ててレオンはそいつの左斜め前について、目的地までのルートとそいつを、眉を心配そうにハの字にしつつ交互に確認する。

 わたしは一瞬考えて、右斜め後ろでそいつのペースに合わせてゆっくり歩くことにした。身長差はあったけど、一応、倒れた時に支えられるかもしれないと思ったから。


 わたしが百四十くらいで、比較するとたぶん、そいつは百六十後半くらいだと思った。レオンはずば抜けてて、百八十超えてる。

 

 さして距離もないのに、そいつが座るまでわたし達はハラハラし通しだった。ストンとベンチに腰掛けてそいつが一息ついた時は、こっちもため息が出たくらい。

 

 一、二分もない間のことなのにどっと疲れが押し寄せてきたけど、それ以上に疲労困憊してるやつの前だと、なにも言えない。言う気もないけど。

 

 ややあって、レオンがそいつの隣に腰掛けた。喋りかけることはせずに、見守ってる。

 突っ立ったまましばらくそれを眺めていたわたしも、他にすることが見つからないから座ることにした。レオンがベンチの端に座っちゃったから、そいつを挟む形になる。

 

 無言の時間。

 

 そいつの息遣いだけが、周りの雑音より何より、はっきりと耳に届いた。時折、顎の先から、短めに揃えられた髪から、汗が雫になって床に落ちていく。

 

 やがて荒い呼吸も整って、多少落ち着いてきたころ合いで、レオンが問う。

「アー、エイゴハハナセマスヨネ?」


「は、い……あー、イエス」

 安心したようにレオンが頷いた。ゆったりとした聞きやすいスピードで、質問する。


「あー、色々聞きたいことはあるけど……そうだな、ゆっくり、慌てなくていいからこれだけ確認させてほしい。君の名前は」


 まだ喋るのも辛そうで、そいつは少し間を置いてから口を開いた。

「タネガシマ、ミコトです」


 ……珍しい苗字だ。レオンが紙を見てまた頷いたので、わたしは自然と目が向いてそれを覗きに行ってしまった。


「おいおい」

 レオンが書類を手で隠す。本気で咎める風ではなかったけどわたしは軽率さを反省した。


「あ、いや、ちょっと待った。マリ、この……名前は、合ってるよな? カンジの方」

 手をずらして見えたその二文字が姓と名だと、わたしは一瞬分からなかった。


「え……? あ、ああ。そうか。えっと……あなたの名字の漢字を答えてほしいんだけど」

「名字? タネガシマの方? ……『銃』だよ」


「名前は?」

「『命』で、ミコト」


 わたしはレオンに向かって頷いた。「ねえ」二人して、ミコトへ目を向ける。キラキラと輝く瞳がわたし達を見ていた。


「君は、なんていうの?」


「わたし?」心の準備ができていなかったせいで、なんとなく気恥ずかしくてどきどきした。なんとなく、頬も少し熱い。ただ名前を言うだけなんだけど。


「わたしは、八榊・磨理・ロッソ。磨理が名前で、八榊とロッソが名字ね」

「よろしくね、マリ」


……呼び捨て!?


いや、うん、『八榊さん』か『ロッソさん』で迷わせるこの名前がいけないのだ。ナチュラルに、迷ったそぶりも一切なかったけどね!


「ねえ、マリ。友達になってくれる?」

 ……はっ!?

 いやいやいやいやいやいや、展開が早い! 展開が早すぎるでしょ!?

 何なの!? 何なのこいつ!? 何なのこいつ!?

 

 正面切っての奇襲に、わたしの頭はそれはそれは大混乱をきたした。

 え、え、え、えっと、ことわ、う、ううん、断る理由はないし、で、でもそういうのは、

「そういうのは、お互いのことをもっとよく知ってからでっ!」

 気がついたら、歌舞伎の浮世絵みたいに両手を前に出してた。


「そっか、うん、分かった」

 ミコトは「困らせてごめん」とつけ加える。わたしは手を下ろした。


 やめてよね。わたしは悪くないんだから。

 そんな寂しそうに笑われたら、気が咎めるじゃない。……なんでだろ。

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