フラスコの君へ

絹屋 蚕

序章 黄金の夜明け

1話 老人と海

 二十二世紀初頭。人類は地球に一本の樹を植えた。

 空に伸び、天を突き、宇宙へ届いたその樹は、


――軌道エレベーター


 未だ知られぬ領域への野心、あるいは新天地への希望、そして来るべき地球資源枯渇への焦燥。潤沢な養分で、樹は急激に育った。


 どうあれ、人類は地球外へ枝葉を伸ばす足がかりを造り上げたのだ。

 人類の科学は、新たな時代の扉を開こうとしていた――。


 その軌道エレベーター完成から二年、各国首脳によるサミットは二十一世紀と変わらず、地上で催されていた。

 

 思惑絡み、澱重なってコールタールの溜まりと化した議場。そこで不意に、扉が開かれる。


「おお……ミスターゴルドシュミット……!」

 

 現れたのは、たった一人の老人だった。思いもかけず、合衆国大統領が立ち上がる。

 

 場がざわついた。だが、老人は少なくとも不審な人物ではなかった。その場に、老人の素性を知らぬ者はなかったからだ。


「やぁ……皆さん、お揃いで」


 ゴルドシュミットと呼ばれた老人は力の無いなりに明るくあいさつし、かつては百九十センチの偉丈夫だったことを忘れさせる腰の曲がった体を、震える手で握った杖で支えながらよたよたと前へ歩み出る。


 白髪は伸びるがまま、蓄えられた真っ白な顎鬚が揺れた。魔法使いみたいだと、誰かが小声でつぶやく。


「ははぁ、皆さんその顔は……私をぉ、死んだと思っとりましたなぁ?」


 はははは、と大笑する老人とは裏腹に、場は水を打ったように静まり返っている。

 

 老人は世界有数の大企業であるゴルドシュミット社の、『現』社長であった。ただ、この四年ほどの間は、表舞台に一切顔を出さず、年齢もあって死亡説が流れていた。肩書はもう名目上のもので、内部で椅子を争っているのだとも。


 世襲三代目の彼だったが、その手腕とカリスマは『ゴルドシュミットの四代目は何をやっても傾けたと言われる』と一種揶揄されるほどの傑物だった。だが、彼は婚姻関係を発表しておらず、情報機関の調査でも次代の血縁は確認されていない。


 そんな人物が、何の目的か議場に突然現れた。


「最近はぁ、暖かいところでのんびりしてましてなぁ。いやぁ体を動かすのもぉ億劫でぇ」


「ミスター」鋭く言葉を放ったのは立ち上がったアメリカ大統領だった。


「まさか、近況報告をしに「不躾でぇ申し訳ないんですがねぇ」


 老人は自分のペースで話した。大統領は困惑と苛立ちを多少顔に出す。


「今日はぁ、皆さんにぃい、詫びをぉ入れに来たんです」


 老人は、すっと杖を上げた。全員の視線が一端杖の先に集まって、やがてそれが指す先へと移る。今の今まで資料を映していたプロジェクターが、一面に紺碧を映していた。


――海だ。

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