負けられない戦い

蒼之海

負けられない戦い

 陽がようやく昇り始めた朝の五時。

 眠気覚ましの無糖缶コーヒーを飲みながら、俺は車を走らせて都心から北へと向かっている。

 車のトランクには着替えと、今日の戦いのアイテムとなるゴルフクラブ。


 ——今日こそは、勝ちたい。


 そんな想いを胸に秘め、ETCゲートをくぐり抜けた。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 最初にゴルフクラブを握ったのは、小学生の頃。親父がよく連れて行ってくれた「ゴルフ練習場」での「打ちっぱなし」がきっかけだった。親父のクラブを借りて、遊び感覚で小さな球を遠くに飛ばす。ただそれだけの事なのに面白かった。


 中学に進み思春期を迎えると、親父とゴルフをする事もなくなった。

 親の脛をかじりそれなりの学生生活を満喫し終え、社会人となった俺は、再びゴルフと巡り合う。そのきっかけなんて些細な事。ゴルフは社会人にとって社交的なスキルだからだ。

 少しかじった程度にゴルフ経験がある事を知った上司から強く勧められ、適当なクラブセットを購入して、年に数回の社内営業に顔を出す羽目となった。


 それからしばらくは変わらぬ頻度で、もはや惰性で続けていたゴルフだったが、運動不足と不摂生が仇となり、年々サイズがキツくなるズボンが無情にも現実を突きつけてくる。


 このままじゃ、まずい。


 かといって、いきなり何か新しい事を始めるのにも、勇気がいる。

 そこで白羽の矢が刺さったのが、ゴルフだ。道具などの土台は、揃っている。


 後はやる気だけ。

 

 こうして俺は五年前から、ゴルフを本格的な趣味にしようと考え、埃まみれのクラブを、新たな決意で握り直したのだ。


 本格的やろうと決めれば、とことん夢中になれるのが俺の美徳でもあり、同時にちょっとした欠点でもある。年々最新技術が導入され進化を遂げるゴルフクラブと比べると、十年前に買った俺のゴルフクラブは、もはやオーパーツ並の過去の遺産。

 最新のゴルフクラブに散財し、子供のように夢中になって練習すれば、そこそこの身体能力を持ち合わせていた俺は、メキメキと腕を上げていった。

 そして折角ならもうワンステップ上を目指したいと、都心から一時間ほどでアクセスも良い、T県のゴルフ場の会員メンバーになる事を考えた。


 それにはまず、ゴルフ場の会員券を購入しなければならない。 


 まだ俺が社会人にすらなっていないバブル期には、本来の目的とは大きく掛け離れた『投資』という波に巻き込まれ、安いところでもウン百万円とした会員券も、今ではすっかり値が下がり、適正価格に落ち着いている。

 それでも一介のサラリーマンの俺にとっては、賞与一回分以上の値段。決して安い買い物ではない。

 そこで俺は妙案を思いついた。妻をゴルファーにしてしまう計画だ。「一緒にやろう」と誘いゴルフ場に連れ出すと、妻もゴルフの魅力にそこそこ取り憑かれ、程なくして会員券購入は承諾された。


 ゴルフ場の会員メンバーになるメリットは二つある。

 まず一つ目は、その日支払うプレーフィー料金が安くなる事だ。

 もちろん会員券も購入するし年会費というランニングコストも掛かるのだが、会員メンバーになるとプレー無料券などを貰えたりと、色々な特典も付属して、長い目で見れば損はしない。


 そして二つ目。

 これこそが最大のメリットと言っても過言ではない。

 

 それは、公式なハンデキャップを取得できる事である。


 このハンデキャップは、個々の実力に応じて付与されるものであり、これがあるからこそ、若い人からお年寄りまで年齢に関係なく公平に競える事が、数あるゴルフの魅力の一つ。


 18ホールのプレー終了後、ハンデキャップの数字がそのまま自分の累計打数から引かれて計算される。

 例えば「ハンデキャップ18」のプレーヤーと「ハンデキャップ3」のプレーヤーが競った場合、スタートの時点から15打差のハンデがつく事になる。

 ゴルフとは、いかにして打つ回数を少なくするかを競うスポーツ。

 すなわちハンデキャップが少ないほど、上手いゴルファーの証なのだ。


 自分のレベルをまるで数値化したようにも捉えられるハンデキャップは、各ゴルフ場の協議委員などが、毎年申告するスコアを元に公平に決めている。そしてこのハンデキャップを取得していると、アマチュアの公式大会に参加する事も可能になる。もしそこで勝ち進み全国大会で優勝すれば、プロがしのぎを削る大会へアマチュア枠として参加する事も夢じゃない。


 もちろん、並大抵の事ではない。だけど、その「道」があるのとないのでは大きく違う。


 そんな大きな大会に出れる実力も度胸も俺にはまだないけれど、会員メンバーになってハンデキャップを取得すれば、毎月「月例会」と言って、そのゴルフ場内で順位を競う大会に出場する資格を得る事ができる。

 せめて、そこで一位を取りたい。会員メンバーになって三年目。俺は今年からその「月例会」に参加する事を決意したのだ。


 練習を積みコースにも慣れ、そこそこ自信もつけた俺は衝撃的な「初参戦初優勝」を本気で目指した。だが結果はまさかの最下位。これには流石に凹んだが、自分なりに改善点は分析できた。


 まず、今まで友達や会社の人間と遊びでやってきたゴルフと同列に考えてはいけない。

「月例会」はれっきとした競技。緊張感がまるで違うのだ。初戦の俺は、その張り詰めた空気に完全に飲み込まれてしまった。

 それに加えて、みんなゴルフが上手い。上手すぎる。70歳を超えたおじいちゃんゴルファーに、ハンデキャップを抜きにしても、全然勝てないのだ。


 飛距離は勝てる。当たれば飛ぶ、人並み以上に。

 だけど俺のショットは、まるで照準が心許ない大砲に似ている。一度照準が狂い出すと、ボールがどこに飛ぶか分からない。一方おじいちゃんゴルファーは「飛ばない」が「曲がらない」。きっちり狙ったところにボールを運ぶ。まさに「老練」という言葉がピッタリ似合う。


 記念すべき初戦は華々しく最下位デビューを成し遂げて、違った意味で名前を覚えられた俺は、その後も二度参戦し、結果は両方ともブービー賞。


 腰の曲がったおじいちゃんゴルファーにさっぱり勝てない。

 勝てないのはゴルフクラブアイテムのせいだと考え、クラブを内緒で買い替えて、妻に怒られたりと苦い事だらけだ。


 ただ、この「月例会」に参加して違った楽しみを見い出した。


 それは、ゴルフをしなければ決して交わることがなかった、新たな人との出会い。


 ゴルフは基本、四人一組でプレーする。初めて出会う人と、約六時間ほど行動を共にするのだ。もちろん途中で挟む昼食も一緒。会員の中では若い部類に入る俺にも、一プレイヤーとして接っしてくれて、基本「さん」付けで呼ばれる。……ごく稀に、例外な方もいらっしゃいますが。


 前回の「月例会」で一緒になった三人は、全員が気さくな人で、プレー中も冗談を飛ばしあい、初戦に経験した緊張感はまったくと言っていいほど感じられなかった。


「——さんはまだ若いから、あっという間に俺たちなんか抜かされちゃうなぁ」


 昼食時、三人の内の一人がそう声を掛けてきた。


「そんな事ないですよ。俺なんてまだまだです。……ところで御三方とも仲が良さそうですが、いつも三人で同じ組にエントリーしているのですか?」


 俺の素朴な質問に一人が答えた。


「実はもう一人、いたんだけどね。いっつも四人で「月例会」にエントリーしていたんだけど、ソイツが去年、急死しちゃってね」

「……そうだったんですか。すみません、なんか……」

「いや気にしないで。びっくりしたよなぁ。アイツが死んだって連絡受けた時は」

「ホントホント! 夜中に突然電話が掛かってきてさ……」


 三人は亡き友のことを、少し笑いながら話し始めた。

 もう、笑い話にできるくらいに、傷は癒えているのだろう。そして笑って話してあげるのが、亡き友にとって一番喜ぶ事なのだと俺は感じた。この賑やかなメンバーの友人なのだ。きっとその亡くなった方も、気さくで楽しい人物だったに違いない。


 絶える事なく談笑が続く中。


 俺は数年前に死んだ、親父の事を思い出していた。

 俺に初めてゴルフを教えてくれた親父は、世間から見ても、よい父親とは程遠かった。

 すぐ手をあげる。容赦なく殴る。子供心に親父の言動に怯えていたのを、今でも覚えている。

 体が成長し、親父の体躯を上回れば流石に手を上げる事はなくなったが、俺ははっきり言って親父が嫌いだった。

 唯一尊敬できるところがあるとすれば、家族四人の大黒柱として、平凡だが息子二人を成人まで金銭的に支えた事くらいだろうか。

 俺は社会人になってある程度金が貯まると、逃げるように家を飛び出た。その頃親父が独立して会社を興すと言っていたが、俺にはなんの興味も湧かなかった。


 それから数年経って、急に母親から電話があった。


「お父さんにね……肺ガンが見つかったの」


 その後入退院を繰り返し、二度の手術をした結果、告げられた余命宣告。

 正直、何の感情も湧かなかった。ただ残される母親の事は心から心配した。


 そんな中、いよいよ自分の死期を悟った親父から告げられた衝撃の事実。借金まみれの現状だ。負けず嫌いで頑固な親父が、ようやく自分の台所事情を話し出したのだ。

 余命宣告よりも衝撃的だった。母親も全然知らなかったらしい。


「……何でもっと早く言わなかったんだよ!」


 親父から手渡された書類の数々。震える手で計算して、驚愕した。幸いにも自宅のローンは払い終わっていたが、その価値より一千万以上も上回る借金の額。


 このままだと、無一文で母親が放り出される。


 俺は奔走した。


 現金はないけど、持ち家がある。実家が売られるのは仕方ないとしても、どうにか母親に老後の資金を残せないものか。

 仕事の合間に色々調べ、電話を掛け、人に会い話をきく毎日。

 そしてついに見つけた、専門の弁護士の存在。

 俺は一縷の望みに賭け話を聞きに行くと、その弁護士はこう言った。


「大丈夫。まだ父親が死んでないってのが、よかったよ。じゃの道はへびって言ってね、あとは任せてくれるかな?」


 要はその弁護士の描いた絵は、父親が生きている間に家を売却し、まずは現金化する。世帯主である親父が死んでしまった後だと、遺産相続をしないと家は売却できない。だがそれだと、借金まで一緒にまとわりついてくる。

 資産も借金も全てまとめて「遺産」なのだから。


 なのでまず資産を現金化する事が急務だった。その後の詳しいやり方は伏せるが、法律を盾にして借金の減額を画策する。法律に疎い俺ですら、ギリギリのやり方だと思ったくらいだ。


 ただ、それには下準備が必要だ。母親は親父の介護で付きっきりだ。兄弟は地方で暮らしている。実質動けるのは俺一人だった。有給と休日を使い、弁護士事務所や方々で打ち合わせをする。


 失敗は許されない、一人きりの負けられない戦い。まさに孤軍奮闘。


 そんな生活が三ヶ月も続くと、自宅療養していた親父の容体が急変し、いよいよ近場の病院に搬送された。


 母親から連絡をもらい、病室に行く前に医師から話しを聞くと「持ってあと二、三日です」との宣告を受けた。俺の方はつい先日下準備は終わっていたので、率直に「間に合ってよかった」と思っただけ。


 病室に入ると、母親はベッドの側に腰掛けて、痩せ細った親父をじっと見つめていた。


「母さん……どうにか間に合ったよ。親父が死んだあと、ちょっと面倒だけど、どうにか少しはお金、残せそうだよ」

「お父さんはまだ生きているんだから、そんな話しないで」


 正直カチンときた。


 誰のためにここまでやっているんだ!

 誰のせいでこんなことになってるんだと思う?


「……いい加減にしろよ! なんで俺がこんな奴の借金のために、会社を休んで休日まで使って何ヶ月も苦労しなきゃなんねぇんだよ!」


 親父の側にいた看護師が、俺の怒鳴り声でビクリと肩を震わせた。

 溜め込んでいた感情は、堰を切ったように止まらなかった。


「少しでも母さんに、現金を残すためだろうが! 少しは俺の苦労も考えてくれよ!」


 親父の手を握ったままだ母親は何も言わなかった。その代わり。


「……ぉい」


 明日死んでもおかしくなく、酸素呼吸器をつけ声を出す事すら、もはや不可能と思えた親父から声が届いた。それもかなり大きな声だった。隣の看護師の驚いた表情が今でも忘れられない。


 結局それが、俺が聞いた親父の最後の言葉になった。


 医師の言う通り、二日後に親父はこの世を去り、その後一年程掛かったが、母親に数百万の現金を残す事に成功した。

 アパート暮らしになってしまったが、遺族年金と合わせれば、贅沢しなければ残りの余生を暮らしていけると思う。その後、俺がマンションを購入したときに「一緒に住む?」と声を掛けたが母親はそれを断った。ペット飼育可のアパートで動物と暮らすのが好きだと、そう言った。




「——さん。よかったら次も、俺らの組にエントリーしてよ。またご一緒しましょう」


 一人の声で俺は記憶の底から引き戻された。


「もちろんです。空きがあったらすぐにエントリーしますね」


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 四度目となる挑戦に向けて高速を走らせながら、前回のラウンドを思い出していると、ナビから音声が聞こえてきた。最寄りの高速出口を知らせる無機質な声だ。

 前回の三人とは、あえて別の組にエントリーした。またいつか一緒にラウンドする日は来るだろう。


 今日一緒にラウンドする人は、どんな人なんだろう。


 高速を乗る前に思っていた勝利への執着よりも、今日の出会いのほうに意識が寄せられた。


 ———そしてもし親父が生きていたら、お互いのわだかまりが解けて、今頃は一緒にゴルフをしていたのだろうか。


 毎回一緒にラウンドをする人たちは、死んだ親父と同じ年代か、それ以上の人たちだ。


 ゴルフをしていなければ、決して接点がなかった人たちとの繋がり。


 その人たちと接する事で、記憶の底に押しやっていた親父との数少ない楽しい思い出が蘇る。


 そういえば、全然墓参りにも行ってないなぁ。今年の盆には、母さんを連れて墓参りにでも行こうかな。


 ……でもまずは今日の「月例会」、絶対勝ちたいっ!


 

 ———やっぱり俺も、親父の負けず嫌いなところは受け継いでいるらしい。

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