明滅する日々

武蔵山水

明滅する日々

  一


 竹藤平嗣は実家たる東京の外れより日も落ちんとする折に電車に乗り新宿にて降車した。その胸中とはなんとも小っ恥ずかしいもので、さて僕がこれより散歩に行くのは立派な小説を書くためである、なんぞ無知故の浅はかさを臆面もなく誇っていたのである。

 彼は只今、十九歳でありながらも辺りの友人、或いは同輩がそうである様に大学に行っているという身分ではない。では労働者として粉骨砕身と仕事に励んでいるのかというとそうでも無い。毎日を己の夢ーそれは最早現状に於いては叶わぬと胸中悟りつつもーたる“小説家”を目指さんと過ごしているのだ。彼は小説を書く。然しその前に散歩をする。これは彼自身が憧れている往昔の作家を真似るが為である。現代の文明を僅かに否定しつつ行くのである。だが、どうだ。実際の彼は宅に安住しつつスマートフォンでするのはYouTubeを見る事のみである。ちっとも小説を書こうとはしないのである。


  二


 平嗣は現在歩きつつ悲しみにかられている。その悲しみの対象は己にである。自己への不甲斐なき想いはやがて憐憫に変容した。何故僕ばっか孤独を感じるのだろう、何故僕ばっか不幸なんだろう、とそんな思いである。未だ乳飲み子の様な思いを抱くアダルトチルドレン予備軍とは彼の事なのである。

 街は秋めいていた。只今は午後四時を過ぎた頃であるのだが、やがて到来する夜の気配を吹き抜ける風によって察する事ができる。彼の壊れた観察眼からは行き交う人々の顔が全て楽しげに見える様だ。真剣に行き過ぎる人々の顔面を観察する平嗣の面はなんとも真剣で可笑しい。頭がおかしいのでは無いだろうか?

 代々木にあるあの大きなビルが今日も天を指している。


  三


 五時半、街の街灯に光が点いている事を十分に知覚できる時間帯である。表参道を歩く平嗣は道ゆく人々の服に注目して悪態をつく。あんな『私はオシャレをしてますよ』なんて格好なんぞ返ってダサくは無いだろうか、それで他者とは違うオリジナリティを出したつもりだとしたら創意工夫点はあげられねぇな、そんな具合に思った。然し、おしゃれもせずにおしゃれについて確信めいた事を論ずる平嗣は実に愚かで彼の思いはルサンチマンでしか無い。したり顔で鼻の穴を広げながら論ずるのは甚だ笑止千万であり低能ここに極まれりといっても良かろう。

 他者を心の裡で酷評している平嗣は途端に虚しくなった。夜風は吹き空は紫に変わり次の刹那にはもう完全たる夜が訪れる時刻には人肌が恋しくなるものである。彼は改めて現在の己は凡ゆる意味に置いて「独りである」という事に気が付かされたのであった。

 行き交う人々の顔を眺めやって、果たしてこの中に知り合いはいないだろうか、と半ば本気で躍起になりながら探すのである。そして一人の女に目が止まった。それは昔付き合っていた女、に似ている女である。


  四


 平嗣の所謂元カノはRという記号を用いる事にする。それは当人のプライバシーを慮っての事である。

 彼とRとは高校の同級であり、初めて目にしたのは入学式であった。桜は未だ咲かず裸木が多くある、全く祝福的ではない入学式だ。Rの横顔を認めた時、彼の中で平嗣の親族と面影が重なったのだった。それは恐らく孤独になるのを恐れていたから脳が無理矢理にでも共通点や馴染みを生み出そうと努力した結果の産物であろう。

 彼は元来の小心、優柔不断、自意識過剰が故に自爆的にRとの距離を縮めた。手前の所為であるのにも拘らずかつての日記の中には反吐が出る様な記載を以って自己を擁護しているのだ。いずれにせよ果てはRと交際を始めた。まるで下らぬ恋の遊びを彼はさも己は絶対的に彼女を愛しているなんぞという迷妄に陥り、果ては無様にRに振られたのだった。交際期間、僅か二ヶ月。それだのに平嗣はゴキブリの如く彼女を思い続けている。思い続けている己を偉ぶるかの如く。


  五


 表参道の交差点を直進した頃には六時を過ぎていた。星々はビル群の明かりに遮られている。

 渋谷能楽堂の横を通り平嗣には不似合いのハイブランド街を歩いているうちに平嗣の裡からはRの面影は少しづつ消えて行った。その理由は簡単である。前方から若いカップルが歩いて来たのである。男の方は黒いパンツに白い長袖のシャツ。少々オーバーサイズのシャツである。髪型は今流行りのセンターパートで分けた。韓流系とい言えばわかり易かろう。女の方はこれまたモノトーンであろう。胸のサイズはC〜Dといったところか。貧乳ではないにしろ巨乳とは言い難い。平嗣は女の胸に見入っていた。そして妄想は次なる女に移行した。


  六

 

 それはKとしておこう。Kとの巡り合いはそれこそゆくりなく、という表現がぴたりと会う。ある男の彼女という役割を担っていた彼女に対して平嗣は老獪な話術を以って彼女の肉体を貪ったのである。彼女と平嗣の関係は巷でいうところのセフレといった具合であろう。平嗣は人道から外れた肉欲的行為を正当化すべくあらゆる屁理屈をこねた。全くナンセンスな、下らない、無知を恥ずかしげもなく晒す様な論であった。彼はしかも救い難いことにセフレという存在ができたという現状に大変満足し、それを誇ってさえいたのである。彼の間違いは言うなれば殺人者が殺人をひけらかしそれを誇る様な者である。平嗣は一方でKと体を重ねるうちに真なる恋心を抱いていたのである。彼女を愛撫する為にそれは自己の性欲を発散する以上の意味があると認めた自分に気づいたのである。この女となら奈落の最下層まで落ちる事も可成り、或いは死に至る事も可成り、と本心より思ったのである。しかし、Kにとって最も大事なのは本当の彼氏であったのだ。平嗣はKの彼氏に最初から敗北している事にも気付かずに本気になって紛い物の恋を誇っていた。愚鈍を極めた只の無知蒙昧な白痴なのであった。


  七


 根津美術館の交差点、行先なんぞは元よりない平嗣であるが何処にいくか迷っている。時刻は七時に近い。夜風が吹き彼の貧弱な体を通り抜けて行く。彼は身震いをする。しかし暖かさは感じることは能わない。独り。彼は只今も、妄想の中でさへも独りなのであった。

 結句、左折する事にした。彼はズンズン歩き煌々と光らせるヘッドライトを目に入れながら、眩しがりながら歩き続けた。車に乗っているのは果たして誰なんだろう、平嗣はそう思った。しかし、反射で見えなかった。だが少なくとも、平嗣は自分よりは楽しい顔をしているだろうとそう半ば強いてそう思った。殊更に悲しまない人間に良い芸術作品は生み出せないと信じて疑わないからである。いつか彼の友人は行った。「芸術を生み出す為にいつからか悲しむ事が目的になっている」、と。かれはそれを聞いた時、己を棚に上げて、何を世迷言を、と嘲笑ったがそんな真なる事も気付かぬ平嗣の事は誰も笑ってはくれないのであった。

 やがて霊園にたどり着く。遠くには六本木ヒルズが煌々と光を放ち矮小な平嗣を見下ろしていた。あれを見て平嗣はまた女を思った。


  八


 その女にはMという記号を与える。平嗣はその女の事を女神の如く崇め奉る程、彼女の事を好いていた。彼女もRと同様の高校であった。Mとは特にこれといった事はなく一度会逢引したのみだ。それ以外何もない。彼女に近づいた平嗣の体裁というのは無様なだけではなく大凡生理的には受け付けない様な振る舞いだった。必然的にMから距離を取られるのであるが、馬鹿者平嗣は何故そんな事が起こったのか無能故に全くわからず独りで苦しんだのである。滑稽だ。そして結局Mは年上と交際するに至った。無様な平嗣はMとその彼氏がセックスをしている光景を思い浮かべ、せんずりするしてそれを乗り越えるしかなかったのだった。


  九


 先ほど見ていた六本木ヒルズについたのは八時近くになっていた。風はビル群い遮られて時折、隙間風の猛然さを持って平嗣の体を吹き荒らした。平嗣は遠い明滅する光を見ながら一連の女たちを思い浮かべた。R、K、Mそれぞれの女たち。さらには必然的にそれ以外の女たちを思い浮かべた。それらの面影に囲まれる竹藤平嗣という男はなんなのであろうか。それを己に問うてみた。しかし問えば問うほど自虐的な解が立ち現れてくる。個人の真理は常に自虐が孕んでいる。

 歩く。そのうちに彼女らはもはや幻に成り果てた事がわかって来た。そして過去の己も幻だった。何もかもが幻。あの愛、優しさ、悲しみ、痛み。

 幻。明滅する日々は浮き沈む人生は一切合切全てが幻。

 平嗣はそう考えた。

 なら、生きても死んでも同じなのか?

 平嗣は問うた。

 途端に涙が流れた。

 平嗣にとってみれば今、好きなSだけが、その女だけがこの世に止まっている最後の綱なのであった。


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 私はそこまで書いて筆を置いた。

 果たしてこの哀れな主人公たる竹藤平嗣という男を必要以上に貶し過ぎたのかもしれない。彼は(それは虚構であるが)卑屈な魂を以って日々に挑み、言うなれば連敗の最中にいる様な男である。私が手を下さなくても勝手に自滅して行く運命にある男なのだ。故に私は貴重な時間を潰し平嗣なんぞという下らぬ名の虚構と又『明滅する日々』などという空虚な題の小説(それは殆どお遊びである)と戯れる必要はなかったのである。それこそ貴重な明滅する日々を無駄にしている様なものだ。

 自分のみしかこの世にはいない。そんな世の中で彼の様な思想を持って生活をしていればただ孤絶に陥るだけのだ。女は彼が思っているよりさほど重大な存在ではない。他者は彼が思っているよりも恐るべき存在ではない。彼は自分自身という名の牢獄に収容されている事を早く気づくべきだ。

 あとは死ねぬ事を覚悟すべき。それだけである。

 私はただSとの恋愛が上手く行く様に祈る。それしか出来ない。

 出鱈目に小説を書く事でしか進めない男は自己自信を書き出すしか、言うなれば自己否定をする事でしか自己肯定をする事は出来ないのであった。

 私は今日も道に迷っている。

(了)

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