幻覚のような耳鳴りのような。

めがねのひと

幻覚のような耳鳴りのような。

私の祖母は酷く傲慢な人だった。

誰に対しても敬意がなく、彼女が誰かに謝っているところを見たことがない。自らの娘であるはずの私の母親に対しても「お前は出来損ないだ」と罵っている。母は彼女の荒らした様々な人の心の土地を代わりに直しているのにも関わらず。その癖、何かあるとうちにやってきて母を頼ってくる。出来損ないはどっちだと今すぐ叫んでやりたい。


「なんでお母さんはあの人と縁を切ろうと思わないの?」


一度だけ。祖母が去ったダイニングテーブルで静かに頭を抱えている母に問いかけたことがある。まだ幼く頼りない身ではあるが少しでも母の気苦労を紛らわせてあげたかった意味もあるかもしれない。でもそれ以上に、私は純粋に疑問だった。

母は、私に小さい頃から「無理に全員と仲良くしようと思わなくていい、自分の心に嘘をつくぐらいならそんな人とは縁を切りなさい」と教えられていた。まさに母と祖母がその関係なんじゃないか。私だけじゃなくて、周りの人全員が思うことだろう。そう信じて疑わなかった。


「おかあさんだから」


しかし、母は私にそう言って笑った。口角は上を向き、目は細められて目じりに細かなしわが浮かぶ。いつもと同じような笑い顔。同じはずなのに、あの時だけはその笑顔が貼りつけられた仮面のようにしか見えなかった。


そして10年後、私はその仮面の意味を知るようになる。


「……!」


赤いスカーフをほどきながら階段を上がって自分の部屋のドアノブに手をかけた時。小さな母の声が聞こえた。今月で何回目だろう。

普段なら階段を昇ろうとするタイミングで快活な「おかえり」という声が聞こえるはずなのに。今日は押し殺したような声。


母と祖母の関係性を知ったのはちょうど5年前くらいだったろうか。

人生で初めて、母のおかえりが返ってこなかったとき。私は母の女の姿を知った。微かに開いたドアの隙間から覗く母と祖母の姿は…思い出したくない。音を立てないようにドアを閉めて頭を振る。

いつからだったんだろう。


ーおかあさんだから


貼り付けたような笑顔が脳裏をよぎる。

あの時からそうだったのかもしれない。いや、きっともっとずっと前から。


「わけ分かんない…」


ドアに隔てられた空間で、もう聞こえないはずの聞きたくない声を脳から遮断するように、私は震える手で耳を塞いだ。



(暗転)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幻覚のような耳鳴りのような。 めがねのひと @megane_book

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ