『イジメはイジメられる側にも問題がある』これを本気で唱えるのでしたら、『親ガチャに外れたと子供に言われるのは、親の側にも問題がある』を認めないとおかしいと私は思います

『イジメはイジメられる側にも問題がある』


これを本気で唱えるのでしたら、


『親ガチャに外れたと子供に言われるのは、親の側にも問題がある』


を認めないとおかしいと私は思います。


しかも、『親ガチャに外れた』と言われてダメージを受けるのは、それを言った方の親だけですが、イジメの場合は、複数の、<家族でも何でもない赤の他人>が攻撃側であることが多いですよね。


そうです。親は子供に対して大変な<因縁>を持ち、強い<因果>がそこにはありますが、本来は赤の他人である<他所様のお子さん>に対して、自ら死を選ばせるまで追い込むというのは、何なのでしょうか?


そして『自分の子供が、他所様のお子さんを、自ら死を選ぶまで追い込む』ことを見逃していられる親の心理というのも、いかなるものなのでしょう?


それは<まともな親>なのでしょうか?


『自分の子供が、『人が死ぬ』ということについて軽々しく考えているかどうか気付かない』


というのは、おかしくないですか?


この疑問に対して、


『<自分の子供が『人が死ぬ』ということについて軽々しく考えているかどうかを気付けない理由を考える努力>はする』


というのは、大人として誇らしいことなのでしょうか? 


私はそれより、


『<自分の子供が『人が死ぬ』ということについて軽々しく考えているかどうかを気付く努力>をする』


ことが大事だと思うからこそ、自分の子供達と多くのことを話し合います。


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