猿共の顔は見分けがつかない
元とろろ
*
「クソ、クソ、クソ!」
悪態をつき、息を荒げ、暗い階段を駆け上がる。
路上に残した遺体は気がかりだ。
首が360度捩じられて蘇生の見込みはないのだが、人目にさらされればパニックに繋がりかねない。とっさに被せた上着だけでは群衆の視線から守るに不足だろう。
そもそも白昼の路上での出来事だ。俺を含め多数の人々がすでに見ている。
彼らを宥める役割の人間が必要だ。
無線で呼んだ応援が到着するのにどれほどの時間がかかるだろうか。
反響する足音に混ざり聞こえる屋外の喧騒が次第に大きくなるのがわかる。
それでも、今は奴を追うことが最優先だ。
腰の拳銃の重みを感じる。
最初に殺戮オランウータンの目撃情報がもたらされたのは一週間前のことだ。国内ではあるが遠く離れた町のこと、そういう意識は確かにあった。
射殺許可は下りている。
そういう意味での備えはある。
だが心構えはそうでなかった。今更ながらに痛感する。
奴の運動能力は噂通りだ。このマンションの外壁を伝い瞬く間に屋上へと昇って行った。周囲の建物からは100メートル以上の間隔が空いている。
オランウータンの跳躍力は10メートルほどと聞く。
殺戮オランウータンの跳躍力をもってしても他に飛び移ることは難しいだろう。
その行き先が無人ならばよかった。
そこにはペントハウスが建っている。
日頃のパトロールの最中、豪奢な住居を見上げて顔も知らない金持ちに対して羨望の念を抱いたことはある。妬みも混じっていた。
それでも流石に死を望みはしない。
長い階段がようやく尽きて、広い空間に日が差した。
初めて間近で見る白亜の建物。大きな窓が破られていた。
拳銃を引き抜き、玄関ではなくその窓に駆け込む。
獣臭い。
視界に入る赤茶けた色の塊。
そいつは隠れることなくそこにいた。
「お待ちなさい」
狙いをつけ、しかし引き金を引く前に呼び止められる。
何者が?
殺戮オランウータンに銃口を向けたまま首を横に向ける。
住人か?
殺戮オランウータンから距離を取るように壁にもたれて座り込む女がいた。
赤毛を長く伸ばした白い肌の女。小柄な体に大きな外套を羽織っている。
室内で?
「そのオランウータン、檻に入っているでしょう。外に出ているならともかくこの状況での射殺は問題になるのでは?」
「何?」
殺戮オランウータンに視線を戻す。そいつに気を引かれるあまり見逃していたが、確かに黒鉄の太い鉄格子に囲まれている。
「君が閉じ込めたのか?」
「扉を閉めたのは私です」
「君がここで飼っていたのか?」
「いいえ」
「おい」
見る限り檻が壊れているということはない。殺戮オランウータン自体も現状大人しくしている。
俺は体と銃口を女に向けた。
「それは、どういう意味だ? このオランウータンがこの家とは無関係で、この折も偶然ここにあったということか? それとも」
「もちろん、私がこの家の人間ではないという意味です」
作り物のように白い、無表情な顔。
どこか嘲笑ているような気がした。
「君は外から入ってきた?」
「そうです」
「窓を破ったのは君か?」
「そうです」
「そのオランウータンは、今日は檻から出ていない?」
「そうです」
引き金を引くのに躊躇はなかった。
しかし女の動きが先んじた。
銃声よりも速く、一跳びで窓の外へ。
オランウータンの跳躍力は10メートルほどと聞く。
殺戮オランウータンもそうだろうか。
窓の外、ペントハウスの庭、あるいはマンションの屋上であるコンクリートの上へと後を追う。
まだ遠いパトカーのサイレン、人々の怒声と悲鳴。地上の喧騒がここまで届く。
女は柵に背を預け、俺に薄気味悪い笑みを向けた。
「逃げられると思うのか?」
「ええ、それも、もちろん。そうです」
「肯定してばかりだな」
「嘘はつかないというだけですよ」
「その恰好はどうなんだ」
「なるほど、それは確かに」
女は外套を脱ぎ捨てた。顔を覆う白いゴムのような覆面も。人間と比べれば小さいがオランウータンとしてはかなり大きく見える。
そう、現れたのはスマートホンを手にした殺戮オランウータン。
会話が成立していたこと自体がこの獣の知能の高さを物語っている。
身体構造上人語の発生は不可能であってもスマートホンを使用し音声合成アプリを使うことなど造作もないのだろう。
その点は謎ではない。
なぜ地上で殺人を犯したのか。
殺戮オランウータンは殺戮するからこそ殺戮オランウータンなのだ。
それも当然のことだ。謎ではない。
謎は今この状況だ。
なぜわざわざマンションの屋上に逃げたのか。
なぜ銃撃を躱す身体能力を持ちながら俺を殺そうとはしないのか。
それも考えればすぐに分かった。
「あのオランウータンか」
ペントハウスには殺人事件と無関係なオランウータンがいたのだ。
殺戮オランウータンが話題になっている昨今、有力な容疑者がいなければ疑いの目はあの獣に向いたはずだ。
それをわざわざ俺が追ってくるのを待ち受けて、殺戮オランウータンとは別のオランウータンだと確認させた。
「まさか無実の罪で彼をどうこうすることはないのでしょう?」
殺戮オランウータンは小馬鹿にしたように笑った。
絶滅危惧種であるオランウータンはワシントン条約により守られている。
ここで飼われていること自体も別件の問題ではあるが、警察は保護の方向で動かざるをえないとわかっているのだ。
「殺戮オランウータンといえど同族に罪を着せるのは本意ではないということか」
「ええ、死ぬのは人間だけで十分でしょう?」
再び。躊躇なく引き金を引く。
俺が発砲するより早く、彼女は躍り上がって柵を越えた。
100メートル以上先の建物を目指す必要などない。
柵から身を乗り出してのぞき込めば、殺戮オランウータンは登った時と同じようにスマートホンを片手にするすると壁伝いに降りていく。
パトカーのサイレンはまだ遠い。
野次馬たちが集まってこちらを見上げている。ここから銃を撃てばむしろ彼らに当たるだろう。
地上から10メートルほどの高さで彼女は動きを止めた。
オランウータンにしては大きな体が、その毛皮が、膨らみ、吹き飛んだ。
現れたのは人、ではないだろう。
殺戮オランウータンであること間違いあるまい。
ただ多重に変装を被っていたのだ。
どんな顔に化けたのかもここからでは確認できない。
化け猿は壁から飛び離れ、群衆の中へとダイブした。
「逃げられたか」
こうなっては見つかるまい。
不自然な変装ではあった。
あの恰好のままならば探すことはできるだろうが、それに気づかない奴でもないだろう。
あいつはどこかで変装を解くはずだ。
「無実のオランウータンを守るため、だけではなかったか」
世間には殺戮オランウータンと無関係のオランウータンたちがいる。
そう意識させることが奴自身を守ることにも繋がるのだ。
俺たちは全てのオランウータンを殺戮オランウータン扱いするわけにはいかない。
そして殺戮オランウータンがオランウータンの中に紛れ込んだ時、それを証明することもできない。
俺達には、彼らの顔は見分けがつかない。
猿共の顔は見分けがつかない 元とろろ @mototororo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます