ある殺し屋の死
HK15
ある殺し屋の死
部屋に入ってきたわたしを見て、彼女は静かに微笑んだ。
「やっぱりね。来るならあなただと思ってた」
わたしはそれには答えず、銃を彼女に向けた。ルーガー・マークⅣ 22/45。先端にネジ溝を刻まれた銃身の先端には、ルーガー・サイレントSRサイレンサーが装着されている。薬室はホットで、安全装置は解除されている。引き金を引けば、弾が出る。
彼女は銃口を向けられても顔色ひとつ変えない。プロだからだ。それはわたしがいちばんよく知っている。
わたしは教科書通りのアイソセレス・スタンスをとる。
青い双眸がわたしを見つめる。
わたしは集中しようとつとめる。動揺している場合ではない。
考える。引き金を引いたらどうなるか。
引き金を引いたら、薬室に装填されたCCI社製の22LRサブソニック弾は迅速に擊発するだろう。そして、秒速約300mで射出された重さ40グレイン(約2.5g)の弾頭は、過たず彼女の眉間を貫き、脳を破壊するだろう。銃声はごく小さく、周囲の注意を引くことはない。椅子にぐったりと沈みこむ彼女を尻目に、わたしは何事もなかったかのようにここを立ち去る。
それでおしまいだ。おしまいにするべきだ。
しかし、わたしは引き金を引かない。
彼女があきれたように首を振る。
「どうしたっていうの。早く撃てばいいでしょ。それとも、なに、あなた焦らすのが好きなの?」
わたしには何も言えない。
彼女がさらに追い討ちをかけてくる。
「だいたい、撃つなら部屋に入るなりやればよかったでしょ。あなたらしくもない。どうしたの、いったい?
言うな、言うな、それ以上言うなよ。わかってるくせに。
畜生。
それでも引き金は引かない。
彼女は、心底あきれたと言わんばかりに目をぐるりと回す。
不意に彼女の手が動く。手がかすんで、着ているジャケットが一瞬はためいた。一瞬、固い金属音。
次の瞬間、彼女はこちらに銃を向けている。
大きな、黒いリボルバーだ。ひたすら武骨で、ほっそりして白い彼女の手には似合わない。彼女はその銃を片手で構え、こちらに向けている。すでに擊鉄が起こされているのがわかった。抜きながら起こしたのだ。
彼女はわたしをにらみながら言う。
「ほら。ぐずぐずしてるからこうなるのよ。ほんと、情けない。それでよくわたしの相棒なんかやってたわね。わたしがいなけりゃ、まともに銃も使えないとでもいうんじゃないでしょうね?」
彼女の言葉は苛烈だった。どんな銃弾よりも鋭くわたしの心をえぐる。
くそったれ。
それでも引き金は引かない。
わたしには、彼女に聞くことがある。聞かなければならないことが。
リボルバーの、大きな暗い銃口と、彼女の双眸をまともに見据えながら、わたしは言う。
「どうして裏切ったんだ、サキ」
それを聞くために、ここまでやってきたんだ。
殺し屋稼業なんて、ろくなもんじゃない。
けど、わたしにもサキにも、選択の余地はなかった。いや、もしかしたら選択肢は他にあったかもしれない。でも、わたしたちにはそれが見えなかったし、たぶん手にも届かなかった。
くそろくでもない、名ばかりの保護施設で様々な悪意と暴力にさらされながら生きると、過去も未来も意味を失う。時間はぶつ切れの“いま”の連続になり、その一瞬一瞬を生き延びていくことが全てになる。
そんな状況で、ひとりだけで生きていくのはほとんど不可能だ。わたしとサキが互いを見いだし、一緒に行動するようになったのは、必然に近かったのだろうと思う。
そうであっても、くそみたいな目にはたくさん遭った。いちいち詳述はしない。ただ、法と良識の光の及ばぬ閉鎖空間で、少女に振りかかってしかるべき、ありとあらゆる事象を経験したといっておく。ただ、わたしたちはそれで泣き寝入りしたりはしなかった。やられたことには必ず報復した。たとえ相手が職員であろうと容赦はしなかった。
いつだったか、ろくでなしのベテラン職員といざこざになったことを思い出す。外では聖人面して、しみったれたご褒美と引き換えに奉仕を要求する、典型的な生ゴミ野郎だった。逆らえば、お仕置きが待っている。鞭やらスタンガンやら。最も荒くれた子たちもやつを恐れていた。たとえ腕っ節で勝てると思っても、逆らったらどうなるかと思うと身がすくむのだ。職員は子供たちの生殺与奪の権利を握っている。うかつに反抗すれば、さらに過酷で悲惨なストリートに放り出される。剥き出しの権力構造。
わたしたちは恐れなかった。
生ゴミ野郎が、美しいサキをものにしたがっているのを、わたしたちは知っていた。わたしたちはそれを利用した。やつは自分の立場と権力を過信していて、わたしたちの狡猾さと無慈悲さに気づかなかった。それで、哀れ、キンタマを潰され、サオをぶったぎられる羽目になったのだ。仮眠用のベッドの上で、血がびゅうびゅう噴き出す股ぐらを押さえて転げ回り、泣き叫ぶ生ゴミ野郎を前に、わたしとサキは血まみれの顔を見合わせて、心から笑いあったものだった。
バイオレンス・ガールズ。わたしたちは厄ネタだった。危険人物だった。生ゴミ野郎の一件は内々に処理されたが、施設のお偉方は真剣にわたしたちを放り出すことを考えはじめた。ヒエラルキーを脅かす存在は許しておけないというわけだ。
「出ていけっていうんなら」ある夜、サキが言った。「こっちから出ていってやろうよ」
「それはいいけど、出ていってどうするのさ」わたしは聞いた。「わたしたち、何にも後ろ楯がないんだぜ」
サキは危険な笑みを浮かべて言った。
「なんとかなるでしょ。わたしたち二人なら。これまでもそうやってきたじゃない」
で、脱走の計画を練り、いざ実行に移そうという段になって、わたしたちを引き取りたいという申し出があったのだ。面会に来たのは、上品な風情のばあさんだった。彼女はわたしたちから一通り話を聞くと、その場でわたしたちを引き取ると言った。拍子抜けだった。苦心惨憺して集めた道具やカネ、何日も徹夜して二人して考えた脱走の計画書は、二人だけの秘密の隠し場所にしまいこまれたままになった。
すぐにわかったのだが、そのばあさんは、つまりリクルーターだった。あちこちの孤児院を回って、わたしたちのような人間をスカウトしていた。暴力を振るうことに躊躇がなく、なおかつ狡猾に知恵を巡らせることができる人間を。
こうしてわたしたちは殺し屋への道に入ったのだ。
「どうして裏切ったって……今さらそんなこと聞くの? ばかじゃないの? 説明は受けたんじゃないの?」
サキは言った。心底あきれたという感じだった。
「〈オールド・マン〉から話は聞いてる」わたしは言った。「けど、何度聞いても信じられない。〈オールド・マン〉も不思議がってたぜ。なぜ彼女があんなことをしでかしたのか理解できない、ってね。わたしも同感だ。だから、ぜひきみの口から聞きたいんだ。──なぜ、あんなことをした? なぜ裏切った? どうしてだ?」
彼女は目を伏せて、しばらく黙っていた。それでもどでかいリボルバーは小揺るぎもせずにわたしをポイントしていた。一見ほっそりとした彼女の腕には、その実、鍛え上げられた強靭な筋肉が張りつめているのだ。日頃の鍛練のたまものだ。わたしはそれをよく知っている。彼女のことは隅々まで知っている。
いや、知っているつもりだったのだ。今度のことが起こるまで。
だから、問いたださずにはいられないのだ。
撃つのはそれからでも遅くない。
「……カネよ。カネが全て」
彼女はぼそりと言った。相変わらず目を伏せたままだった。
「オファーがあったの。内々にね。移籍しないかって」
「どこからさ」
「そんなことまで聞く必要がある?」
「知ってるけど、きみの口から聞きたい」
「……トライデント・セキュリティ・サービス」
その名前は、業界ではよく知られている。表向きは中堅どころの
今の世の中、犯罪組織とまともな企業との境目は、どんどん曖昧になっている。暴力を売り物にする領域では、その傾向が顕著だ。テロとの戦いが叫ばれるようになってからは特に。
サキがやらかしたのは、よりにもよってそれだった。〈H&R〉の同僚5人を自動小銃で蜂の巣にし、さらに社の資産を爆破して損害を与え、そのままトンズラしたのだ。
当然、〈H&R〉はサキの行方を追った。腕利きを差し向けて始末しようとした。しかし、サキもプロだった。なかなか彼女の居場所はつかめず、送り込んだ殺し屋たちは次々返り討ちに遭った。いよいよ手詰まりになったお偉方は、わたしに仕事を投げてよこしたのだ。
──サキはこちらの手の内を知っているが、こちらはやつの手の内を全て知っているわけじゃない。だから、後手に回らざるを得ない。だが、お前なら、やつの手の内がわかるはずだ。何せ、サキと長いことコンビを組んでいたからな。必ずやつを見つけて、報いを受けさせるんだ。お前にならできるはずだ。期待しているぞ。
〈オールド・マン〉はそう言った。ずいぶん高く買ってもらったもんだ。ちっともうれしくなかったが。
わたしは彼女の行方を追った。なかなか足取りをつかむのは容易ではなかった。しかし、一度手がかりをつかむと、あとは拍子抜けするほど簡単だった。どういうわけだか彼女は、わたしにはわかるようなやり方で、行く先々にあからさまな手がかりを残していたのだ。
それがどうにも引っかかった。よくわからなかった。そんなことをする意味が理解できなかったのだ。罠ではないかとも思ったが、行った先にブービートラップが待ち構えているわけでもなく、追跡はしごくスムーズに進んだ。そして、行き着いた果てが、この国境沿いの、ひなびた田舎町の一画の、うらぶれた宿の一室だったというわけだ……。
「トライデント、か」わたしは言った。「向こうの連中にも話は聞いたよ。びっくり仰天していたぜ。確かに、きみにオファーを持ち込んだのは事実だが、こんなことをやらかせとは言ってない、の一点張りだ」
サキは冷たくわたしを見つめながら言う。
「で? 連中の言うことを信じるの?」
わたしはうなずいた。
「連中には何のメリットもないからね。あんな程度の損害では、うちの会社には大きな打撃にはならないし、一方で、トライデントの関与が疑われたら、それこそ連中、どんな報復を受けるかわかったものじゃない。連中が画を描いているなら、もっとひっそり、大損害を与えるようなやり方にしたはずさ。今回のやり方は、あまりに
わたしはそこで、彼女をじっと見つめた。
彼女は視線をそらした。
それでもリボルバーの銃口はわたしを見つめ続けている。
わたしはその暗い穴に向かって語りかける。
「ねえ、サキ。わたしはさ、ただ知りたいだけなんだ。なんできみがこんなことをしたのかを、ね。カネのこととか、わたしに秘密でオファーを受けたこととか、そういうのは、今はどうでもいい。わたしは知りたいだけだ」
わたしの声は、次第に哀願の響きを帯びる。
「頼むから教えてくれよ、サキ。なんであんなことをしたんだよ。教えてくれよ」
サキは目をそらしたまま、何も言わない。
「なあ、サキ」
わたしは泣きそうな声で言った。
「わたしが悪いのか? なあ? わたしが嘘をついたから?」
〈H&Rヒューマン・リソース〉に迎えられ、つらく厳しい訓練期間を経て、殺し屋としてのキャリアをスタートしてから、わたしたちは休みなく働いた。
わたしたちにはどんどん仕事が舞い込んだ。ティーンエイジの女の子の殺し屋は業界にはほとんどおらず、一方でそういう属性の殺し屋が適する案件は存外に多かったからだ。わたしたちは大勢殺した。そのほとんどが生ゴミ野郎だったから、良心は特に痛まなかった。それに、生ゴミ野郎を殺せば殺すほど、報酬がどんどん口座に振り込まれた。これまでの人生で見たこともないほどの大金だった。わたしもサキも、それが何より嬉しかった。
いったいどれほどの人間の脳天に鉛弾をぶちこんだか、喉笛をかっさばいたか、今となっては覚えていない。ずいぶん命乞いも聞いたが、わたしたちは聞く耳持たなかった。殺した。殺した。殺した。山のように死体を積み重ねるうちに、どんどん困難な仕事を任されるようにもなった。たいていは、重武装のろくでなしどもを相手にする仕事だった。死ぬような思いも何度もした。それでもわたしたちはやりとげてきた。二人でいれば、どんなことも平気だった。仕事の関係で、お互い別々の案件に従事していても、心はいつも一緒だった。
しかし、キャリアを積み重ねていくうちに、わたしは少しずつ悩みを抱くようになった。
単純なことだ。いつまでこんなことを続けてられるんだろう?
殺し屋の寿命は短い。心身ともに大きな負荷のかかる過酷な仕事だからだ。返り討ちのリスクは常にある。負傷しても、そこらの病院に転げこむわけにはいかない。あと、意外な話かもしれないが、自殺する殺し屋もけっこう多い。生きるか死ぬかのすさまじい緊張にさらされ続け、ありとあらゆる残虐行為の展覧会を何度も目の当たりにするうちに、神経はじわじわすりきれていき、ある日突然おしまいになる。そうなると、銃口をくわえて、引き金を引くことになる。
わたしはそんなのはごめんだった。わたしはろくでなしだが、だからこそ、そんなふうに死にたくなかったのだ。くそみたいな世界にくそくらえと言い放って、楽しく生きるのがわたしの望みだった。
というわけで、わたしは出口戦略を考えるようになった。〈H&R〉からどうやって円満退職するか、その後の人生をどう生きるか。それについて計画するようになったのだ。〈H&R〉は、フィクションにありがちな、足抜けを絶対に許さない組織というわけではないが、それでも退職には相当の苦労を強いられるのはわかっていた。向こうだって、高いコストをかけて育てたヒットマンに、そう簡単に足抜けされては困るし、退職してから自伝本なんか書かれるなんて事態はなんとしても避けたいからだ。お偉方が、組織の中にスパイ網を張り巡らせているのは、そういう厄介ごとを防止するためもある。
だからわたしは、サキにも言わずに、こっそりと計画を練っていた。
それがよくなかったのだろう。いつ頃からか、わたしとサキのあいだには溝ができてしまった。最初はごく些細なものだったが、放置しているうちに、小さな亀裂が大きく深いクレバスになってしまったのだ。
──ねえ、なんか隠し事してるんじゃないの。
数ヶ月前、サキにそう言われた。
──いや、まさか、そんなことないよ。これまで隠し事したこと、ある……。
とっさにそう答えたけれど、たぶん彼女は見抜いたはずだ。わたしの嘘を。
そうでなけりゃ、あんな目をするはずがない。
それから、サキは露骨にわたしを避けるようになった。
わたしにはどうすることもできなかった──いや、わかっていたんだ。本当は。サキにぜんぶ打ち明けたらよかったんだ。昔と同じように。
でも、それができなかった。怖かったのだ。そんなことをしたら、何もかも失ってしまいそうで……これまで築き上げてきたものも、サキとのつながりも、何もかも……。
そんな、甘ったるいことを考えていたから、こんなことになったのだ。
わたしの声に、サキはこちらを視線を向ける。
静かな眼差し。
彼女は言った。
「知ってたよ、わたし。あなたが退職を考えてること」
一瞬、息が詰まった。
サキは続けた。
「相談はしてほしかったよ、正直。でも、あなた自身のことだもの。わたしにどうこういう権利はないじゃない」
責めるような響きはなかった。
それでもリボルバーは小揺るぎもしない。
わたしは、震える声で、ようよう言った。
「なら……なら、どうして、あんなことを」
彼女は答えなかった。
わたしは思わず叫んだ。
「頼むよ! 答えてくれ!」
彼女の目がスッと細められた。
「──なら、それにふさわしい聞き方があるでしょう」
すさまじい殺気が彼女から吹きつけてきた。
わたしは引き金を引こうとした。
リボルバーの銃口が一瞬下に動いた気がした。
閃光。
轟音。
胸に激烈な衝撃を受けて、息が詰まった。
構えが崩れる。
その拍子に、22/45の引き金にかかった指に、つい力がこもった。
わずかな反動。さえずるような銃声。
わたしはその場に倒れこんだ。その拍子に、22/45は手から外れて、どこかに飛んでいった。拾いに行こうにも、動けない。防弾チョッキは銃弾を見事に受け止めたが、衝撃までは止めてくれない。凄まじい激痛で、息ができない。目が眩む。肋骨までいかれたかもしれない。
それでも、わたしは必死に身体を起こした。ジャケットの内側から、バックアップのルーガーLCPを抜く。それを片手で構えて、サキの方に向けた。
サキは椅子にぐったり沈みこんでいた。
リボルバーを持った手はだらりと力なく垂れ下がっていた。
彼女は首に片手を当てていた。指の隙間から血がどくどく溢れていた。
信じられない思いだった。あのとき、反射的にぶっぱなした一発が、彼女の首に命中してしまったのに違いない。
まさか、こんなことで。
「嘘だろ」
わたしはやっとの思いで立ち上がると、よろめくようにサキに近づいた。彼女のそばにひざまづいた。サキはゆっくりとこちらを見た。瞳は熱っぽくうるんで、焦点が定まってなかった。
「ああ、サキ。こんな。こんなことって」
わたしの言葉に、彼女はうっすら笑った。
「バカねえ。わたしを、殺しにきたんでしょ。これでいいのよ。これで」
わたしには何も言えなかった。
彼女は続けた。
「ねえ。どうしてあんなことしたか、教えてあげる」
「待ってくれ。そんなことより、血を」
「どうせ長生きする気はないわ……」
サキの声はきっぱりしていた。
それから彼女は言った。
「あのね。わたし、あなたに殺してほしかったんだ」
脳天に雷が直撃した気がした。
「なんだって……」
「あなたが退職を考えてると気づいたときからね……そうしてほしいと思ったの。そのためにいろいろ考えた。ひとりでね。その結果がこれ。大勢巻き添えにしたけど、後悔はしてない。悪いことをしたと思っているけど」
わけがわからない。
「なんで、なんでそんなバカなことを」
「……もうね、限界だったの」
サキは言った。
「自分にもあなたにも嘘をついてきたけど、もう限界。疲れちゃった。燃え尽きちゃったの。だけど、自殺するにも、ふんぎりがつかなくてね。皮肉なものね、他人を殺すのは平気でも、自分を殺すのは怖くて怖くて、できないのよ」
彼女はそこでもう一度笑った。
「だから、あなたに引導を渡してもらおうと思ったの」
これが現実だと信じたくなかった。これが悪夢ならどんなによいか。しかし、ぎしぎし痛む肋骨が、これこそがリアルだと言っている。
なんてことだ。
「ねえ、あなた、泣いてるの……」
畜生。バカ女。これが泣かずにいられるか。
わたしもサキもとんだ大バカ女だ。くそったれ。
「ねえ、泣かないでよ。こんなことで。いつかはこんな日が来るのよ、誰にでも。わたしたちにとっては、それが今日だというだけ。それだけよ」
彼女は弱々しく笑った。
わたしにはどうすることもできない。
不意に、彼女が言った。
「ねえ、お願い。もう一度撃って」
この上何を言うんだ、このバカ女。
「こんなとこに当たったんじゃ……痛いばっかで。もっと、ちゃんと狙ってよ……」
「狙ってたよ」わたしは絞り出すように言った。「サキのせいで狙いが狂ったんだ。しかたないじゃないか」
そこで気づいた。どうしてサキはリボルバーの狙いを土壇場で変えたんだろう。わたしが防弾チョッキを着ていることくらい、わかっていたはずだ。それなら、最初から狙っていた通り、頭を撃てばよかったはずだ。なのに、どうしてそうしなかったんだろう。
サキがにっこり笑った。
寒気がするほどいい笑顔だった。
「気がついた? わざとそうしたの」
そこでサキは、やたらはっきりした声で言った。
「わたしのリボルバーを使ってよ。そのために用意したんだから。あんなちゃちな銃で撃たれて死ぬのはいやなのよ」
わたしはその声に逆らえない。
サキの手から、リボルバーを取り上げる。近くで見ると、実に巨大で、重たく、年季が入っていた。古い年式のS&Wリボルバー。Nフレーム。4インチ銃身。
銃身の刻印を見た。
44マグナム。
あまりにあまりすぎて、わたしは何を言っていいのかわからなくなった。
「装填されてるのはホーナディのXTP。240グレイン(約16g)弾頭」
人間相手には過剰な威力の弾だ。そんなものを自分に使えというのだ。
「この世に別れを告げるには、それくらいは欲しいのよ」
サキは言った。
青い目の奥に、鮮やかな狂気が渦巻いているのが、今はよくわかった。
「さあ、早く。お願い。わたしにはもう時間がないから」
首を押さえている方の彼女の手は、血まみれを通り越して、肌の色がもう見えない。すべて赤色だ。血はとめどなく溢れて、肘のあたりまで赤く染めている。
わたしの口が勝手に動く。
「どこを撃ってほしいんだ。頭か」
彼女は、この期に及んで、ちょっと逡巡するような素振りを見せた。
それからサキは言った。
「胸にして。防弾チョッキはつけてないから。心臓を一発で撃ち抜いてほしい」
「注文が多いな」
「しかたないでしょう」サキは笑った。「それじゃ、さよなら」
彼女は目を閉じた。
わたしは言われた通りにした。
カタがついてから、わたしは〈オールド・マン〉に連絡をいれた。
『ご苦労だった』〈オールド・マン〉はいつもどおり、感情のこもらぬ声で言った。『すぐに帰ってこい。後始末の連中を向かわせている』
「はい、ボス」わたしは答えた。
それでおしまいかと思ったが、〈オールド・マン〉はさらに続けた。
『休暇をとれ。今度のことは、いくらお前でもきつかっただろう。今後については、そのときゆっくり考えたらいい』
「はあ──ありがとう、ございます」
それだけ言うのが精一杯だった。
通話が切れると、わたしは22/45を拾い上げてホルスターにしまった。それから、しばらく考えて、サキの44マグナムをだらんと片手に下げたまま、部屋を出た。
宿を出ると、強い日差しと埃っぽく熱い風がわたしを出迎えた。小さな町は、ぎらつく太陽のもとで、静かにまどろんでいた。
先ほどの一幕がまるで嘘のようだった、
しかし、サキは死んだのだ。
わたしが殺した。
あるいは、手の込んだ自殺と言うべきなのか。
どうでもよかった。
わたしはよろめくように、ここまで乗ってきた、くたびれたシボレーに近づいた。シボレーは日に焼かれながら、無心にわたしを待ち続けていた。
ふと、リボルバーの引き金を引いた感触を思い出した。
ダブルアクションのくせに、ずいぶん軽かったなと思った。サキは十分に銃の手入れをしておいたんだろう。引き金のメカのすりあわせも十分にやっておいたのかもしれない。
あんな、ほんのちょっと指を動かすだけのことで、人は死ぬのだ。あっけなく。
これまで何度も何度もやってきたことだが、その恐ろしさにはっきり気づいたのはこれがはじめてだった。
そして、もうサキはいないのだ、と、つくづく思い知った。
わたしは、シボレーに寄りかかって、声もなく泣いた。
ある殺し屋の死 HK15 @hardboiledski45
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