吹奏楽部顧問と戦いました!
早朝の校舎に流れる音色
綾部さんの所感文をその日の内に書かせ終わらせて、翌日ゆっくりとその所感文を校正し、予定より一日早く先生に渡した。
先生は、予定よりも早く渡した所感文に対して、目を丸めて驚いていた。まさかこんなに早く作り上げるとは、だとか、七瀬に言い含められて不安だったけど、あいつが正しかっただとか、余計なことをたくさん言ってくれた。
この夢の始まりは、俺に与えられた仕事を完遂した時、そんな時に始まったのだと思った。前後の記憶が曖昧というわけでなく、むしろ本当に夢かと思うくらい、いつも通りリアリティと没入感に襲われる、そんな現実のような夢だったから、俺は夢と現実との境界線を見失いかけていた。
夢の中での俺は、前回のように七瀬さんと倉橋さんにフォローしてもらって身に付けた学力で、希望よりも更に上の大学に進学していた。
以前と同様、倉橋さんが俺と同じ大学に入学してきて、腐れ縁のような関係になって……。
就活シーズン、俺は綾部さんに連絡されたことをきっかけに彼女と再会を果たすのだった。
綾部さんは、有名企業に内定をもらった俺の相談によく乗ってくれた。
曰く、「昔困った時には助けるって約束したでしょ?」ということらしいが、以前に比べて濃密になった高校時代の記憶はどうも定かではなかった。
彼女は、大学二年の時に靭帯を痛めたことをきっかけにハンドボールからは引退していた。それでも、人に教えることの楽しさを知ったとかで、あまり凹んだ様子を俺に見せることはなかった。後悔もあまりないのだと笑っていた。
綾部さんは、就職に向けて自分の持ちうる情報網を使って各企業の情報などを入手して、就職先を模索しているらしかった。
昔から自頭は悪くなく、それでいていつかも褒めた美貌もあり、六月頃には三社くらいから内定をもらったと自慢げに語っていた。
「え、そんな有名企業に内定もらったの?」
「まあね」
ある日、最近通うようになった喫茶店で、俺は綾部に以前の夢でも内定をもらった有名企業から、内定をもらった事実を教えた。
初め、綾部は大層驚いたような顔をしていた。しかししばらくして、その驚きの顔は俺の内定を喜ぶためか嬉しそうな顔になり……最終的には、不安げに瞳を揺らすのだった。
「古田。あたし、その企業に入ると色々と辛いってこと、顔なじみの先輩とか、ネットとかで調べて知ってるよ」
「そっか」
その事実は、俺も知っていることだった。以前の人生で、身を削る思いで仕事をした経験が蘇ってきていた。
「とは言っても、他に内定、もらえてないしなあ」
「そうなの?」
「うん」
「あなた、どれくらいの企業にエントリーしたの?」
「どれくらいって……十くらい?」
「やっぱり工学系と文系って、結構就活格差あるよね」
綾部はため息を吐いていた。
「そうなの?」
綾部は黙って頷いた。
「でもさ、一生のことだし、もう少し色々探ってみたら?」
「とはいえ、他に宛もない」
「じゃあ、一緒に探そう」
「お前、内定三つももらってるからって、楽勝だな」
「まあね」
それから俺達の関係は、いつかの作文作りの時とは逆転していった。彼女の伝手で知りえた企業にエントリーを出しては、試験、面接を繰り返して……八月末頃に俺は今の就職先を見つけたのだった。
前の人生での社会人生活が悪いものだと思ったことはなかった。
身を削り働いて成す成果、給与は自分の生きている証だと、心のどこかで俺は思っていたのだ。
だけど、当時に比べて給与は劣るものの楽な業務体制の企業に身を収めた今、以前の生活で激務をこなすあまり見えてこなかった景色が、俺の前にはたくさん広がっていた。
倉橋や七瀬さんにも就職活動の件も含めて、かつてからたくさんの迷惑をかけてきた。だけど今、こうして穏やかな人生を歩めているのは。
こんな人生も悪くないと思ったのは。
多分綾部のおかげなんだろうと、今ならわかった。
「先輩、遅かったですね」
華の金曜日の今日、俺は倉橋の家で、彼女と綾部と三人で宅飲みをする予定になっていた。
チューハイを数本と酒のつまみを持ち彼女の家に行くと、倉橋は快く俺を迎えてくれた。
「綾部は?」
「もう来てます。今一緒に料理を……って」
倉橋は何かに気付いて、俺を置いて呆れたように台所に向かっていった。
綾部と倉橋が、いつどこで出会い、友人関係になったのか、俺は定かではない。やはり、女のコミュニケーション能力は侮れない。
「綾部先輩、包丁捌き危ういです。そんなんで本当に一人暮らししているんですか?」
「う、うるさいなあ! 食べられればいいの。食べられれば」
……本当に、友人関係なのだろうか。彼女達はこうして遊んだりするために会う度に、いつもしょうもない口喧嘩を繰り広げていた。
「手伝おうか?」
「先輩、料理出来ないでしょう? 引っ込んでてください」
倉橋に否定されて、俺は渋々机の前に腰を下ろした。テレビを点けると、面白くもないバラエティー番組がやっていて、ひな壇芸人達が弄られて、明らかにSEの笑いが継ぎ足されていた。
「あー、この番組面白いよねー。古田、わかってるじゃん」
「だろ?」
台所で声を張る綾部に、俺は適当に相槌を打った。へー、この番組面白いんだ。
返答がなくて台所を振り向くと、綾部はわかりやすく膨れていた。
「何さ」
「古田、思ってもないことに適当に同意するよねー」
「そう?」
「そうだよ。ね、真奈美ちゃん」
「はい。それは間違いないです」
二人に同意されると、恐らくそれは事実なのだろう。
「いつまでもはっきりしないしなー」
綾部が愚痴っぽく声を荒げると、倉橋はうんうんと頷いた。
こういう風景を見ていると、彼女達が仲が良いことはよくわかるな。うん。
「何がだよ。全然わからん」
「そういうとこだよ」
「どういうとこ?」
「シャキッとしてください、先輩」
二人の女性から責められて居た堪れない気持ちを抱きつつ、俺はその後もしばらく二人に文句なのかもよくわからないバッシングを受けていた。
責められているものの、この時間はこれまでの俺の人生では見えることはなかった、とても穏やかな時間なんだと気付いたのは、ようやく二人の機嫌が収まって、三人で酒を片手に鍋をつつき合っている時のことだった。
幸せだった。
この時間が、いつまでも続いてくれればいいのに。
そんなことを、心のどこかで俺は思っていた。
……突然、俺は急激な眠気に襲われた。
夢は、覚めた。
* * *
学校案内のパンフレットの所感文作成の手伝いも終えて、七月に入った。この頃になると梅雨も明けて、毎日照り付けてくる太陽にやる気を奪われながら、俺は早朝に学校に通うようになっていた。
いつかの中間テストの時よろしく、俺は七瀬さんから期末テストでも勉強を教えてもらうことになっていて、どうせだから早朝から勉強しようと言い出す彼女の提案を断り切れなかったのだった。
朝起きるのは得意ではなかったものの、さすがに一週間もそんな生活を続けると、体は慣れ始めて、今ではすっかり快活に学校に向かうようになっていた。
まあ、それは誇張表現であるのだが。
出来れば、本音は止めたい。だけど、止めると七瀬さんが怖いし、何よりこの行いは彼女の言い出した我儘ではなく、あくまで俺のため、という部分が大きかった。
他人がわざわざ俺のために早朝に通学してまで勉強を教えてくれようとしているのに、俺がサボるわけにはいくまい。
そんなことを考えている内に、俺は学校に辿り着いていた。
「あ、おはよう。七瀬さん」
下駄箱で、七瀬さんと出会った。
「おはよう。なんだかんだ、遅刻せずに来れてるわね。古田君」
「俺はやれば出来る奴だからな」
「いつかも言ってたわね。冗談だと思ってた」
「そりゃあ酷いなあ」
俺は苦笑していた。
丁度、その時だった。
校舎に、管楽器の音色が流れ出した。
最近、朝学校に来る度、この音色がよく流れ出す。
「……吹奏楽部ね」
「へえ」
ついつい聞き入っていると、七瀬さんがこの音色の主を教えてくれた。
「『トリトン・エムファシス』」
「トリトン……なんて?」
聞き返すと、七瀬さんは笑いながら教えてくれた。
「この曲のタイトルよ」
なるほどね。
「七瀬さん、吹奏楽にも精通しているんだね」
返事はなかった。多分、聞き入っているのだろう。
恐らく音楽室から奏でられているであろう音色は、時に荒々しい音色を、時に穏やかな音色を。時たま不作法に中断させられたりしながら響かせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます