学校案内パンフレット

 綾部さんに腕を引っ張られている内に、俺は自転車からバランスを崩してコケそうになっていた。渋々、自転車から降りて、彼女の隣を歩いた。


「古田、ごめんね。面倒事に巻き込んで」


 しばらくしてナンパ男達が見えなくなったところで、綾部さんは丁寧に頭を下げて謝罪してきた。


「いいよ。君のせいってわけでもないだろうに」


 俺は言った。

 そもそも、悪漢に絡まれていた彼女のせいって話でもないしな。……路地裏でナンパしただけで悪漢扱いしてごめんなさい。ナンパ男さん達。


「まあ、何か文句をつけるなら、俺が来なかったら何されたかわからなかったんだから、曖昧な態度も見せずに穏便にその場を離れなよってことくらいかな」


「う……。まあ確かに、あの人達に気圧されるばかりで、本心は言えませんでした」


 怒る気はないとか言っておきながら、彼女を凹ませてしまいました。ごめんなさい。


「ああいや、まあ、過ぎた話はしょうがないよ」


 取り繕う言葉を吐きながら、俺はふと疑問が過った。


「そういえば、なんであんな裏路地に?」


「ああ……、実はね、今お使い中なの」


「お使い?」


「うん。あたし、学校の方に住んでいるんだけどさ。家のそばに住んでいるママと仲が良いおばさんが入院しちゃってね」


「えっ、それはお大事に」


 というか、学校のそばに住んでいるのならば、電車で甲府駅に行ってから、ここまで歩いてきたのか? ここまで、結構距離あるぞ。


「うん。で、そのおばさんなんだけどさ、この辺の和菓子屋さんのお菓子が好きで、ママが買ってきてくれないかって。今度お見舞いに行く時に持っていくんだって。

 本人、今ちょっと立て込んでてさ。電車賃もお小遣いもあげるから、お願いって言われたの」


「なるほどね。……で、なんであんな裏路地に?」


 説明になっているようでなっていなくて、俺は首を傾げた。


「エヘヘ。道に迷っちゃった」


 納得。


「地図印刷して持ってくればよかったのに」


 俺は呆れたように言った。

 十年後なら、スマホが普及して困ることなんて一切ないのに。


「ダメだよ。地図だけじゃすぐわからなくなるもん」


 アハハと笑いながら、綾部さんは頭を掻いた。


 いや、笑いごとじゃないでしょ、それ。


「じゃあ、送ってく」


 であれば、こんな場所でこの子を一人置いて行くのは良心が痛んだ。


「えー、大丈夫だよ。悪いよ」


「それは現状を鑑みた上での発言でしょうか」


「う……」


 綾部さんは露骨に言葉に詰まった。


 俺はため息を吐いて、


「和菓子屋の場所はどこさ。この辺なら店名見ただけで大体わかる」


「……えぇと、ちょっと待ってて。それはお母さんにメモ書き渡されたから」


「君、よくその状態で俺の誘いを一度は断れたな」


「うう……」


 苦虫を嚙み潰したような顔をする綾部さんから、リュックサックから出したメモ書きを手渡された。

 店名を見て、ここから大体一キロ南西に行った場所にある和菓子屋が目的地であることを俺は理解した。


「こっちだ」


「へー、本当にわかるんだ」


 後に続く綾部さんの声は、感心げだった。


「当然だろう」


「なんだか、認めるのは癪だなあ」


 ムッとしたら、綾部さんは空気を察したのか背後でああでもないと慌てた様子を見せた。


「冗談。冗談だよう」


「わかった。ならいいや」


「……本当、古田変わったよね」


 あっさりと引いたら、綾部さんは物珍しそうな顔で俺を見ていた。


「なんだか、昔はもっと他人に興味がなくて達観しているように見えたんだよねえ。それが、この前の町おこしの件だもんなあ。驚きだよ」


「そう?」


 へえ、他人から見たらそんな風に見えていたのか。


「うん。まあだけど、とにかくありがとう」


 そう言った綾部さんの顔は、とても可愛くて、さすが七瀬さんも嫌いな公衆道徳なさげなカースト上位グループに所属する子だなあと思わされた。


 それからは雑談もしながら、綾部さんを目的の和菓子屋に連れていき、不安だったので駅までも送ってあげて、再び俺は自転車旅を再開するのだった。


   *   *   *


 放課後、須藤先生に呼び出しを食らったのは、綾部さんとの一件があった休日が明けた次の登校日のことだった。

 ただ、あのやり方は止めてほしい。ロングホームルームで俺に用事があることをあの男は伝えたのだが、それはわざわざ大衆の……つまりは他のクラスメイトがいる前で行われたのだった。


 その時の七瀬さんの、俺を刺し殺そうとするばかりの鋭い眼光は、正直背筋が凍る気分だった。


「で、用事ってなんですか?」


 職員室に入って須藤先生の机に着くや否や、俺は不機嫌そうに須藤先生を問い質した。


「まあまあ、とりあえず座れって」


 先生はどこか楽しそうに、俺に椅子を寄こした。


 俺がそれに座ると、


「最近、学校はどうだ?」


 先生はしみじみしながら言ってきた。


「楽しいですよ。色々と貴重な経験が出来ていて」


 言い終えて、俺は眉をひそめた。


「え、これ何の時間ですか?」


「ごめんごめん。最近、本当にお前変わったなあと思って、ちょっと聞いてみたくなったんだ」


「そうですか。そんなの良いから、早く本題に入ってくれません? 先生があんな皆の前で言うから、俺これから七瀬さんに怒られるんですよ? 謂れのない理由で」


「え、そうなの?」


「あの時の七瀬さんの鋭い視線、先生見てませんでした?」


「あー、ごめん。見てなかったわ」


 おい、この野郎。


「まあ、それは悪かった。だけどさ、とりあえずこの場は収めてくれよ」


「わかりましたから、本題に入ってください」


 呆れながらそう言うと、先生は目を丸めて、大きめなため息を吐いて続けた。


「実はさ、変わった古田君を見込んで、頼みたいことがあるんだよ」


「頼みたいこと?」


 俺が首を傾げると、須藤先生は頷いて、眼鏡の位置を直した。


「ああ、お前さ。夏休み中にウチの学校が、今年度の受験生に向けて、体験授業をやることって知ってるか?」


「知りませんでした。へえ、そうなんですね」


 自分が中三だった時、そんな体験授業なんて受けに行った記憶、俺はない。ただなるほど、そういうことをして、受験生を一人でも多く我が校に志願させる、という魂胆なのだろう。


「で、だ。その体験授業は、基本的には教師陣だけでなく、在学生である生徒会とかも参加して、受験生により近い目線、立場から体験談を語れる人を配備したりするんだが、ここではその話は一切合切関係ない」


「ないんかい」


「まあな。で、ここからが本題だ。そういう都合があるからウチの学校では大体、夏休み中のその時期までには、今年度の受験生へ向けての学校案内パンフレットを作成する手筈になっているんだ。

 それで、今年からそういう受験生へ向けての広報は、俺の仕事になったわけ」


「それは、色々と大変そうで」


 本題と言われた割に、本題が見えてこなくて、俺は微妙な顔をしながら頭を下げた。


 もしかして、仕事が増えたことに対する愚痴を言いたかっただけなのかな。だとしたら、俺怒るよ?


「でさあ、そういう立場になった今、俺はパンフレットに色々と自分色を出したくなっちゃったんだよ」


「自分色、ですか」


 つまり、自分がその仕事に関わった証、だな。そういうのは、成功さえすれば実績になるわけだから、下っ端仕事の多い須藤先生みたいな若い教師が、結果欲しさにやることはさして珍しいことでもないと思った。


 まあ、今回のパンフレット作成の件で自分色を出すというのは、多分そんなに難しいことではない。だけど、結果や実績になるかと言えば多分難しい。


 何せ、そういうパンフレットに自分色を出したとして、何をもって成功になるのか、の指針がないから。

 パンフレットというのは、受験に向けて作るのが当然のものであり、無ければ作る担当の評価が下がり、内容は仮にすこぶる良くても、そこまで大幅な評価アップは見込めない、というわけだ。


 つまるところ、


「自己満足ですよ、それ」


 どこまでそれに本気を出しても、それに時間を費やしても、自分の評価に繋がらないのであれば、時間を要するだけ無駄……とまではいかないが、情熱を滾らせる価値があるかと言われれば、というのが客観的な意見だった。


 須藤先生は怒ることもなく、意味を咀嚼し終えると高笑いを始めた。


「そうだな。だけどさ、受験生にとって目新しいとか、魅力的なパンフレットは、その学校に入学しうる判断材料に間違いなくなるだろう?」


「まあ、そうですね」


 なんだかんだ、受験生にとっての学校の情報って、そういう資料とか文献に限られるし。

 まだまだ直情的な感情をしていることが多い子供の学生が、パンフレット一つで入学を決意する、というのは少なくないのかもしれない。


 ……なるほどね。

 今までの話を総括するとつまり、須藤先生は自分の評価を上げるためでなく、来年度入学する生徒のために、パンフレットに自分色を出したいわけ、か。


「先生、そんなに情熱滾る先生でしたっけ?」


「誰かさんみたいに、俺も変わろうと思ってさ」


 須藤先生は、優しい笑みで続けた。


「町おこしの件で、俺は色々学ばせてもらったよ。

 生真面目で我が強い七瀬。

 変わったと宣うお前の強かさ。

 そして、ふがいない自分。

 ……とかね。先生は子供を指導する立場のはずなのに、お前達のせいで形無しだよと思ってな。折角だから、この学校をより良い学び場にするにはどうしたらいいか。

 どうしたら、もっと生徒にこの学校の魅力を伝えられるか。

 そんなことを考えて、実行してみようと思ってな。立場的にも、色々と都合がいいし」


「アハハ。なるほどです。で、先生はどんな自分色を出す気ですか?」


「こういうパンフレットってさ。ある程度構成が決まってるんだよ。学校の特色。それを生かしたなんとか。後は楽しそうな学校行事の写真をドーンと貼る。

 大体、こんな感じ。


 でもそんなのありきたりだし、何より受験生が一番知りたい情報って言えば、その学校で友達出来るかな、とか、先輩は優しい人かな、とか、どちらかと言えば生活の話だろう?」


「そうですね」


「だからさ、俺がやりたいって思ったのは、在学生の写真とその人の所感を載せること、だ。その人が日頃どんなところが面白いと思っていて、今の交友関係はどうなのか。後輩にはどんな態度で接したいと思っているのか。

 まあ、そんなところを載せたいと思ってる」


 なるほどねえ。


 ……結局、結構ありきたりじゃない?


 どうだどうだ、とドヤ顔な須藤先生に、俺は苦笑した。


「いいと思います」


「そうだろうそうだろう」


 満足げな須藤先生に、俺は目を細めた。


 ……まあ、いいや。


 この話を聞いて、俺がここに呼ばれた意味が大体読めた。


「で、写真撮影はいつで、何文字くらいの作文を書いてくればいいんですか?」


「え?」


「……え?」


 しばらく互いに見つめ合って、須藤先生は何かに気付いたようにああ、と手を叩いた。


「お前はパンフに載らないから安心してくれ」


「要らぬ恥、掻かせないでもらえます?」


「だってお前、成績も今回の中間良かったくらいで、生活態度も並だろう。……顔も並だろう」


 最後の呟きも聞こえたぞ、おい。


「一応イメージを決めるパンフだからな。優良生徒を載せるのが筋だろう」


「結局それ、事実隠匿じゃないか。選りすぐりの精鋭を載せて、この学校はとても凄いってやるんでしょう?」


「先生的にもパンフを理由に志願率が下がると怒られるんだよ」


「さっきまであんなに大層なこと息巻いた結果がこれかよ」


 呆然とする俺に、面目ねえと須藤先生は頭を掻いていた。


「……ってことは、俺が呼ばれたのは、その選りすぐりの先鋭のフォローってところですか?」


「その通り」


「誰です。七瀬さん?」


「いいや、違う」


「なんで? 成績も生活態度も優秀で、顔立ちも申し分ないでしょ」


「そうだけど。あいつは多分、社交辞令が出来ないタイプだ」


 つまり、忖度ない率直な所感を書かれそう、と。


 ……マジで、さっきのご高説はなんだったの?

 

「じゃあ、誰ですか?」


「綾部だ」


「へえ、なんか意外だなあ」


「そうでもないよ。あいつ、あれで成績は良いし、顔も申し分ないしな」


 教師が顔で選んでるよ。最低だな。


「生活態度は? 彼女のグループ、しょっちゅう騒いでるでしょ」


「グループまではパンフじゃわからない。それに、あいつは実はウチのハンドボール部のエースだ」


「へえ、知らなんだ」


 であれば、確かに申し分なさそうだ。書くネタもありそうだし。


「ただなあ」


 須藤先生は天を見上げた。


 まあ、俺が呼ばれたということは、俺が抱いた所感とは裏腹に現状は芳しくないというわけだ。


「本人の性格もあってか、結構作文作りに苦戦しててな」


「……ああ」


 確かに。

 先日のナンパ男達を退けられていなかった時の光景が、脳裏を過った。


 多分綾部さん、人が良すぎて須藤先生の押し売りを断れなかったんだろうなあ。


 彼女は一人暮らし始めたら、怪しげな新興宗教に入信させられそうで凄い不安だ。


「だから、綾部のフォローを頼むよ、変わった古田君」


「はい先生」


 俺は理解を示したのではなく、質問のために挙手していた。


「先生がやればいいじゃん、そんなの。なんか出来ない理由でもあるの?」


「よくぞ聞いてくれたな」


 初めから抱いていた疑問をぶつけると、須藤先生は待っていましたと言わんばかりに腕を組んでほくそ笑んでいた。


「実は、写真とかの編集作業が全然間に合ってない」


 そして、満面の笑みで右手でグーサインを作って、俺に拝ませた。


「印刷会社からの催促がヤバイ。だから、無理。

 綾部の件も今週中になんとか頼む。


 これ以上は印刷会社から学年主任とかに話が行って、大目玉を食らいそうでヤバイ。マジヤバイ」


「なるほど。つまり、もう当初の納期は過ぎているんですね」


「はい」


「先生、そういう話は納期が来る前に言ってください」


「……はい」


 シュンとする須藤先生の肩を、俺は叩いた。


「文字数は?」


「四百字です」


「原稿用紙一枚分、か」


 俺は腕を組んでしばらく思案した後、続けた。


「明後日中に校正までしてお渡ししましょう」


「おお……!」


「その代わり、今度ラーメンを奢ってください」


「おお……」


 たかがラーメンでそこまで凹むなよ。千円くらいだろ、千円くらい。


「嫁に接待費として仰裁切ろう」


「え、先生既婚者だったんですか?」


「え、そうだけど……? 子供も、今五歳くらいだ」


 須藤先生って、今確か、三十少し過ぎだったよな。


 つまり、二十六歳くらいにはもう結婚したくらいだった……?


「どうした、古田先生」


「……途端にやる気が失せてきた」


「そう言わないで頼むよ。本当、マジで。ラーメンだったら奢るからさあ!」


 これ以上のやり取りは俺の心臓が抉られるだけと判断した俺は、大きめなため息を吐いて、須藤先生曰く今も綾部さんが頭を悩ませているらしい、教室に向かうことにするのだった。

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