第2話 結

 永吉スーパーの道を隔てた真向かいにある茜のうちは、俺の住む古いアパートと違い、四階建てのマンションだった。彼女はそのマンションの3LDKの部屋で、ルームシェアをして住んでいるという事だった。

 そんなわけで、俺と茜は、俺の部屋で半同棲をするようになった。


「ねぇ、見て。カーテン買ったの」

 俺が仕事から帰ると、茜はカーテンレールに白いカーテンをかけていた。


 うちのアパートはベランダが広い。室内に洗濯機を置くスペースが無いからだ。つまり、ベランダに置け、というわけだ。そして、俺の胸──乳首より少し下辺りまで隠れる高さの手摺は柵ではなく、幅が15センチぐらいの、しっかりとした外壁だ。後ろ向かいは普通の家屋で、二階の俺の部屋を覗いてくるような奴はいないし、床が広い分、太陽光が部屋の中まで差し込み、畳を傷めるという事も殆ど無い。

 つまり、茜がいるからといって、カーテンを買う必要性は全く感じなかったのだが、茜はそうではなかったらしい。


 カーテンが欲しいと最初に言われた時、

「カーテンよりベッドの方が必要なんじゃないか?」

 と言ったら、

「シングルじゃ狭いし、ダブルだと置くスペースが無いじゃない。だから、部屋の床、全部がベットだと思えばいい。私達はベッドに住んでるの」

 と言って、俺にキスしてきた。なので俺は、畳の上に茜を押し倒した。


 白にした理由は、俺のニコチン中毒に対する牽制なんだそうだ。カーテンを肺と仮定し、カーテンの汚れ具合が、俺の肺の汚さなんだそうだ。今すぐに止めろとは言わないが、せめて本数は減らしてほしいんだそうだ。

 俺は茜の高説を聞きながら、吸いたくなった。


 茜は、およそ二日に一回、泊まった。

 俺の部屋のベランダにブラジャーやパンティーを干すのは抵抗があったようだし、俺の部屋に彼女の服を置く場所も無かったからだ。

 金曜の夜から月曜の朝までは俺の部屋に居たが、生理の間は、

「一緒に居たら、したくなるじゃない」

 と言って、来なかった。

 茜の作った飯を食い、風呂に入り、やった。

 風呂でもやった。ベランダでやろうと言った時は、枕が飛んできた。

「バカ! 変態!」

 は、ちょっと傷ついた。

 コンドームが無かった最初の夜はともかく、生理が終わった後や始まる前は、搾り取られた。


 壁に張ったカレンダーに、茜は、自分の来れない日や、職場の忘年会の日などを書いていた。

 仕事納めの後が忘年会なのは毎年の事なので、書く必要も無いと思ったが、茜にすれば最初の忘年会なので、そういうのを書きたかったのかもしれない。


 ❖❖❖


 12月29日。


 茜は、来年のカレンダーをかけて表紙を破り、1月のカレンダーに、早速、仕事始めの日に赤ペンで丸をつけていた。

 白いカーテンは、裾がうっすらと茶色くなっていた。煙草を吸う時は、できるだけベランダに出るようにしていたが、茜の全身が性感帯になってる時は、煙草臭いキスをお見舞いしてやるのに、片手で彼女の身体をさすりながら、ふかしたのだ。


 意地悪でそうしていたんじゃない。最初にそれをねだったのは茜だ。

 初めてエクスタシーを感じた茜は、俺にキスをねだった。俺がキスすると、

「これじゃない」

 と首を振った。

「あのキスが欲しいの」

 俺の目を見てそう言った後、彼女の視線は炬燵の上の煙草へと泳いだ。俺が吸って壁に向かって煙を吹き付けると、

「いい匂い」

 と、うっとりと儚げに笑い、キスしてやると、そのまま眠りについた。


「里帰り?」

 赤ペンにキャップを戻した茜は、今夜、泊まれない理由を言った。

「そう。帰って来いってお達しが来たの。だから、今夜中に準備しないと」

「へぇ。…って、そういや、故郷いなかって何処?」


 茜は、ペンを顎に当て、上を向いて考えた後、


「…田舎。ちょード田舎。つか、島」

 そう言って、わざとらしい程、大きな溜息を吐いた。

「帰りたくないんだけどねー。そうも言ってられなくって…」

 赤ペンをペン立てに戻し、憂鬱そうに顔を顰める。

「わざわざ迎えに来るらしいの。…逃げないように」

「逃げないようにって、何だよそれ」

「言葉の通り。だって、私が帰りたくない事、むこうも知ってるもん」

 俺は、少し間をおいて、

「じゃ、ここに居るか?」

 と、半分は冗談、だが半分は本気で聞いてみた。そんなに帰りたくないなら、帰らなければいい、と本気で思っていたからだ。


 俺も、兄貴が結婚して親と同居するようになってからは、1回も帰っていない。兄貴の嫁さんが、俺の幼馴染で、まして俺の初恋の女だとは、親はどうか知らないが兄貴は知らなくて、そしてこれは本当に家族の誰も知らない事だが、俺の筆おろしは、兄貴と知り合う前の兄貴の嫁さんだ。

 兄貴の嫁さん──名前をアヤという。

 アヤとは付き合ってたとかそういうんじゃない。本当に、やっただけの関係だ。それも1回こっきり。失恋したアヤが俺のところに来て、一人になりたくない、とホテルに行った。俺は傷ついているアヤをこれ以上傷つけるつもりは無かったし、童貞で自信も無かったから、添い寝するだけのつもりだったが…まぁ、俺は聖人君子じゃねえ。結局、やっちまった。

 だが、その一回でアヤは吹っ切れたのか、俺は幼馴染としてもお役御免となり、次に会った時は、兄貴の婚約者だったわけだ。

 そんな女の居る家に帰れるわけは無いし、アヤも俺が居ると気が気じゃないだろう。それに、兄貴が結婚して、アヤが子供を産んで同居するようになってから、俺の孫も見たいという両親の有言の圧迫も物凄く、俺は、帰郷の面倒臭さと、その圧を理由に帰らなくなった。


『ここに居るか?』

 そう言った俺に、茜は目に涙を滲ませているように見えた。だが、それはすぐに引いて、唇の端を高く吊り上げて、歯を見せて笑った。そして、ゆっくりと首を横に振ると、

「ありがと。でも、やっぱり帰らなくちゃ。ごめんね。変な事言って」

 と言いながら俺の横に座り、

「というか、こんな事を言いたかったわけじゃなくって、そんな理由で、しばらく会えなくなるから『しよ』って言いたかったんだよ」

 と、俺の首に両手を巻き付けてキスの勢いで、俺を押し倒した。


 凄かった。

 間違いなく、今迄で一番凄かった。

 俺は、自分の体がバカになったんだと思った。

 し始めたのが何時だったのかは覚えていないが、昼飯を食って、まったりしてたんだ。茜が食器を洗って、カレンダーを掛け変えて…それから、ずっと、お互いを貪った。

 陽が陰りだした頃、茜の白い肌のいたるところに、俺が噛みついたり、吸いついた痕が残り、俺の体にも、茜が噛みついたり、引っ掻いたりした傷ができていた。這う這うの体で、トレーナーを引き寄せて被ると、背中と両腕、それから肩の首の付け根が擦れて痛かった。

 茜もいかにもダルそうに、何度か休憩を挟みながらブラジャーをつけ、パンツを履いた。

 お互い、腰が抜けていた。

 結局、日付変更線を越えてから、俺が茜を車でマンションの真ん前まで送っていった。


 ❖❖❖


 年が明け、仕事が始まっても、茜は帰って来なかった。

 気が付けば、茜は無断欠勤で馘になっていたようで、新しい事務員が紹介された。


 俺と茜が付き合ってた事を知る奴はいない。

 思い返してみれば、俺は茜とやってばかりで、デートらしいデートをした事が無かった。茜が作るから、飯屋に行く事もなく、カーテンを始め、茜がうちに来て増えた物は、茜が一人で買ってきた物だった。

 忘年会でも、茜は俺にくっついて来るわけでなく、事務所に席のある課長や部長にお酌をして回っており、俺も、工場長や同じレーンの担当者、もしくは他の班で関わりのある奴等と、仕事の延長のような話を交えつつ、飲み食いしていた。


 俺の家の中には、茜との思い出だけはそこかしこで渦巻きながら、茜の物は何一つ残っていなかった。


 仕事には真面目に取り組みつつも、タイムカードを押した後は抜け殻だった。

 永吉スーパーで買った巻き寿司とインスタントの味噌汁を食ってると、電話が鳴った。故郷の幼馴染である谷裕太から電話がかかった。


 こいつは、ぼけーっとした顔をしてる割りに、頭も良くて運動も良く出来る。そして、アヤの恋人だった男だ。高校の教室で二人は抱き合ってキスをしていた。恐らく、その頃にはもう、それ以上の事もとっくに経験していたんだろう。そのアヤを、裕太はあっさりと捨てた。遠距離恋愛をする程には、アヤに本気じゃなかったというのが奴の言い分だ。


 それを聞いた時は、俺も腹を立て、もう絶交するしかないと思っていたが、成人式で久しぶりに会って話すと、やっぱりいい奴で、こうして互いの連絡先ぐらいは教え合うぐらいの仲には戻っていた。


 その裕太が、こっちに来るという。


『22日なんだが…どうだ? 暇か?』

 俺は壁にかかったカレンダーに目をやった。22日は木曜日だった。

「悪い。仕事だわ」

『あっ? お前んとこ、日曜日も仕事なのか?』

「は? 木曜日だろ?…あっ」 


 俺が見ていたカレンダーは1月だった。仕事始めだった5日には、5の数字を囲う赤丸がついていた。


『もしもし』


 遠くから裕太の声が聞こえ、俺は現実に戻り、11月22日の日曜日の19時に裕太と呑む約束をした。翌日は勤労感謝の日だ。多少、深酒しても問題は無い。


『遅れんなよ』

 と、裕太が念押ししてきたので、俺は「へいへい」と軽い返事をして切った。


『ここに居るか?』

 俺は、なんであの時、こんな中途半端な言葉を言ってしまったんだろう。いや。その後も、俺達はもうクタクタで、まともに歩くのもしんどくて、俺があの時、「もう、帰らなくてもいいじゃん。寝よう」とでも言って引き留めていれば、情けないながらも、茜もきっと同意して、一緒に昼過ぎまで眠ってたに違いない。


「茜…」


 俺は部屋を見回した。

 部屋は茜が来る前の状態に戻り、白かったカーテンは、ところどころに白かったような形跡はあるものの、薄汚れ茶色く染まっており、その向こうには、夜に浸食されて燃え尽きそうな茜色の空。

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