白いカーテン

久浩香

第1話 起

 1Kの俺の部屋に初めて彼女がやって来たのは初秋の頃の夕方だった。

 築年数なら30年は余裕で越えているだろうアパートで、昼間の暑さばかりに気を取られ、急に冷え込みだした朝夕に頓着せず、真夏の条件反射で扇風機をつけ、パンツ1丁で寝こけていたせいで風邪を引いてしまった俺を心配したのだそうだ。


 その日の俺はというと、便所に行こうと、畳の上に敷いた万年床から起き上がろうとしたが、ふらっとして膝に力が入らなかった。へたりこんで胡坐をかくと、やけに肩が重いような気がしたのだ。首を左右にひねり、もう一度、立ち上がるのさえ億劫だったが、このままでは膀胱が限界にきてしてしまうと、気を奮い立たせ、ようよう立ち上がって用を足しに行ったのだった。

 だが、それが限界だった。

 体温計をどこにしまったかなんかは、とうの昔に忘れ、計ったわけではないが、熱がある事は計らずとも解った。

「まいったな」

 抽斗からスウェットを取りだして、布団の上に戻って着替えた俺は、そう独り言ちた後、煙草を吸いながら、部屋を見回し、どこに何があるかを考えた。

 無精者の第六感とでもいうのだろうか。俺の虫は妙に働くのだ。俺の部屋ははっきり言って汚い。だが今は、汚いなりにもゴミは少ない。何故か一昨日、急に思い立って、そこら辺に散らばった目についたゴミを集め、昨日の朝、ゴミ収集所に持っていったところだった。この間の日曜日には、1.5Lのスポーツドリンクの安売りと遭遇し、ケースで買った内、3本を空にしたが、まだ5本残っている。そして昨日、仕事帰りに寄ったスーパーでは、半額シールを貼った総菜や寿司等が、結構余っていて、嬉し気にカゴの中に放り込んだ。家に帰った後は、(誰がこんなに食うんだ?)と、後悔したが、今朝の俺は、よく買っておいたものだと、心のガッツポーズを決めたのだ。

 四つん這いで冷蔵庫に向かい、お稲荷さんをスポーツドリンクで流し込んだところで、会社に人が来る時間になった。


 携帯電話で職場に電話をかけた。電話に出たのは事務員の彼女だった。俺が、風邪を引いたので、今日は休む旨を伝えると、彼女は、いつもよりワントーン低い声で「お大事に」と言った。彼女といっても付き合ってるわけじゃ無い。というか、殆ど接点が無い。今年入社してきた彼女とは、出社してタイムカードを押しに事務所に入った時に、挨拶を交わす程度だ。

 可愛いとは思う。朝、明るい声の『お早うございます』を聞くと、なんというか、いい気分になる。だから、『お大事に』と低い声で言われた時も、本当に心配してくれてる様な気がして、嬉しかった。


 職場に連絡した後、本立て替わりというわけではないが、いつの間にか、そういう用途になっていた薬箱から取り出した風邪薬を飲んで、寝た。

 寝たり起きたり食ったり寝たりを繰り返し、夕方になって呼び鈴が鳴って起きた。薬が効いたのか、汗をかいたせいか、体は軽くなっていた。だが、眠りすぎたせいで、頭がぼーっとしていた。こきこきと首を鳴らしながら、携帯の時計を見れば17時42分で、いつもならまだ働いている時間だなと、思っていると、呼び鈴がもう一度鳴った。

(これは…俺が居る事を知ってやがるな?誰だ?)

 俺は溜め息をつき、面倒だと思いながら玄関を開けると、そこに彼女が立っていた。


「えっ?」

 俺はさぞ間抜けた顔をしていただろうと思う。彼女は両手にスーパーの袋を持って、強張った顔をしていた。

「今晩は」

 彼女がそう言って頭を下げたので、俺も玄関のドアノブを右手で持ったまま、

「今晩は」

 と頭を下げた。


「あ、あの…。何も食べてないかもしれないと思って、料理、作りに来ました」


 なんといえばいいんだろう。いかにも勇気を振り絞ってるって感じだった。笑顔を作ろうとしてるんだろうけど、いつもの自然な笑顔じゃなく、引き攣ったような無理矢理な笑顔だった。俺も、状況が把握できず、何の表情もとってなかったと思う。

 無反応な俺に、

「ご、ごめんなさい。…その、迷惑…ですよ、ね?」

 と、彼女はお辞儀をして、やって来た通路を引き返そうとしていた。しょんぼりした彼女に、俺はようやく覚醒した。裸足で土間に降り、

「ま、待って」

 と、左手で彼女の腕を掴んで引き留めた。引き留める俺に、彼女は俺に顔を向け、キョトンと驚いた顔をしていた。

「ごめん。全然、迷惑なんかじゃ…。というか、むしろ、嬉しいんだけど、…ごめん。ちょっと、びっくりした」

 そう弁解する俺に、彼女はようやく自然に笑った。


 部屋の中の通路の台所で、彼女は鍋を洗うところから始めた。一昨日の晩、ラーメンを作った後、そのまま流しに置いたまま忘れてたのに気づいたのは、彼女が靴を脱いでいる時だった。

 およそ来客など無いので、当然、座布団なんか無い。炬燵の敷布団は敷いてあるので、炬燵を布団の方に寄せ、彼女が座れる場所を作った。枕元に散らばった本を積み上げたりしてると、ごそごそする俺に、

「気にしないで、ゆっくりしてて下さい」

 と、彼女は部屋に入ってきて、煙草の煙が漂う部屋の窓を透かした。


 1時間程で、彼女は炬燵の上を、布巾で綺麗に拭いた後、布団に座る俺の前に、卵とネギのお粥を丼によそって持ってきてくれた。作ってる最中も、時々、部屋に入っては、細々とした物を積み上げたり、コロコロでゴミを取ったり、灰皿の灰を捨ててくれたりと、ちょこまかと働いてくれるので、なんとも申し訳なかった。

 湯気の立つお粥は、いかにも美味そうで、俺は礼の代わりに「いただきます」と彼女の顔を見ながら顎を下げ、匙を入れた。美味かった。少しは上品に食おうと思ったが、ついつい茶碗の縁を口につけ、掻きこんでいた。

 あっという間に平らげた俺に、彼女はクスクスと笑って

「おかわり、注いできますね。…良かった。まだ沢山あるから、食べてくれなかったらどうしようかと思った」

 と、腰を浮かせて、炬燵の上に置いた茶碗を取り、匙を、一緒に持って来てくれた沢庵を乗せた皿の上に置いた。


「沢山あるなら、八木さんも食べなよ。…一緒に食べよう」

 そう言うと、彼女は俺の方に顔を向け、心底嬉しそうに笑って「はい」と答えた。俺はドキリとした。


 食った。たらふく食った。たらふく食って、彼女が洗い物をしている間、俺は、片方の手で腹を撫で、もう片方の指で残った沢庵をつまみ、齧っていた。

 台所から戻った彼女は、風呂場から洗面器とタオルを持って帰ってきた。炬燵の上にタオルを敷いて洗面器を置くと、


「汗、拭きますから、上、脱いでください」

 こともなげにそう言う彼女に、びびった。いやいやいや。あまりにそれはまずいだろうと、びびらずにはおれなかった。


「いや、いいよ。それは、流石に…悪い」

 そう言いながら、後ろにやった体の体重を片手で支え、もう片方の手を横に振ったが、彼女は絞ったタオルを持って、

「遠慮しないで下さい。そのままだと、また、風邪、引いちゃいます」

 と、俺の方へ迫ってきた。


 色々、反省しなきゃいけないのは、結局、男の方なのか、彼女は、俺を枕のある壁を向かせ、自分は布団の足元の方に座ると、せっせと拭いてくれた。ほんの少し熱めの温度が、肌にすっと滲み入って来るようで気持ちよかった。首を少し右に動かすと、摺りガラスの窓があり、外はすっかり暗くなっていた。


「そういえば、どうして俺んちが解ったの?」

 彼女がやって来た時から考えていた疑問をぶつけてみた。


「………履歴書…です」


「えっ?」


「草薙さんの履歴書で、アパートと部屋番号を調べて…ごめんなさい」


「…そっか」

 俺は出来得る限り素っ気なくポーカーフェイスで返事をしたが、内心、

(えええーーーっっっ!!!???)

 だった。


「でも、近所なのは知ってたんですよ。永吉スーパー。私のうち、あそこの向かいですから。草薙さん。休みの日は、車じゃなくて、自転車か歩いて来てますよね」


「あ…うん」


「いつも、声をかけようか、どうしようか迷ってる内にいなくなっちゃってて、それで今日、お休みするって聞いて、つい…って、これってやっぱりストーカーでしょうかね」


 確かに。これを、どうでもいい女にされたんだったら、いくら俺でも、気持ち悪いと思って引いていただろう。だが、二十歳そこそこの、若くて可愛い娘さんで、良いと思ってる彼女だからなのか、そうは思わなかった。

 彼女の手を止めて、濡れタオルを握りしめた両手を膝の上に降ろして俯いていたが、俺は腰を捻って後ろを向き、そのまま両膝で立って彼女を抱きしめ、彼女の右の頬を俺の胸に埋めた。


「草、な、ぎさ…」


 一人暮らしの男の部屋に入って来たのは彼女の方だ。同じ職場の人間の体を心配するおせっかいの範疇もとっくに超えてる。今更、そんなつもりじゃ無いなんて言わせないし、そんな言い訳、誰が聞くか。


 彼女は、力をこめる俺の腕の中で、わたわたと慌てているようだったが、やがて大人しくなった。不思議なもので、ついさっきまで、彼女が逃げ出すのを前提に考え、絶対に逃がさない、逃げようとするなら無理やりにでもやってやる、なんて物騒な事まで考えていたのだが、いざ受け入れてくれそうな感じになると、疑問が生じる。そんなうまい話が俺の身に起こるわけがないと、警告音が鳴ったのだ。

 俺が知ってる彼女は、同じ職場の事務員で、八木茜という名前だけだ。二十歳そこそこだと思っているが、それだって見た目の印象だけで、本当にそれぐらいの年齢なのかは解らない。女は化ける。もしかしたら俺と同じ26歳とか、下手すれば三十路を越えているかもしれない。まぁ、それならそれでも良いのだが、問題は性格だ。実は、うかうかと手を出したらヤバいタイプの女かもしれない。実際、今日の彼女の行動力からして、その片鱗が無いとはいえない。

 腕にこめた力を緩めるて下を向くと、彼女も俺を見上げた。覚悟を決めたような神妙な表情をしている。大きな瞳の中に俺の情けない顔が映って見えた。

(まあいいか)

彼女がどんな地雷を抱えていたとしても、それすらどうでも良く感じ、とにかく今、彼女を猛烈に欲していた。寝るだけ寝た。食うだけ食った。熱は下がり今は違う熱にうかされている。それだけの事だ。本能のまま、俺は彼女の唇に自分の唇を押し付けた。

 彼女も、俺の背中に腕を回し、肩甲骨の辺りを指先が触れた。俺を抱いていいものかどうか戸惑っているようだった。

 舌先で彼女の唇をこじあけ、前歯をなぞる。門が開き、その奥の彼女の舌を舐った。

 俺は彼女の頭を枕に寝かせ、彼女の上に覆いかぶさった。

 積み重ねた本の内、一番上に置いたハードカバーの本の角でサッシを押して、窓を閉めた。


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