ブロッサム:エクスプロージョン
EP1 超存在の恋
EP1 超存在の恋 1 海へ
「はぁ……」
ため息をつきながら、家主のイルが外の海を眺めている。
頬杖をつき、うっとりとした目で。まるで恋する乙女だ。何千年も生きてきた超存在だというのに、色恋には免疫がないらしい。
「グレイス様……」
近くで見ているジルのことも気にせず、イルは想い人の名前を呼ぶ。
「どうしましょう。着るものがないんでした。そうだ、服がない! ど、どうしましょう!?」
イルは急にこちらを振り返り、早口で質問をしてきた。
「ジルは詳しいですよね。現役女子高生ですから!」
言いながら、イルは迫ってきた。ジルは少したじろぐ。
「さ、さあ……デートなんてしたことないから」
ジルは答えつつ、クローゼットに新品の服が残っていたか思い出そうとした。
動画用の予算から、イルのために撮影用の私服をまとめて通販したことがある。だが、イルはそれらの服にほとんど袖を通さなかった。
イルは普段、胸のところが伸びてしまったアニメのシャツを大事そうに着ている。仕方がないので、通販で買った服はジルが使っている。
サイズはだいたい合うので、ジルのでよければいくらでも貸すことはできる。だが、それでいいのかどうか。聞けばその想い人、グレイスなる人物とデートする約束をしたという。
「で、で、デートではありませんよう! 会うだけ! お仕事のお手伝いです!」
イルは真っ赤になり、ぶんぶんと手を振りながら騒いだ。
デートでないというなら、いつものイルを見せればいいのではないか。後でできるだけまともな普段着を選んであげようとジルは思う。
「そんなことより編集作業。ほら、ごはん食べて」
「う」
現実に引き戻すことを言って申し訳ないと思うが、先日の撮影の編集がまだ残っている。近くのコンビニで食事を買ってきたので、早く食べてその作業に戻らなくては。
ジルが世話になっているイルは、この別荘を拠点に動画クリエイター「フェブラリーサイダーケーキ」として活躍する人気の人。その人気を維持するためにも、動画の投稿を絶やさないように心がけている。
別荘の住人となったジル、ジリアン・オックスリーは、イルの仕事を支える助手としてすっかり落ち着いている。そうなった経緯については、とても一言では説明できない。
だが、今の立ち位置はジルの性質によるものだと言える。仕事以外に頓着しないイルを見ていて、ジルは放っておけなかった。
芸術家肌と言えばよく聞こえるが、ようするにイルには生活力がない。それを近くで見ていたジルは、ついつい手を出すようになっていった。
最初は状況についていけず悩んでいた。だが次第に別荘での仕事が増え、やがて家事全般を引き受けるようになった。日々を忙しく過ごし、あれこれ悩むことはなくなった。
「ジル、ケチャップは?」
キッチンで食事の準備をするジルの袖を引く、短い白髪の小さな少女がいる。
この子の名はシノカという。信じがたいことだが彼女は魔法的存在で、亜人と呼ばれる種族である。
「冷蔵庫になかった? 急いで買ってこようか」
「いい。がまんする」
シノは、ジルによく懐いてくれている。初対面では恐ろしいインパクトがあったが、今ではすごくいい子である。
初めて会った時、シノはジルの義父に化けていた。小さな女の子に見えるが、シノは見た目通りではないということだ。
その後で、シノに襲われかけた。あれはきっと、何かのはずみだったのだろう。そう思うことにしている。
「そうした方がいいです。しょっぱいものばかり食べると健康によくないですから」
キッチンに来て言いながら、シノの頭を撫でるイル。一見するとどこにでもいる普通のお姉さんのようだが、イルにも実は正体と呼べるものがある。
イルは、超存在と呼ばれる人知を超えた存在なのだ。いくつもの魔法を使いこなす、数千年の時を生きる魔女である。
「あなたほど長く生きた人の言葉、重みが違いますね」
そのイルに失礼を言うのは、来客のダリア。シノが開けた冷蔵庫から、家主に無断でビールの缶を取り出している。
この人もまた、安易には話せない過去と仕事を持っている。もとは連邦捜査官、現在は活動家なのだそうだ。
亜人に魔女、元捜査官のテロリスト。今のジルの周囲は、「変わっている」で済まされない人たちばかりである。
「午後から、撮影は?」
食卓についたシノは、ジルに予定を尋ねてくる。
「今日は無理かなぁ。この前の、カメラの台数が多かったから大変で……」
スケジュールの管理を担うジルは、その質問にすぐに答えることができる。
「じゃあ出かける」
予定がないと知った瞬間、シノが言う。最近よくこういうことがある。
「……シノ、変なことはしてないんだよね?」
心配になったジルは、シノの目を見て確認した。
「おかいもの。それだけだよ」
シノは淀みなく、目を逸らすことなく答えた。
「ならいいけど……」
お買い物というのは、嘘ではないだろう。シノは最近、変ながらくたを収集している。
シノの部屋は少し変わっている。ベッドがなく、床にマットレスをひいて寝ている。その周辺に、ジルにはよくわからないものが増えてきている。
「大丈夫ですよ。シノは見た目よりしっかりしてますから。ね~」
イルは、楽観的な言葉で話を遮った。またシノの頭を撫でようと手を伸ばし、避けられている。
シノも動画撮影を手伝っているので、イルの収益から取り分が出ている。個人的な買い物は当然の権利だ。干渉すべきではないのだろうが、少し気になる。
「ほら、口についてますよ」
心配するジルをよそに、イルは小さなシノの口元を拭ってあげている。
「そういうの、いい……」
「動いちゃだめですよ。はい、できた」
嫌がるシノをきれいにし、イルは嬉しそうにしている。
構いたがりのイルに、いじっぱりのシノ。年の離れた姉妹か、ともすれば親子のように見える。ジルは、そんな様子につい表情が緩んでしまう。
「まあ、いいか……」
ここに来る前、ジルは家族の団欒とは無縁な場所にいた。この風景は、何よりも求めていたものだ。
悪意のある人たちじゃない。みんなそれぞれ出自は普通ではないかもしれないが、きっと問題なくやっていける。
ただの人間であるジルにできることは少ないかもしれない。だが、ここで力を尽くすと決めた。この海辺の別荘が、今のジルにとっての家である。
食事を終えたダリアは、冷蔵庫からとってきたビール缶を開けた。
失敗だった。中の飲み物はぬるくなっている。もう、そんな季節なのだ。
季節のせいだけではないかもしれない。一人で食事をする時はそもそも時間をかけないからだ。
ぬるいビールをぐっと飲み込み、ダリアは砂浜に座るイルに近づいた。
「まだ
そう煽ってみても、イルは頬杖をついて海を眺めているだけだ。
聞こえてはいるのだろうが、ぼんやりしている。さっきと同じだ。グレイス・ハートへの恋に浮かれた物憂げな横顔である。
ダリアはグレイスをよく知っている。カリスマ性をそなえた人物だということも理解している。超存在の中では若輩のイルが惚れ込む可能性は、考えられなくはない。
だが、大きな問題がある。
「相手はメテオライトのカウンターです。あなたとは相容れないですよ」
そうなのだ。グレイスは、他の超存在と先約済みである。
「……わかっています」
イルは海を眺めたまま、ダリアの顔も見ずに答えた。
「私のような存在を、あの方はきっと赦さないでしょう。まるで、鋭く研ぎ澄まされた正義の刃」
平坦な声で、イルは言った。惚けていても、それがわからないほどバカになってしまったわけではないらしい。
イルが言う通りだ。二人がうまくいきそうにないのは、ただグレイスが別の超存在と組んでいるからというだけではない。
性質上、グレイスは秩序の側にいるからだ。悪役であるイルとは相容れない。たとえイルが、善意から行動しているとしても。
イルとグレイスはつい最近、町で偶然に知り合ったそうだ。
出会いそうな機会は前にもあった。二人が最接近したのは、ノストークの事件の終盤だったと記憶している。鉄塔での戦いで、二人は初めて同じ場に居合わせた。
その後、ブロッサムの事象改変事件でもかなり接近した。それら二度の機会はどちらも顔が見えるような状況ではなく、面識とまではいかなかった。
だからグレイスは、イルが超存在ガイアだということを知るよしもない。お互いに戦場に身を置きながら、そんな偶然で知り合うことになった。
そこまでなら、ただの偶然で済む話だった。
「……なぜ、また会う約束などしたんですか」
ダリアは、つい責めるような口調になる。
「ろくな結果になりはしないのに」
よりによってグレイスだ。ダリアにとっても複雑な関係の相手である。せっかく捨てたしがらみを、こんなところでちらつかされたくない。
「そうですね。私の気持ちは、決して届くことはないでしょう」
しかしイルは、あっさりと破綻を認める発言をした。
「何を望んでいるんです……?」
ならどうしてグレイスに会うのか。イルの考えを知りたくて、ダリアは質問する。
「私の行いは、後世に残せない悪行です。宿願を果たした後、私を断罪する者が必要じゃないですか」
イルは、真剣な声でダリアの質問に答えた。
なおも、青い海から目線を外さず。しかし、恋に浮かれていたさっきまでとは表情が違う。
「いつか正義の刃が胸を貫いて……この傷の痛みを終わらせてくれる。それが……私の……」
細く切ない声で、イルはつぶやいた。
海風が髪を揺らす。髪のカーテンに透けて、イルの横顔がとぎれとぎれに見える。
「そういう期待、あの子にしても無駄ですよ」
ダリアは言う。グレイスは甘い。イルが考えるような断罪は期待できないだろう。
犯罪者であるダリアの命を奪うことはなかった。自滅しそうだったメテオライトも、グレイスが繋ぎ止めたのだ。
グレイスは命を奪わない。おそらく、
「それはどうでしょう」
イルは言って、ダリアに顔を向けた。
「私ほどの巨悪を知れば」
その顔に浮かぶ表情は、寂しそうな笑顔だった。淡い色の目の中、わずかな期待を灯している。
そんなイルの気持ちは、ダリアには少し理解できてしまう。良きにつけ悪しきにつけ、グレイスには思わず何かを期待してしまうような強さがあるからだ。
そうして浜辺で話すイルとダリアを、遠くから見ている者がいた。
「撮影はしばらくないか……都合のいいこと」
大人びた口調だが、体は少女。本当の姿を隠した獣は、自分にとって最大の守護者であるイルを冷たく判断している。
一歩引いた位置。白い髪は陽光を浴びることなく、別荘の陰にある。
動画撮影が少なくなって外出の機会が増えるというなら、計画を進めるのに都合がいい。シノには今、欲しいものがある。
それを手に入れる。そうなれば、もうイルのカウンターでいる必要はなくなる。
寂しさも後悔も、シノの心から消え去った。獣の本性に戻った彼女は、一人で砂浜を歩き始める。
一方、大陸の反対側の海でのこと。
「あれが新世代のリゾート、ウトピ島です!」
若いガイドが、音割れしたマイク音声で言ってきた。メリッサは思わず、眉間にしわをよせる。
「見てください! 本当にきれいな砂浜でしょお!」
小型プロペラ機のエンジン音だけでもうるさいのに、事あるごとにこの調子だ。ホノルルを出てからずっと、心穏やかになれない。飛行機にはいい思い出がなく、それが塗り替えられることはなさそうだ。
下が海というのも落ち着かない。メリッサは泳げないのだ。
一方、隣に座るシリウスは窓にはりついて外を見ている。ガイドの言うことを素直に聞いているし、このうるささを気にした様子はない。
それを見て、少しほっとする。シリウスには、ゆっくり羽を伸ばしてほしい。
儚く小さな少女のように見えるシリウスだが、地球に三人しかいないとされる超存在の一人。見た目通りではない。オンボロ機をはるかに超える速度で飛行できる彼女にとっては、こんな騒音はなんでもないのかもしれない。
だとしても、責務から離れた時間を作ってやりたいのだ。休暇をとってはどうかという知人のすすめがあり、こうして孤島リゾートへ一週間旅行に来た。
目の前にあるのは、ハワイの北に位置する太平洋の孤島。カナレイカにしろブロッサムにしろ、LDと関係する事件は大西洋で起きている。ここは地理的に大きく離れていて、休息にはうってつけだ。
小型機はゆっくりと島を半周し、粗末な飛行場を目指して降下を始めた。到着すれば、しばらくは穏やかな時間が続くはずだ。
この時、メリッサはまだわかっていなかった。今、この太平洋がどれほど危険な場になってしまっているのかを。
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