転機

 あれから二ヶ月程がたち、昴はお兄ちゃんになった。弟が誕生したのだ。

 しかし、出産予定日よりも二週間程早く、帝王切開によって産まれたその子は未熟児で、命の危険を伴っていた。それだけでなく、その子は大きな障害を負っていた。

 両足が殆ど無い状態で母親のお腹から拾い上げられたのだった。


 昴は初めて見るその物体に衝撃を受けた。この小さな塊が生きているという事、その命があやういという事、必死に生きようとしている事。まだ小学一年生の昴にもはっきりと感じる事が出来ていた。

 ぼくの弟。ぼくが絶対に守ってやるんだと幼心にも決意が生まれていた。

「がんばれば、カイトのようになれるよ。がんばれ」

 昴はこの小さな赤ん坊に声をかけ続けた。


「ねえ、ぼく、おとうとがカイトみたいになってほしいんだ。イスバスのヒーロー。ねえ、シュートっていうなまえにしてよ」

 弟は柊斗しゅうとと名付けられた。

 大きな危機を乗り越えて、生後一ヶ月程で柊斗の容態は安定し、家族四人での生活が始まった。


 足を持たずに生まれてきたのは海斗も同じだった。どのように育てたら良いか、悩みが多い昴の両親にとって、海斗から様々なアドバイスを貰える事は本当にありがたく心強かった。

 昴は弟の面倒をみたり、母親を助ける為に、毎日イスバスの練習には通えなくなったが、行ける時は必ず行った。そして、健気けなげに頑張る昴を見て、両親はバスケットボールと子供用のスポーツ車椅子を昴に買い与えた。昴は練習に行けなくても、自宅でコツコツと練習し続けた。


 柊斗はすくすくと元気に育った。一歳の誕生日を迎える頃、勿論立ったり歩いたりする事は出来ないが、ハイハイは力強く、元気に家の中を這いずり回っていた。

 昴も家では弟と一緒になって、足を使わずにハイハイをしたりしながら遊ぶ事が多かった。逆立ちして歩いたり、手だけで歩いてみたり、どういうわけか勝手に身に付けていった。

 そんな兄と一緒になって遊んでいるうちに、柊斗も成長に伴い、自然とそんな動きを身に付けていった。



 昴が小学四年生になった時、大きな転機が訪れた。

 昴は急に背が伸びて身体能力もグッと上がった。付いていくのに必死だったイスバスの練習で、少し物足りなさを感じるようになってきていた。自分が思い切りプレーをすると、障害を持った大人達をどんどん出し抜いてしまう。スピードを手加減し、パスを手加減し、相手に合わせなければならない事が少し苦痛に思えてきていた。パラスポーツは障害者のスポーツ。その意味が少し分かったような気がした。

「ぼくはここにいちゃいけないのかも」


 海斗が練習に参加している時はまだ楽しめたが、その年はオリンピックイヤーで、パリパラリンピックに向けて、海斗は日本代表合宿に出掛けてしまう事が多かった。昴は練習に参加しない日が多くなり、海斗も昴の心の変化に気づいていた。


 パリ五輪が始まった。ドゥーリハのイスバスチーム「ドゥーリハリハ」はみんなで、日本バスケのゲームをテレビ観戦する事にした。海斗は昴を呼んで、一緒にテレビ観戦させた。健常者のバスケとイスバスは共通点が多く、学ぶ事が沢山ある。海斗はテレビを観ながら、みんなに色々教えていた。

「昴、日本の四番、なぎの動きを追ってよく見るんだ。どう思う?」

「え?」

 昴は暫くの間、黙って凪の姿を追っていた。

「すごい‥‥‥、と思う。あんなふうになりたい‥‥‥、と思う。たぶん‥‥‥」

 本当にそう思ったのか、無理にそう思おうとしたのかは分からない。東京パラリンピックで海斗を見た時の感情とは少し違う気がした。


 海斗がテレビに顔を向けたまま言った。

「隣町に小学生の強いバスケチームがあるんだ」

 まだ海斗が話し続けようとしているのに、いきなり昴が立ち上がり、怒りの声を上げた。

「分かったよ」

 それだけ言って、昴は部屋を出ていった。


 昴はここを追い出されたような気持ちになっていた。海斗も昴を追い出してしまったような気持ちになっていた。

 それっきりだった。


 海斗は昴の家に電話をかけ、一連の事を母親に話しておいた。最後に言った。

「何か自分に役立てそうな事があれば、いつでも連絡下さい。スバルの事はずっと応援していますから」と。


 夕飯の時、昴の方から両親に話してきた。

「バスケをやりたい。となり町に強いチームがあるんだ。電車で一人で通うし、めいわくはかけないから、やらせてください」

 両親はこんな昴を初めて見たと思った。いつもの無邪気さは無く、しっかりとした口調だった。昴が成長したからなのかもしれないけれど、両親は少し心配になった。

 それでも、これが正しい道なのではないかと二人は考えた。父親が言った。

「日曜日に一緒に見学に行ってみるか」と。

「お願いします」と昴は言った。


 見学に行ったその日にミニバスチームに入った昴は週に六回ある練習に通った。電車で往復三時間位かかる。学校から帰ってすぐに出発し、夜遅くに帰ってきて家では眠るだけの毎日だ。昴は誰よりも熱心に練習し、すぐにレギュラー、スタメンで活躍するようになった。

 イスバスの事は封印し、海斗が出場したパラリンピックも一切見なかった。あれほど夢中になって乗り回していた車椅子には全く乗らなくなった。三歳になった柊斗が車椅子に興味を持ち始めていたので「これはシュウトにあげるよ」と手放した。

 柊斗と遊ぶ時間も全くなくなった。

 イスバスの事、柊斗の事、昴はわざと距離をおくようになっていた。


 宇川昴の名前はミニバス界にあっという間に知れ渡った。昴が六年生になった時に、チームは全国優勝し、昴はMVPに選ばれた。

 そして、小学校を卒業したらアメリカにバスケ留学する事を自分で決め、それを実行したのだった。



 昴はミニバスを始めてから、その前迄の事は一切封印してきたので、ブリスベン五輪の後、十年ぶり位にあの頃の事を思い出した。オレがバスケを始めた本当の原点はパリ五輪の涼元凪じゃなくて、東京五輪の進藤海斗しんどうかいとだったんだという事が、はっきりと蘇った。



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