外伝集 暁天/払暁Ⅰ

泡野瑤子

助ける者

助ける者

 いつまでもいつまでも泣き声はキューアン邸に響いていた。

 事の発端は五日前、主人夫婦の大喧嘩だった。息子シシーバの教育方針を巡って意見が合わず、かねてより険悪だったキューアン夫妻はついに爆発した。

 妻のシドマは、厳しい剣の稽古に耐えられず泣く息子を哀れに思い、夫のコーウェンに抗議した。だがコーウェンは、「シシーバは将来大将軍としてニアーダ軍を束ねる子だから厳しく育てるのは当然だ」と譲らなかった。挙句の果てに、「息子を産んだお前にもう用はないからひとりで実家に帰れ」とまで怒鳴った。

 シドマは激昂し、「私だってこんなところに嫁に来たくなかった。子どもだっていらなかった」と離縁状を叩きつけ、本当に実家に帰ってしまった。

 当時七歳だったシシーバは、その一部始終を目の当たりにしていた。

 何しろ母に捨てられたのだから、泣くのは当然だろう。しかし、五日間も大声で泣き通す子はなかなかいないのではないか。

 お坊ちゃまのご機嫌を取ろうと、屋敷中の使用人たちがいろいろ手を尽くしてみても甲斐はなく、さすがにみなほとほと困り果てていた。

「シシーバ、いい加減泣くのをやめんか。男のくせに情けない」

 屋敷の主、東方大将軍コーウェン・バンクパット・キューアンが一人息子を叱り飛ばしていたのも二日目までだった。怒鳴るとシシーバは余計に泣いた。泣き疲れて寝て、起きてまた母がいないことを思い出して泣いて、剣の稽古や座学のときも、食事のときも泣いていた。

 もともとシドマは我が子の面倒など全く見ず、キューアン家の財を浪費して自分のヒオラを何着も仕立てさせるような女だった。いてもいなくても同じだとコーウェンは考えていたが、まさか息子がこれほど泣くとは。かつて智将として名を馳せたコーウェンの、唯一の失策といえるかもしれなかった。

 ソニハット王がコーウェンにご相談をなさったのは、ちょうどそんなときだった。偶然助けた、青い目の孤児のことだ。


***


 母上に捨てられてから七日目。

「君は、どうして泣いているの?」

 シシーバが布団から泣き腫らした目より上だけを出すと、そこには痩せこけた男の子がいた。

 真っ白だ、とまずシシーバは思った。髪も白っぽいし、肌もお粥みたいな白さだ。でもよく見ると瞳は青かった。こちらを見つめる表情は硬く、目つきも鋭い。

「だ……誰?」とシシーバが聞くと、「バライシュだ。さっきコーウェン様がそう言っただろう?」と聞き返された。

 怖くてまた涙が出た。ついさっき父上がシシーバの寝室にやって来て彼の紹介をしたのに、シシーバは布団をかぶっていたからあんまり聞こえていなかったのだ。

「今日から僕は、ネイルさんの息子としてここで暮らすことになった。よろしく」

 バライシュはもう一度、なぜ自分がここに来たのか説明した。

 顔は怖くても、使用人の息子なら怯える必要はない。シシーバは、ふくれっ面のままむくりと起き上がった。

「バライシュ……?」

「そう。ええと、君は、……シシーバだったよね?」

「ダラハット、だよ」

 シシーバはわざと眉をひそめてみせた。

「この家で俺をシシーバと呼んでいいのは、もう父上だけだ」

 確かに、名門貴族の子であるシシーバを、孤児出身のバライシュが一の名ジムナで呼ぶのはとんでもない無礼ではあった。でもこれは単なる八つ当たりだ。母上を失った悲しみを、自分より立場の弱いバライシュにぶつけただけだった。

「ごめん……僕はまだ『礼儀』をあまり知らないんだ」

 バライシュの青白い顔がさっと赤くなった。

「すぐに覚えるから、許してくれないか」

 ほんの少し意地悪してみただけのつもりだったのに、バライシュをひどく恐縮させてしまった。

 気の毒だったけれど、まだシシーバから謝れるほど大人ではなかった。「いいよ、別に」と偉そうに許してやるのが精いっぱいだった。

「でも、同じ人にいくつも名前があるなんて不思議だな」

 バライシュがつぶやく。

「僕は十年間名無しだったけど、少しも困らなかった」

 シシーバは「嘘だ」と声を上げた。

「名前が無かったら、どうやって呼べばいいの?」

 バライシュは筋の浮いた首を傾げた。

「青い目、とか」

「青い目の子が二人いたら、どうするの」

「僕以外にはいないよ」

「いるよ。西方人さいほうじんはみんな目が青いって、兵学の先生が言ってたもん」

 さいほうじん、という言葉が分かっていない様子のバライシュに、シシーバは「ずーっと西のほうに住んでいる人たちだよ」と言い直した。

「そうなのか」

 バライシュは頭を掻いた。

「僕はずっと街で暮らしていたから、勉強なんてしたことがない。知らないことだらけだ。このお屋敷では、何もかもが初めてのことばかりで……」

 シシーバにとっても、バライシュは初めて見る「青い目」だった。人の顔をじろじろ見るのは失礼だ、と父上にはしつけられているが、好奇心を隠しきれずについまじまじと見てしまう。

 と、青い目と目が合った。

「涙が止まったな、ダラハット」

「あ」

 シシーバも言われて気づいた。バライシュのおかげで、いつの間にか悲しい気分を忘れていた。

「俺、本当は泣いちゃだめなんだ」

「どうして?」

「だって、俺は大将軍になる男だから……」

 バライシュがきょとんとしているので、シシーバは「この国を守る兵士の中で一番偉い人のことだよ」と付け加えた。それでも、バライシュはうーんと唸るばかりだった。

「僕にはよく分からないな。君は誰かが助けに来てくれるんだから、どんどん泣けばいいのに」

 そんなことを言う人は初めてだった。

 バライシュはどうなのだろう。泣かないのだろうか。親も家もなかった彼を、助けに来てくれる人はいたのだろうか。幼いシシーバでも、その答えはなんとなく察せられた。

「ダラハット、僕はコーウェン様にご恩がある。だから、君が泣いているときはきっと助けるよ」

 バライシュがぎこちなく頬を緩めた。怖いと思っていた顔が、ほどけるように優しくなった。

 シシーバはようやく布団から這い出て、バライシュの手を握った。

「俺と一緒に来て」

 バライシュの背はシシーバより高かったけれど、掴んだ掌は骨と皮ばかりで折れそうに細かった。

「これ、シシーバ。静かに歩かんか」

 書斎で書き物をしていた父上が、ばたばたと足音を立てて入ってきた息子を見もせずにたしなめる。

「父上、お願いがあります!」

「何だ。シドマなら戻らんぞ」

「母上のことではありません」

 その声を聞いて、父上はもうシシーバが泣いていないことにようやく気づいたらしかった。

「バライシュに、私のことをシシーバと呼ばせたいです」

 父上がじろりとシシーバを睨んだ。

「よく考えて言っているのか? お前を一の名ジムナで呼ばせるということは、孤児上がりのバライシュを兄弟として扱うということだ。ほかの使用人が、バライシュを悪く思うかもしれんぞ?」

「私がいいと言ってるんです。文句がある人には、この家から出て行ってもらいます!」

 まだ薄い眉を一生懸命吊り上げて、シシーバは叫ぶ。何日も泣いていた七歳の幼子は、いま両足を踏ん張って立ち、自分の望みを厳格な父親に認めさせようとしていた。

「お前はどう思う」

 父上はバライシュに水を向けた。

「シシーバの兄代わりになるなら、お前にも一緒に剣術や学問の指導を受けてもらう。決して楽ではないぞ」

 それまでぽかんと口を開けて父子のやり取りを見つめていたバライシュは、少し間を置いて「はい」と答えた。

「僕もたくさんのことを学んで、陛下やこの家の役に立ちたいです」

「よくぞ言った。もとよりお前をネイルの子としたのは形だけのこと。バライシュよ、私もお前をキューアン家の子として扱う」

「やったー!」

 シシーバは両手を上げて喜んだ。

「バライシュ。これから、シシーバをよろしく頼むぞ」

「は……はい! ありがとうございます!」

 バライシュの青い目が輝いた。

 晴れた日の空みたいな色だ、とシシーバは思った。(了)

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