アンニュイ紀行文
@nickbalbossa
社員旅行
人生のうちで全く気の進まない旅行というのは二度だけで、どちらも同じ会社の社員旅行だった。
貴重な土日の休みが潰されるのを考えるだけでうんざりしたしそもそも、会社自体を僕は嫌っていた。
低賃金長時間の重労働な上、古臭い昭和の社会悪を凝縮したような職場だったのだが、不景気で悲惨なほど金がなかったので仕方なく勤めていた。
社員旅行は毎年春の終わりに行われていた。
一度目の行き先は宮崎だった思う。
思うというのは、入社直後だったこともあり本当にあまり覚えていないのだ。
大抵の観光地は以前バイクで周ったことがあったので、目新しいことはなかった。
高千穂峡に行ったことと、貸切バスで隣になった副社長がなかなかの好々爺だったこと、移動中僕がほとんど寝ていても文句ひとつ言わなかったことだけを覚えている。
二度目は高知県周辺だった。こちらは断片的だが記憶が残っている。
社員旅行は何故かいつも課長の小男が仕切っていた。
本人は毎年大変だと言っていたが、率先してやっているのを見ると名誉職のようなものだったのかも知れないし、太鼓持ちのきらいがあったので社長へのゴマスリも兼ねていたのだろう。
高知までは貸切の観光バスで向かった。小さな会社だったので、支社の人間を合わせても1台で移動ができた。
バスは後部の三分の一の座席がコの字形に設置されたサロンバスになっていて、小男の挨拶もそこそこに早速宴会が始まった。僕は酒は好きだが、宴会は面倒なのでなるべく避けていた。
なので僕は通常座席の方に陣取っていたが、宴会が始まってしばらくすると上司がやってきて「参加するのが一応礼儀だから、お前もちょっと付き合え」と忠告しに来た。
僕はそれまでの一年間をなるべく気の利かない愚鈍な人間を演じることで、余計な付き合いや残業から身を守ってきた。
そうするうちに、最低限参加が必要な場面だけは上司がなんとなく伝えに来るという妙な人間関係が出来上がっていて、そういう時だけは僕も仕方なく付き合いに加わっていたのだった。
付き合うと言っても近くの人間と適当に話して飲み食いするだけだったので、お酌をすることもされることも、今持って礼儀がわからないでいる。
いくつか寺社仏閣に寄った後、高知市内のホテルに到着した。
名前は覚えていないが、市電通り沿いで高知城から程近かったことは覚えている。
ホテルに着くとまた宴会が始まり、品のない宴会芸などをさせられた。
料理は大皿に刺身、揚げ物、焼き物といった多種多様な料理が盛られていて、いかにも四国の田舎然とした感じだった。
接待に来た仲居によると高知には「おきゃく」という宴会文化があり、この大皿料理も特徴のひとつらしい。
大皿と一緒に妙な盃と賽子も提供された。盃はそれぞれ天狗、おかめ、ひょっとこを模しており、賽子は駒の形をした六面賽子で、それぞれに盃の絵が2つずつ書いてあった。
どれにも一度酒を注がれたら飲み干さない限りはこぼしてしまうように細工が施されており、六面賽子をふって出た目の盃で飲むというお座敷遊びの道具らしい。
どうやらいつの時代にも、酒を飲ませようとする人間は数の多寡はあれど存在したようだ。僕の居た卓でも回し飲みが始まったが、三周ぐらいで飽きてくれたのが幸いだった。
カラオケラウンジで二次会もやったが、唯一覚えているのは嬢の白い二の腕に煙草をきつく押し付けた「根性焼き」の跡がいくつも残っているのを見つけて、後ろ暗い気持ちになったことだけだった。
僕は酒をしこたま飲むとアルコールの副作用で眠りが浅くなり、必ずと言っていいほど早起きをする。
その日も同僚上司が寝静まる中早起きをしてしまったので、一人でそぞろ歩きをすることにした。その時まで全く自由な時間がなかったので、とても爽やかな気持ちだった。
高知城の方向に行くと朝市が立っていて、まだ6時だというのに大変な賑わいだった。
市には海産の乾物や漬物などが並ぶほか、刃物が多く見られた。後から知ったことだが、土佐は古くから刃物作りが盛んだったらしく、今では伝統工芸に指定されているらしい。
鋼板を撃ち抜いて整形したらしいクジラを模したナイフ見つけて、2,000円と安かっため、マッコウ鯨とミンク鯨のものを一つずつ買った。
可愛らしい見た目とは裏腹に結構しっかり刃がついていて、十年以上経過した現在も時々使っている。
朝食の前に宿に戻ったので、僕の外出にはほとんど誰も気が付かなかった。
朝食を済まして宿を出ると貸切バスは桂浜に着き、そこでしばし自由散策の時間があった。
この桂浜も、僕は以前にバイク旅行で来たことがあったので、大して見て回るものがなかった。
ただ、やはり海は美しく爽やかで、黒い砂つぶが目立つ砂は踏み心地が良く、僕はひたすら波打ち際を歩いて時間を潰した。
この近くの浜辺で野宿をしたことがあるが、その浜は砂利浜だった。桂浜の方が湾奥になっているので、粒子の軽い砂だけが集まってくるのだろう。
時間めいいっぱいまで砂浜で遊んで集合場所に戻ると、他の会社の連中が集合写真ちょうど撮り終えたのが見えた。
どうやら僕が周囲に見当たらないので、僕抜きでさっさと済ましてしまったらしい。いてもいなくとも同じということだったのかも知れない。
僕は寂しいような、すがすがしいような砂色の乾燥を感じた。
海沿いの国道に鰹の藁焼きを体験させてくれるあり、そこで昼食を取るのが旅行の最後の行程だった。
藁焼きは自分で焼いたこともあり実に美味しかった。塩をつけて食べることを勧められたが、僕はやはり土佐酢に生姜の方が良いと思った。
高知では近年鰹の取れ高が芳しくないらしく、今食べたものも静岡で獲れたものということだった。
帰りの車内は流石に皆疲れが見え、ほぼ全員眠りこけていたし僕もたっぷりと眠ることができた。
会社に着くとそのまま解散になり、それぞれ疲労の色を滲ませつつ散り散りと帰路について行った。こんな体力気力の浪費を毎年欠かさずやっている意味が全く理解できなかった。
翌日の出勤を思うと暗澹とした気持ちになり背中を丸めたが、朝市で買ったクジラのナイフと桂浜で感じたすがすがしさを思い出すと、心が慰められた。
その二つを思い出すことで、この社員旅行にようやくの意味を見出すことができた。
そして、高知にはまた自由な時間をたっぷりとって訪れようとも思った。
その夏に僕はこの会社を辞め、これ以降勤め先で旅行に行くようなことはなかった。
もう二度と経験することがないという意味では、貴重な体験だったのかも知れない。
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