君のとなりに

古井論理

新たなる始まり

 僕はただの発達障害持ちの小学六年生。それ以上でも以下でもない。それ以上になるには……虚構と妄想の世界に生きるよりほかないだろう。

「丸木、紅茶を淹れなさい」

「はい」

 僕に指示を下すのは、椅子に座っている竹田さん……いや、帆花ほのかお嬢様だ。現実では、彼女も僕と同じはぐれ者で発達障害持ちの小学六年生。だが虚構の中では、僕は彼女に仕えている執事だ。

「茶葉はいかがいたしましょうか」

 お嬢様はさっきまで読んでいた分厚い本を閉じ、机をトントンとたたきながら少し考えた後僕に命じた。

「アールグレイでお願い」

「かしこまりました」

 竹田さんの親は、忙しすぎて帰ってこられないということになっている。でも、それは事実とは違う。実際のところ、彼女の親は忙しいのもあるかもしれないがそれ以上に面倒くさいという意識から、彼女を家に置き去りにしている。彼女の家は築30年の戸建て住宅だ。僕はいつも午後の4時間を彼女のためにそこで過ごしている。家にいる時間よりも、学校にいる時間よりも、どんな時間よりも、彼女のために彼女が親から渡されている金で買い物に行き、食事を作り、虚構の中で遊んでいる時間が大好きだ。

「どうぞお飲みください」

 僕はソーサーにティーカップを載せ、そこにお茶を注いだ。

「ありがとう」

 お嬢様は静かにカップを取ると、少し紅茶を口に含んだ。

「今日は少し甘いですわね」

「喉が渇いていたのではありませんか?」

「そうかもしれませんわね」

 お嬢様は椅子から立ち上がり、ランドセルの横にある水筒を開けて水をカップに注いだ。

「丸木、そろそろ夕食の時間ではなくて?」

「かしこまりました、準備いたします」

 僕は冷蔵庫からトマトとにんじんを、段ボール箱からじゃがいもと玉葱を取り出した。カレールーの箱に書いてある通りの作り方で、カレーを作っていく。そして仕上げに、業務用のチョコレートソースをカレーに入れて混ぜた。

「お嬢様、夕飯の準備ができました」

「ありがとう。いただきますわ」

 帆花お嬢様はスプーンを使って、カレーを口に運ぶ。この笑顔を見ているだけで、救われたような気分だ。

「おいしいわね」

「ありがとうございます」

「丸木も一口食べていいですわ」

「いえ、そういうわけには」

「いいんですのよ。私の命令なんですから」

「ありがとうございます」

 僕はスプーンを取りに行く。帆花お嬢様は静かに僕を待っていた。

「では」

 僕はカレーを一匙小皿にとると、口に運んだ。自画自賛に聞こえるかもしれないが、そのカレーは家で食べるカレーよりも学校の給食よりもずっと美味しかった。

「どう?」

「美味しいですね」

「そう、よかった」

「では片付けを」

「ちょっと待って」

「なんでしょうか」

「この前言った中学校の話よ。丸木、部活は何にするの」

 お嬢様はコップを置いて、私の方を真剣なまなざしで見ていた。

「もちろん部活はいたしません。帆花お嬢様のためなら、部活ができないなどたいした苦痛ではありません」

「そう……」

 お嬢様はそう言ってから返した。

「それは駄目」

「どうしてですか」

「私は部活がしたいから」

「それはつまり……」

「そういうことよ」

「わかりました。ついていかせていただきます」

「それでこそ私の執事よ。それで、私は吹奏楽部に入りたいの」

「かしこまりました。私も吹奏楽部に入部します」

「頑張ってね」

 帆花お嬢様は無邪気とは言いがたい笑顔で笑った。虚構の中にも食い込んでくる事実が、僕を得体の知れない不安で包む。しかし僕は、できるだけ自然な笑顔で返した。

「はい」

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